ウガネット 四国の古代  平22.7.25

徳島 香川 愛媛 高知
国神 大宜都比賣 飯依比古 愛比賣 建依別
特長 古代天皇制と密
阿波踊り、気 健 智
島歟、小雨、ため池 石湯 いわゆ
伊予湯
南国、段々畑
温暖、日照、山、多雨
よさこい祭り
縄文 土製仮面
水銀朱
石棒
島歟文明 山の幸 海の幸 線刻異形石(陽物)
線刻礫(地母神)
弥生 環濠集落
縄文と弥生村の共存
棚田
高地性都市
高地性都市   木胎漆器
高地性集落
銅鐸 50 20 10
銅戈
銅矛 20 51
銅剣 52 43 10



 イザナミ尊の御陵については、記紀に書かれていますが、場所が違います。伝承としての御陵ですから、実在するはずもないにですが古代人はどういう場所を思ったのでしょうか。
 縄文以来の墓、海岸なら海に面した洞窟、山中なら洞窟や岩陰のような場所だったように思われます。熊野の花の窟のような。 それで、それらしい岩陰を探してみました。

『記』の候補 『記』の候補 『記』イザナミの墓所
比定地
『紀』イザナミの墓所
一書第五
『記』の候補
山口県
帝釈寄倉岩陰遺跡
比婆郡東城町
縄文時代の墓葬
熊野神社
徳島県
加茂谷川岩陰遺跡
三好郡東みよし町
縄文時代の住居跡
新田神社
島根県安木市
比婆山
熊野神社
 
 
広島県庄原市
比婆山
熊野神社
三重県
花の窟神社
熊野市有間町
『紀』花の時には花を以て祭る
現在まで続く祭り!
愛媛県
上黒岩岩陰遺跡
愛媛県上浮穴郡
1万年の墓
女神像を刻だ線刻礫
御三戸神社


トッピクス土佐


高知 四万十川沿いの古代 剣に彩られた地域


高知県宿毛市 一宮神社「味耜高彦根命」 七星剣 古代から伝わった剣

『紀』天武天皇四年三月 土左大神以神刀一口 進于天皇。


 一般論としては剣は天皇が族長に与えるもの。
 神刀一口の進呈は例外的、すなわち草薙剣ではないのか?
∵ 天智天皇七年沙門道行盜草薙劔逃向新羅。而中路風雨。荒迷而歸。

草薙の剣について
 668年 熱田神宮から盗難
 この間に取り戻て皇室に在った。一説には浪速の放出で確保される。
 686年 天武病 即日熱田神宮へ戻す。

宿毛市

入田遺跡 高知県宿毛市 高知坐神社「都味齒八重事代主神」が近い
 縄文晩期と弥生初期の土器が一緒に出る
 縄文晩期には稲作文化
 高岡山古墳 円墳 4世紀末から5世紀前半
 曽我山古墳 60m前方後円墳

 小村神社の金銅環頭太刀 古墳時代の鉄刀

 四万十川 弥生時代の銅矛 約20本
 高岡神社の祭礼に五本の銅矛が5台の御輿の前を歩く
 剣や矛は 川の神の祭
 鮎 上流 礫石錘 網の重り 20〜30g 投網
    中流          40〜90g 落ち鮎用建網
                                  トッピクス土佐は以上

伊予を訪れた皇族
  木梨軽皇子、軽太郎女 允恭記
  景行天皇と皇后    伊予国風土記
  仲哀天皇と神功皇后  伊予国風土記
  聖徳太子       伊予国風土記
  舒明天皇と皇后(後の皇極天皇) 伊予国風土記
  斉明天皇と後の天智・天武天皇   伊予国風土記 紀
  事実 昭和天皇、今上天皇、皇太子



 箸墓はその時代とすれば、きわめて大きい古墳です。それに至まで、大和では纏向石塚やホケノ山古墳ができています。 これら大和の初期墳墓は大和で発祥したものなのか、それとも他所から形式が持ち込まれたものなのか、議論のある所のようです。 阿波や吉備から技術、様式が持ち込まれたとの有力な説があります。それは、阿波では萩原1、2号墳です。積み石の技術など大和に先行しで出来上がり、大和へ持ち込まれたと考えられるのです。 当然、古墳に葬られる権力者の移動もあったのでしょう。

