Uga 子・鼠


1.本居宣長 は享保15年(1730年)6月伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿仲買商である小津家の次男として生まれる。約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著した。使用されている語の訓を附し、その後に詳細な註釈を加えるという構成になっている。『古事記』の「やまとごころ」を重視し、儒教的な『日本書紀』の「からごころ」を退けるという態度を貫いた。


2.『古事記』八十神に幾度か殺された大穴牟遅神を御祖の命は木国の大屋毘古神の御所に遣った。大屋毘古神は大穴牟遅神を木の俣より逃がして根の堅州国の須佐能男命のもとにやった。その女須勢理毘賣を見て、目合した。大穴牟遅神は須佐能男命から数々の試練を受けるが、それを妻の助があって乗り越えてきた。


3.『古事記』鳴鏑を大野の中へ射入れて、その矢を採らしめたまひき。故、その野に入りし時、すなわち火をもちてその野を廻し焼きき。ここに出む所を知らざる間に、鼠来て云ひけらく、「内はほらほら、外はすぶすぶ。」といひき。かく言へる故に、其の處を踏みしかば、落ちて隠り入りし間に火は焼け過ぎき。ここにその鼠、その鳴鏑を咋ひ持ちて、出で来て奉りき。その矢の羽は、その鼠の子ら喫ひつ。


4.『古事記伝』
○鳴鏑 書記などの訓に、那流訶夫良(なりかぶら)とあれども、字鏡に、鏑奈利加夫良とあるに依て訓べし。名ノ義は、鳴神夫理矢なり。【神カミの微ミを略き、理夜リヤは良ラと切る。】天智紀に、有細響如鳴鏑 とある如く、射れば空を鳴り行くが、雷に似たればなり。【蔓蕪根カノカブラの形に似たる故の名と云は、ひがことなり。そは返りて此の鏑に似たるから、彼の根を加夫良といふなり。】此の矢、記中に往々見えたり。古へもはら用ひし物と見ゆ。書記に八目の鳴鏑と云 ものあり。【八目とは、其の鏑に窮アナのいくつもあるをいふ。】和名抄に日本紀私記云、八目鏑ノ夜豆女加布良ヤツメブラとあり。【雷ナルカミをただ神ともいへば、鳴鏑とも、加夫良とのみ云ふべし。又は後に鳴を略キて加夫良とのみ云か。加夫良をもとに、其中に鳴ルを分けて鳴鏑と云ふには非じ。】萬葉九【九丁】に響矢ともよめり。【此ノ響矢を、今本の訓には、加夫良とあり。神中抄には那流夜ナルヤとあり。(以下略)
現代文○鳴鏑。書紀などでは「なるかぶら」と読んでいるが、新撰字鏡に「鏑は『なりかぶら』」とあるのによる。この名の意味は「鳴神夫理矢(なりかみぶりや)」である。【「かみ」の「み」を省き、「りや」は「ら」に縮まった。】天智紀に「細い音があり、鳴鏑のようであった」とあるように、射ると空を鳴りながら飛ぶのが、雷(ナリカミ)に似ていたからである。【蔓菁根(なのかぶら)のかたちに似ているからという説は誤りだ。逆に、それがこの鏑に似ているから付いた名である。】この矢は、記中のところどころに見える。いにしえにはよく用いられたものらしい。書紀にも八目の鳴鏑というものが出ている。【八目とは、鏃にいくつも穴があるのを言う。】和名抄には「日本紀私記(弘仁私記)にいわく、八目鏑は『やつめかぶら』」とある。【「雷(ナリカミ)」は単に「かみ」とも言うので、鳴鏑も単に「かぶら」と呼んだこともあるだろう。あるいは後に「鳴」を省いて「かぶら」のみを名としたのか。「かぶら」が元になって、そのうちの鳴るものを鳴鏑と呼んだのではない。】万葉巻九【九丁】(1678)に「響矢(なりや)」ともある。【この「響矢」は、今の本では「かぶら」と読んでいる。袖中抄には「なるや」とある。○ところで「鏑」はすべて鏃(やじり)のことであり、特に「かぶら」と読む根拠はない。これは漢籍にある「鳴鏑」というものが、こちらの「なりかぶら」に似ているために、この字を当てたのであって、「鏑」の一字を「かぶら」と読むのも「鳴鏑」から転じたのである。


