Uga 二頭立ての馬車に乗った女帝

1. 皇后                            
 継体天皇は仁賢天皇の皇女である手白髪皇女を皇后とすることで、正統性をアップできた。また、皇后は天皇と神とをつなぐ巫女の役割があり、これが重要視された。
 576年、額田部皇女は異母兄の敏達天皇の皇后にたった。翌年、朝廷に私部が設置された。后妃を世間に押し出す機構である。
 586年、敏達天皇が逝去。殯の宮の皇后を犯そうとして穴穂部皇子が入り込もうとしたが果たせなかった。蘇我馬子はこの穴穂部皇子を殺したが、臣下の皇族殺しには皇族を奉じて行われたのであろうが、おそらく敏達皇后の額田部皇女が神の声を聴いて了承したのであろう。
 敏達の後は用明天皇が即位したが、翌年には病没した。用明の後は崇峻天皇が即位した。この天皇には独断専行の傾向があり、任那復興の軍を筑紫に派遣、仏教に冷淡、大伴氏の娘を皇后にし、皇子をなしていること、これらは蘇我馬子にとってはつもりに積もった反崇峻感情となり、またもや額田部皇女を奉じて、崇峻殺しを実行した。
 額田部皇女はその都度、神意として馬子に伝えたのであろう。
 593年、推古天皇即位、翌年厩戸皇子を太子とし、馬子との三頭政治が始まった。

                            

2.第一回遣隋使 日本側に記録がない。『隋書』の記録                              
 開皇二十年 倭王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雛彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言倭王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」
 600年、開皇二十年、倭王、姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(たりしひこ)、阿輩?弥(おおきみ)と号し、使いを遣わして闕(みかど)に詣(まい)らしむ。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時に、出でて政(まつりごと)を聴くに跏趺(かふ)して坐す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて、我が弟に委(ゆだ)ぬと云う。高祖曰く、此れ太(はなはだ)義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。  
 倭王のことは一般論的に答えているようだ。日を以て弟となす、これは『清寧紀』に、顕宗天皇が播磨の逃亡先で身分を明らかにする際、「倭は そよ茅原 浅茅原 弟日 僕らま」と言っている。弟日とは皇位継承者のことである。天兄とはキリストのことを言う場合があるが、ここでは天を以て兄とするのは、叔父の馬子のこと、日を以て弟とは、厩戸皇太子のことと読める。
 ここでの推古天皇は巫女女王の姿である。夜即ち神の時間に託宣を聞いているのである。祖文帝から「はなはだ義理なし。」理屈が通らないと批判されたようで、国内の政治改革が急がれたのである。厩戸皇子は位十二階制度を制定し、下級貴族の登用方法を改善し、また17条憲法を制定し、仏教重視と勤務のありかたを改めさせた。

                            

 3.第二回遣唐使と輩世清の来倭                             
 『隋書』日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや
 この天子という表現は中華の天子のみに使うようで、東夷の国の首長ごときがなのるものではないとの怒りがあったと言う。  
 『日本書紀』には、607年(推古15年)に小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたとだけ記されている。  
 余り書きたくなかった経緯だったのだろうか、隋から輩世清が答礼にやって来たこら、書かざるを得なかった。あげくのはて、小野妹子が返書をとられてしまったとのことで納まっている。最近の日本の政治と同じようだ。  
 随ではたいした位ではない文林郎と言う職務の役人だったようだが、推古王朝は最大限の応接をしたようだ。しかし、推古天皇は応対していないようだ。厩戸皇子が対応したのだろう。この頃は、三人の天皇がいたと思えばいい。 倭国のスタンスはよくわからない所があるが、冊封は受けないとする倭国側の姿勢は貫かれ、隋は高句麗との緊張関係の中、冊封を巡る朝鮮三国への厳しい態度と違い、高句麗の背後に位置する倭国を重視して、冊封なき朝貢を受忍したと思われる。
 これは厩戸皇子のほこるべき姿であると思う。

                            

 4.厩戸皇子の死と葛城                              
 605年、斑鳩の地に居住した厩戸皇子は仏教の研鑽に努めていた。 『日本書紀』巻二二推古天皇二八年(六二〇)是歳 是歳。皇太子。嶋大臣共議之録天皇記及國記。臣連伴造國造百八十部并公民等本記。
 古代からの記録・伝承などを整理したようだ。ここで一旦古代が終了し、次の時代―呪術王朝でないーに入ったというのが『古事記』の主張だろう。 推古天皇が長生きし過ぎたのか、49歳で逝った厩戸皇子の寿命が短かったのか、皇子は天皇にならずに死んだ。
 皇子の死去二年後、待ってましたと蘇我馬子は推古天皇に葛城の地を本貫の地だとして割譲を要求した。
 蘇我馬子は安曇連と阿倍臣摩侶の二人に、天皇に奏上させ「葛城県は私の本貫です。その県にちなんで蘇我葛城の名もありますので、どうか永久にその県を賜って、私が封じられた県といたしとうございます。」といった。すると天皇は仰せられるには、「いま、自分は蘇我氏から出ている。馬子大臣はわが叔父である。故に大臣のいうことは、夜に申せば夜の中に、朝に申せば日の暮れぬ中に、どんなことでも聞き入れてきた。しかし今わが世に、急にこの県を失ったら、後世の帝が、「愚かな女が天かに公として臨んだため、ついにその県を亡くしてしまった」といわれるだろう。ひとり私が不明であったとされるばかりか、大臣も不忠とされ、後世に悪名を残すことになるだろう。」として許されなかった。
 これが推古紀の美談であるが、この要求の18年後の『日本書紀』に、皇極天皇元年(六四二)十二月是歳 是歳。蘇我大臣蝦夷立己祖廟於葛城高宮。而爲八?之舞。遂作歌曰。野麻騰能。飫斯能毘稜栖鳴。倭施羅務騰。
 蘇我大臣蝦夷は自分の祖先を祀る廟を葛城の高宮に立てて、八?之?(ヤツラノマイ)をしました。歌を作って言いました。
 大和の忍海の曽我川の広瀬を渡ろうと、足の紐を結び、腰の帯を締めて、身支度をしよう
 とあるように、葛城の地は蘇我の地になっていることは明白である。推古は応じたのだろう。推古天皇はやはり蘇我系の天皇だった。
 巫女女王の系譜は、卑弥呼台与。神功皇后。飯豊皇女につながり、次の皇極。斉明天皇に引き継いでいった古代日本を流れる底流であった。 以上

                            

参考
 『つくられた卑弥呼』義江明子 ちくま新書
 『女帝の古代日本』吉村武彦 岩波新書

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