  徳島 香川 大和 吉備
弥生末期の塚から古墳へ 積み石塚
萩原1、2号墓
天河別1号墳
西山谷2号墳
古墳による厚葬は吉備や西播磨から波及これが近畿や列島各地に伝播
阿波では古墳時代は阿波が先行
萩原1号墓
画文帯神獣鏡が出土
北鮮出土と同笵鏡
積み石塚
讃岐形前方後円墳
石清尾山古墳新羅加耶系
長い前方部で側面に葺き石積み石
 
主軸は東西
枕は西向き
纏向石塚
ホケノ山古墳
箸墓
 
弥生時代から古墳時代への移行の頃の古墳一覧
岡山市総社市 宮山墳丘墓
徳島県鳴門市 萩原一号墳
兵庫県揖保郡 養久山一号墳
奈良市桜井市 纏向石塚
吉備の楯築古墳を原形とする説もある。それが吉備の宮山、阿波の萩原、纏向の石塚、ホケノ、矢塚、勝山に影響とする。


トッピクス伊予 大人(おおひと)の足跡


『播磨国風土記』託賀郡
 託賀と名づけるわけは、昔、大人がおり、いつもかがんで歩いていた。南の海から北の海に行き、東から巡行なされたとき、この土地にやってきて言った。「他の土地はひくいのでいつもかがまり伏して歩いていたが、この地は高いので背伸びして歩ける。ああ高いことだ。」と。
 だから託賀の郡と言う。その踏んだ足跡の処は数々の沼となっている。 → 大人を新羅の王子の天之日槍に比定する説が多い。



 伊予国宇和郡にも大人伝説が残っている。


 南宇和郡一本松町(最南端、高知県との県境) 「大人の踏み跡」という場所がある。周囲は畑、足跡は田、足裏型。

 南宇和郡城辺町 (一本松町の北側の県境) 土佐の宿毛から来た大人は一本松町を四歩で歩き、城辺町に入った。

 南宇和郡御荘町 長州に足跡伝説が残っている。約500mを一跨ぎしている。大草履の伝統行事がある。

 南宇和郡内海村(西は豊後水道に面す。愛媛県の最南端) 字家串に足半草履を奉納する風習が残っている。

 宇和島市大浜・小浜 地区の入口に足半様式の大草履を掛ける伝統が残っている。

 吉田町(宇和島市) 正月に町民総出で大草鞋をないあげる風習がある。

 宇和町(西予市) 大草鞋を毎年更新して橋のたもとにつるすと言う。

 野村町(西予市) 富野川の一番奥に巨人が住んでいた。やがて、「ここもつまらなくなったわい」と言山を越えて大洲の方へ行ってしまった。

 大洲市(伊予の小京都)  大男は一人住んでいました。人々は大鬼と呼んでいました。大男が肱川の水を飲もうとして感応寺山に足を踏ん張ったので足跡が残っています。またすねをついた場所を「皿のくぼ」といいます。

 大洲市上須戎伝説 肱川の水を飲んだ時、小石が歯にはさまりました。それを吐き出したのが長浜沖の青島だといいます。

 大洲市東宇山 東宇山に足跡があり、付近に大本神社が鎮座。天之岩屋を開いて天照大神を連れ出した神です。ある時、「ここは気に入らなくなったので、川の向こうに遷る。また戻って来るから祭を絶えさせてははならない。」とのお告げがありました。