5.『古事記』の鳴鏑 大年神(オホトシノカミ)の神裔
次に大山咋神(オホヤマクヒノカミ)、亦の名は山末之大主神(ヤマスヱノオホヌシノカミ)。この神は、近つ淡海国(アフミノクニ)の日枝山(ヒエノヤマ)に坐(イマ)し、また葛野(カヅノ)の松尾(マツノヲ)に坐して、鳴鏑(ナリカブラ)を用(モ)つ神なり。


6.『古事記』○鼠。和名抄に鼠ハ和名禰須美ネズミとあり。
○冨良フラは、物の中の空虚ウツボにして広きを云。洞など是レなり。そは廓ホガラカを約ツズメたる言なり。【凡て物の、殻カラはかりにて、中に実シなく空虚なるを、冨駕良ホガラと云は此意なり。朝冨良気アサボラケと、冨駕良ふがら冨賀良と明行アケユクを云ると、全く同意るを以ても、冨良と冨賀良と同じきをしるべし。


○須夫スブは窄スボきなり。【統スブるも本は、広ごりたる多くの物を、一ッに集めて窄スボくなす意よりいふ言なり。此レ須頻スボを須夫スブと通はし云例なり。】さて内とは、鼠の地ツチノ中ナカに構へたる穴の奥をいひ、外とは、其ノ穴の入口を云なり。【外は登と訓べし。曾登と云は俗イヤし。其ソは背面ソトモと云ことを、外面と意得たるより生まれしなろべし。背面ソトモは山ノ陰キタを云と、書記成務ノ巻に見えて、背津於母ソツオモをつゝめたるなり。外面の意にあらず。中昔より歌などにも、外面の意によむはかなはす。外はただ登なり。】然れば如此云る意は、己が地中に構へたる穴の奥は、廓に廣し。入口は窄狭スボクセバれば、火の焼入べき由なし。故暫此ノ穴ノ内に隠カクレ坐て、難を免れ給へとなり。さて富良も須夫も、重て云るは、鼠の鳴ナクに象カタドれるにや。


○落隠入は、淤知伊理加久理オチイリカクリと訓べし。【隠入は、入隠とありを、写し誤れろか。又は入ノ字は、加久理如如軌に当て書るか。もし然サもあらば、淤知加久理と訓べし。さて隠を理加久と云は、古言の格なり。下に見ゆ。】自彼ノ鼠ノ穴ノ中へ落チ入りて、御身の隠レ給へるなり。かくて其ノ問に、彼ノ野火は穴ノ外を焼過去ヤクスギユキて其ノ難を免レ給ひつ。さて上に、大樹に矢を打立て、其ノ割目ノ中に入ラしむと云ヒ、叉自リニ木ノ俣漏逃と云ヒ、今此に鼠ノ穴に入て隠レ給ふと云るを、合せて思へば、此ノ神も、少那毘古那ノ神の如く、身体の甚小く坐シけるにや。されどこは、たしかに物に見えたること無ければ、定ノては云ヒがたし。【書記に少那毘古那ノ神のことを、大己貴神即置掌中而玩ブ云。とあるを想へば同じ程に小き神とも見えず。】


現代文○鼠。和名抄に「鼠は和名『ねずみ』」とある。
○富良(ほら)は、ものの中が空虚で広いことを言う。洞(ほら)などもそうである。それは廓(ほがらか)を縮めた語である。【ものが殻ばかりで中身がなく空虚なのを、俗に「ほがら」と言うのは、この意味である。また「朝ぼらけ」というのと「ほがらほがらと明けて行く」というのと、全く同意なので、「ほら」と「ほがら」とは同じ語だと知るべきである。】


