Uga 織豊時代


 1 織豊時代(安土桃山時代) 1573年ー1603年 
年表
1543年(天文12年)種子島に中国船が漂着。乗っていたポルトガル人により火縄式鉄砲が伝えらた。
1549年(天文18年) フランシスコ・ザビエル(スペイン)が薩摩半島の坊津に到着。日本での布教を開始。
1570年(元亀元年) 長崎港をポルトガルに開港
1573年(天正元年) 室町幕府滅亡
1576年(天正4年) 安土城建立
1582年(天正10年) 本能寺の変
1587年(天正15年) 豊臣秀吉によるバテレン追放令。
1603年(慶長8年)「徳川家康」が征夷大将軍に任命され「江戸幕府」を開く。

2 南蛮貿易
南蛮貿易は、日本の商人、南蛮人(ポルトガル人、スペイン人)、明の時代の中国人、およびヨーロッパとアジアの混血住民との間で行われていた貿易である。欧州には胡椒を持ち帰り、霊魂(キリスト教)と服飾文化を輸出した。

3.ポルトガルとの交易
 ポルトガルは1510年にインドのゴアを武力占領し、翌年にマラッカ王国を征服して南シナ海に進出、中国商人との接触を開始した。ポルトガル商人は、ジャンク船を使って東シナ海にも進出し、そこで倭寇と接触を持つようになった。1543年にはポルトガル商人の乗った倭寇(中国人)の船が種子島に漂着以来、ポルトガル商船は日本の有益な交易相手国と考えるようになった。マカオを拠点としたポルトガル商人は、中国から生糸などを積み込み、日本に運び、日本の銀と交換する貿易を始めた。九州の諸大名も鉄砲・火薬などを手に入れるために領内の港に南蛮船の来航を認めた。島津氏の鹿児島港、松浦氏の平戸、大村氏の横瀬、大友氏の府内(大分)などが来航地であったが1571年以降は長崎が主要な南蛮船の来航地となっていく。長崎はこうして南蛮貿易の交易として繁栄し、教会堂の建設など、南蛮文化の面でも中心となっていった。

4.スペインとの交易
  日本とスペインの関係は1549年のザビエルが鹿児島に上陸が鹿児島に上陸したときに始まる。その後も多くのスペイン人宣教師が来日し、カトリックの布教にあたった。九州のキリシタン大名はとして少年たちを西廻りのスペイン経由でローマ教皇に派遣した。
 しかし、スペインの日本との交易は遅れ、1584年にようやく平戸に商館を設けて交易を開始した。スペインは日本に対しては交易よりもキリスト教の布教に力を入れる傾向があった。また、豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令を出してキリスト教の布教禁止に転換していたが、1596年にスペイン船のサン=フェリペ号が土佐沖に漂着したとき、乗組員がキリスト教布教をスペインの世界征服のためであると誇張してのべたためにキリスト教取り締まりを強化することとなった。また豊臣秀吉はフィリピンのルソン島征服を一時計画したためにスペインとの関係は悪化した。

5.南蛮貿易の内容
 ポルトガル商船がもたらす商品で最も重要であったのは、中国産の生糸であった。生糸は当時日本ではほとんど生産されていなかったので、とくにその上質のものは白糸といわれて珍重された。またその対価として日本から持ち出されたもので最も重要なものが日本銀である。当時日本は石見銀山などを有し、世界有数の銀の産地であった。
・日本の輸入品:中国産の生糸・絹織物、ヨーロッパ産の鉄砲・火薬・毛織物、東南アジア産の香料・革製品など
・日本からの輸出品:日本銀・銅・刀剣・工芸品など。
その後の南蛮貿易
 17世紀にはいると、ポルトガル・スペインが後退し、オランダ、イギリスの進出するという国際情勢の大きな変化が起こった。この新教国(プロテスタント)の両国は東インド会社を設立してアジアの中継貿易に参入し、盛んに海賊行為を行いポルトガルの南蛮貿易の利益を奪うようになった。日本ではこの両国人を紅毛人と呼んで南蛮人と区別した。また新教国であった両国は、ポルトガル・スペインがカトリックの布教を進める日本を侵略する意図を持っていると盛んに吹き込んだので、江戸幕府は次第にキリスト教禁止に向かっていった。
 一方、徳川家康はキリスト教禁止とは切り離して、盛んに朱印船貿易を行って貿易を統制しようとした。そのため17世紀初頭は、ポルトガル・スペインの南蛮船、オランダ・イギリスの紅毛船、中国のジャンク船、日本の朱印船が競合しながら、東アジア海域では活発な交易が展開された。

                         以上           

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