 長浜町(大洲市 肱川河口に位置) 大人の足跡がある。かかとの巾が30cm、長さ95cm、深さ2cm。大わらじを毎年更新してつるす風習があります。


 大人を天之日槍に比定する理由
  大洲市の南に出石山がある。
  金属の多い地域。
  新羅との関連を思わす白王神社が転々と鎮座している。
 『宇佐宮弥勒寺建立縁起・一書』
  応神天皇の神霊は最初、辛国宇豆高島に天降り、大和の胆吹山に移って後、紀伊の名草、吉備の神島、伊予の神山などに立ち寄り、最後に宇佐の小椋山に定着したと言う。応神天皇霊は天之日槍の霊の名跡を嗣いだので、伊予に寄っているのは伊予とヒボコとの関連を示唆している。


 しかし、天手力男神を思わす伝承が大洲市東宇山の大本神社に残っている。この神の後裔は船木氏で金属採取を業としている。


 阿波古事記について



説 伊予の二名之島→伊国(阿波と讃岐)と予国(伊予と土佐)の意とする。


c 奈良時代には四国を代表する国は伊予。九州の代表は築紫国だから築紫島としている。

c 二名之島とはアイヌ語で tu re sir です。(2=tu, 名前=re)。「妹」の意味。妹を連れていること。遊び心。


神話 国譲りの脇役の事代主神と多祁御奈刀弥神を祭る祭神名の式内社は阿波のみに鎮座。信濃には南方刀美神社が鎮座。

c 『古事記』の国譲りの島根県の出雲には事代主神と建御名方神は馴染みのない神。

c 国譲り譚は何故出雲を舞台に語られたのか。国津神の雄の大国主神を中心とする神々の国だから。

c 国譲り譚は古代ローマ、ゲルマン、インドの神話にもある。概ね次の構成。

 1 天にいる祭祀と武力の神々と、地にいる生産労働の神々との間に争いが起こった。
  当初は生産労働の神々が富と性的魅力などによって、天側の神々を懐柔した。

 2 天の神々が地の神々を麻痺させる無敵の武器を投げることで挽回した。

 3 両者は和解。天の神々の統治権を認めるかわりに地の神々も仲間の神とし、互いに協力して世界を支配することになった。

 天の代表は天照大神、地は大国主神、性的魅力は下照比売、武器は武甕槌神。

c 事代主神の登場  神功皇后・応神天皇が大和へ侵攻、この時、葛城鴨氏が降伏。紀神代下第九段一書第二の天高市の話。

c 建御名方神の登場 信濃は都を遷す計画があった程の国、ここの神の服従も組み込む。


神話 殺された女神 伊邪那美神 大宜都比賣神

c 大宜都比賣(大月姫)神は須佐之男神に殺されたとされていますが、殺したのは月読神。

谷川 死体に 蚕(児島) 小豆(小豆島) 粟(阿波) 麦(牟岐) が生じた。

c インドネシア・メラネシア・南北アメリカ大陸の広範囲に分布しているハイヌウェレ型神話


神話 伊邪那美神は火に焼かれて死ぬ。『紀』に黄泉比良坂とはどこかの場所ではなく、臨終の際を言うか?とある。実に冷静。

c 女神の嘔吐物になる神は金山毘古神・毘売神、次ぎに屎には波邇夜須毘古神・毘売神、次ぎに尿になる神は彌都波能売神
和久産日神。この神の子は豊宇気毘売神。

c 農耕に必要な鍬鋤の材料、土、水、若々しい生産の神、そうして食物を司る女神を生成。ハイヌウェレ神話の流れ。


神話 日と月がイザナギの両目から生まれた神話は、西シベリア、マレー半島、イラン、アフリカに。

はじめに盤古死す。死するに身を化す、気は風雲となり、声は雷霆と為る。左眼は日となり右眼は月と為り、四肢五体は
四極五嶽と為り、血液は江河とと為り、筋脈は地の理と為り、肌肉は田土と為り、髪髭は星辰と為り、皮毛は草木と為り、
歯骨は金石となり、精髄は珠玉と為り、汗は流れて雨沢と為り、身の諸虫は、風の感ずるところに因って羽化する。


c  『古事記』では、左の御目を洗うと天照大神、右の御目を洗うと月読命、御鼻を洗うと建速須佐之男命は成るとあります。

鼻と須佐之男命の組み合わせは日本独自のものかも。とは言え、『日本書記』一書第五 では、韓郷で素盞嗚尊の髯が
杉の木、胸の毛は檜、尻の毛は槙、眉毛は杉と楠になったとあり、盤古神話の「皮毛は草木と為り」と似ている。