○須夫(すぶ)は「窄(すぼ)き(せまい)」である。【「統(す)ブル(統べる)」も、もとは広がった多くのものを一つに集めて、窄(すぼ)くすることを言う。「すぼ」を「すぶ」と通わせて言う例である。】ここで「内」とは鼠が地中に掘った穴の中を言い、「外」とはその入り口を言う。【「外」は「と」と読むべきである。「そと」と言うのは卑俗な言葉だ。それは「背面(そとも)」という語を「外面」の意と思い込んだことから、混同されたのだろう。「背面は山の陰(北)を言う」と書紀の成務の巻に見え、「そつおも」を縮めた語である。外面の意味ではない。中昔の歌などでも、外面の意味に解するのは適切でない。外はただ「と」である。】鼠がこう言ったのは、「私が地中に掘った穴はほがらに広く、入り口は狭いので、火が焼け入る心配はない。しばらくその中に隠れて、難を逃れてください」ということである。
ここで「ほらほら」、「すぶすぶ」と重ねて言っているのは、鼠の鳴き声を摸したのだろうか。


○落隱入は、「おちいりかくり」と読む。【「隱入」は、「入隱」とあったのを写し誤ったのか。または「入」の字を「かくり」の「り」に当てて書いたのか。もしそうなら、「おちかくり」と読むべきである。ここで「かくれ」を「かくり」と言うのは、古言の言い方だ。後にも見える。】自分からその鼠の穴に落ち入って、身を隠したのである。その間に火は穴の上を焼き過ぎて、その難を逃れた。前に大樹に矢を打ち立てて、その割れ目に入らせたと言い、また木の股から漏(く)き逃れたとあり、ここでは鼠の穴に入ったとあるので、この神も少名毘古那神に似て、体が非常に小さかったのだろうか。しかしここのことは、確かな文献に出ていないので、確実なことは言えない。【書紀では、少名毘古那神を、「大己貴命は手のひらに載せてもてあそんだ」とあるので、同じほど小さかったとも思えない。】


7.『日本書紀 孝徳紀』
@ 元年冬十二月九日 天皇は都を難波長柄豊碕に移された。老人たちは、「春から夏にかけて、鼠が難波のほうへ向かったのは、遷都の前兆だった。」と語り合った。
A 二年九月 越国の鼠が昼夜連なって東に向かって移動した。
B三年十二月 渟足の柵を設けて柵戸(きのへ、柵に配置した屯田兵)を置いた。老人たちは、「このところ、毎年、鼠が東に向かって行くのは、柵が造られる前兆だった。」と語り合った。


8.日本の昔ばない 鼠の予言 野火止めの溝 を大きくしないと村が焼けてしまうと予言。


9.イソップ物語 ライオンとネズミ
ライオンが眠っている時に、身体に登って来たネズミに気付き、捕まえようとした。しかし、ネズミは、命を助けてくれれば恩返しをすることを約束。その後、ライオンが猟師に捕らえられると、ネズミが駆け付け…。


10 鼠 民家の屋根裏や床下に住み、人間と近い存在、人間の生活のおこぼれで助かっている鼠は、恩返しとして人間を助けると考えられた。その行動には先を読んだ動きがあるようで、予言をするとの印象を持たれたようだ。


11 『十二支考』毘沙門の後胤と称する国王も出で来れば、鼠の助力で匈奴に大捷たいしょうした話も出で来たと見える。而してわが邦に行わるる大黒と鼠を合せた崇拝も、実はこの毘沙門から移ったもの多く、初め厨神だったものが軍神として武士に祈らるるに及んだは、その親元たる毘沙門が富の神たると同時に軍神たるに基づく。

さては鼠の助けで蛇害を免れたと知り、山下の村の年貢でかの鼠を養わしめ、その村を迦蘭陀すなわち鼠村と付けたとある。

本居宣長 『古事記伝』倉野憲司 校訂 岩波文庫
南方熊楠 『十二支考』


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