Uga 即位の遅れ 天智天皇

1 7世紀後半の即位条件
   
明確なものはないが、20才立太子(天皇見習) 30才即位 とされていた。

2 混乱する東アジアの状況
 507 継体、即位。
 618 隋の煬帝が殺され、李淵、唐を建国。
 624 高句麗。百済・新羅 唐の冊封を受ける。
 641 泉蓋蘇文、クーデターで高句麗の実権を奪う。
 644 唐、高句麗遠征。

3 蘇我の横暴と狙い
  642年皇極即位。蘇我蝦夷を大臣に再任する。
  蘇我蝦夷入鹿親子、祖廟や双墓を造る。
  入鹿、山背大兄王一族を滅ぼす。
  蘇我蝦夷大臣は病を得て、入鹿に紫冠を授け、大臣とした。これは天皇をないがしろにする行為である。。
  蘇我本家、甘樫丘に上の宮門・下の宮門を造り、武装する。東漢直に門を守らせる。
  大丹穂山に寺院桙削寺(ほこぬきのてら)を造営する。立て籠もる拠点である。
 東アジアの情勢を熟知している蘇我氏は易姓革命を考え、皇位を簒奪しようと準備を行っていた。6世紀初頭に継体擁立も易姓革命であり、この王朝を尊ぶ気持ちはなかった。また、大和王権は唐に冊封して居らず、倒した所で唐から攻められる心配はなかった。後に古人大兄王でも立てて、彼に禅譲させるつもりだったのかも知れない。

4 乙巳の変と中大兄皇子
 蘇我本家滅亡、天皇家一強体制が確立する。天皇の後継を天皇家で決められる。これは推古の頃からその芽があった。
 中大兄皇子は舒明天皇の正嫡子で、皇極(斉明)天皇の長男、サラブレッドである。乙巳の変後、皇極は退位し、皇祖母尊と呼ばれた。天皇家の家長の意、所謂戸畔である。実権を握っていた。
 孝徳天皇の逝去時、中大兄皇子は28才であった。即位の年齢には不足。もし年齢に達していても、皇極の重祚だったのかも知れない。彼女は飛鳥川東の首都空間の建設に邁進したい。

5 天智天皇の即位の遅れ
 共に九州にいた中大兄は斉明崩御後も即位していない。称制でこなしたとされる。

 白村江敗戦処理・防衛態勢構築には身軽な皇太子の方がいいと言うことはありえない。

 間人皇后の存在が即位の障害になっていたとされるが、近親相姦があったわけではない。もしあれば、即位はありえない。

『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』百済大寺の造営事業に近江宮御宇天皇(天智)が力仕事を、仲天皇が炊事担当を行ったとある。この仲天皇とは間人皇后のことではないか。神と人の間、すなわち中を取り持つのである。間人皇后が即位していれば、天智の即位が間人逝去後になるのは当然。しかし『紀』には間人の即位記事はないし隠す必要もない。

乙巳の変や古人大兄王の粛清など、血の塗られた足跡を持つ皇子である。時が必要だったということはあるのかも知れないが、皇子が自分で武力をふるうことはまずありえない。

 斉明崩御後、白村江の敗戦もあり、政治体制の再確立や王権強化を果たしてからの即位となったか。しかしこの場合には即位してからの方がやり易いように思われる。

『紀』668年、天智即位の記事。1年前とする記事もある。即位のはっきりした記録は残っていなかったと言える。
大友皇子(648年生)が立太子適齢年齢になるのは、667年。『紀』の異説はこれを意識したか。

『紀』即位年に異説を書いている。中大兄皇子は即位せずに、大王としてふるまい、また周辺も大王と認めていたのだろう。

 愛息を後継にしたい天智は、大友皇子の立太子を明確にしたかった。近江での8年は弟の大海人皇子との息詰まる緊張関係だったと思われる。

                            以上

参考 『大化改新』遠山美都雄 中公新書