c  須佐之男命まで阿波の生まれとしてしまうのは鎮座している神社からは無理がある。唯一鎮座する神名のついた式内社を
以て阿波に関連付けて来ている所に、その名からも後ほど勧請されたであろう式内社でもない徳島県海陽町宍喰の八坂神社
を根拠としているのは、まともに阿波古事記に取り組もうとする人の腰を抜かしてしまう。


c  須佐之男命の名前を冠する式内社は、紀伊国在田郡の須佐神社[スサ](名神大。月次新甞) 、出雲国飯石郡に?佐神社
[スサ]が鎮座、紀伊が格式が高いので、本家は紀伊ではないかと松前健先生は述べています。丁度、阿波国の向かいに当
たります。三貴子を紀伊水道でうまれたとするのなら、紀伊でもいいのでしょう。


神社 神武天皇を祀る神社は約460社、綏靖32,安寧5,懿徳6,孝昭4,孝安10、孝霊50,孝元3,開化8,崇神50。

欠史 欠史八代の中では、孝霊天皇の時期に富士山が噴火、またその時代を起源とする神社もあり、具体的存在に見える。

孝霊の妃は大倭玖迩阿禮比賣媛、ヤマトの国を出現せしめた姫の意味。倭迹迹日百襲姫命の母。

孝霊の神社

奈良   1社
鳥取  11社
広島  11社
愛媛   2社
高知  11社
岡山   9社

倭迹迹日百襲姫命を祭る四国の神社
阿波国 板野郡 葛城神社の摂社定水明神社 
讃岐国 香川郡 鶴尾神社の摂社田村神社
讃岐国 大内郡 水主神社
讃岐国 大内郡 艪掛神社
讃岐国 香川郡 田村神社
讃岐国 香川郡 船山神社


水と水銀

百襲比売は讃岐・阿波では水に関係する神社の女神。丹生都比売神は水銀の女神から水神へ変化。  
同じように倭迹迹日百襲姫神は水神から水銀の神に変化したのかも。発掘すれば箸墓の棺は真っ赤。  

大和へ 神社と古墳から言えることは吉備・讃岐・阿波等の国々の連合が畿内に移動して大和に王権を確立。  
古墳の様式などは阿波から、埴輪は吉備から、重要な祭祀様式は忌部氏がこの地から。  
王権が大和に移動した目的の一つは阿波の若杉山の辰沙が底をつき、大和宇陀の鉱山に活路を求めた。  

古事記

天武 天武天皇の大嘗祭では、中臣、忌部、及神官人等は奉仕。各地の語り部がそれぞれの神話を歌った。

天武天皇は武勇の人でもあったが、政治家でもあり、文人でもあった。自分が皇統を奪い、新政権を樹立した段階で、

実力主義の登用を行うには、逆に各豪族の系譜と位置づけを行っておく必要を感じたのではないか。

天武皇太子の時の歌は万葉集の中でも秀逸  巻一 二一 紫のにほえる妹を憎くあらば人嬬ゆゑに吾恋ひめやも

天武天皇の時代に、天武の命令で稗田阿礼が、後宮の女、巫女や各地の語り部などから伝承を収集した。

天宇豆女のポースなど女性ならではとの視点で書かれた。(長部日出雄著『古事記の真実』)


忌部

祭祀氏族であった忌部氏には祭祀が再現している古伝承を忌部家代々に伝えていた。これは古事記に反映している。

忌部の古さの証明 古文献神代期の条で「鐸」について触れているのは『古語拾遺』齋部広成著、807年と『先代旧事本紀』。


神楽

阿波では神楽はほんの僅かしかなされていない。宮崎県などとは大違い。

天孫降臨

ニニギが立ち寄った笠沙の岬はどう考えても東支那海の岬、ここが天孫降臨の地であることは簡単には否定できない。

以上