時の話

[8282] 時のお話を少し。  神奈備 2007/05/04(Fri) 19:35 [Reply]
1.人は時を感じる。腹時計が始め。

1−1 巡り繰り返す時間 年々歳々花相似たり
 万葉集巻第十 二一七七 春は萌え夏は緑に紅のまだらに見ゆる秋の山かも

1−2 流れゆく時間 歳々年々人同じからず
 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとに水にあらず

1−3 越えられる時
 田島守が探しに行った非時香実(ときじくのかぐのこのみ)=橘(季節を越えて実る)
 代々 黄色の実が春になると青くなる。代々長生きをする。

 山部宿禰赤人が不盡山(ふじのやま)を望(み)てよめる歌一首、また短歌
 巻第三 三一七 天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺(たかね)を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 不盡の高嶺は

 時を遙かに越えるお話は、雄略天皇の時代に引田部赤猪子や浦嶋子のお話があります。

2.豊受大神は浦島子と共に丹後と摂津を結びます。豊受大神こそ浦島子を竜宮に連れていった神女だと思われます。

 『豊後国風土記逸文』
 豊後の国の球珠の郡に広い野のあるところに大分の人が家を作り田を作って住んでいた。家が富み楽しい生活を送っていた。酒を飲んであそんだが、ふと弓を手に入れた。弓を射ようとしたが的がなかったのだろうが、餅を的にして射た。その餅は白い鳥となって飛んでいってしまった。その後、家は衰えて、やがて行方知れずになってしまった。

  『豊後国風土記』の冒頭にも白い鳥が飛んできて餅になる話が記載されています。天女が白鳥に化して穀物の神となっているようです。天女は豊国の保食神であり、豊受神と称されたのです。この白い鳥の天女は今度は丹後に舞い降ります。『天皇家と卑弥呼の系図』澤田洋太郎著)に、豊国と丹後の地名一致が指摘されており、豊国の海部氏が丹後に移動したと云う説をだされています。
 豊国と丹後を豊受神、火明命の三世孫の椎根津彦や船木氏がつないでいるようです。

[8283] 時のお話 2  神奈備 2007/05/05(Sat) 08:23 [Reply]
 『丹後国風土記逸文』から。

 『 丹後国風土記逸文』http://www.ne.jp/asahi/tokyo/tanken/newpage156.htm からコピー
 丹後の国の風土記に曰はく
 与謝の郡、日置の里。この里に筒川の村あり。ここの人夫、日下部首等が先祖は、名を筒川の嶼子と云いき。人となり姿容秀美しく、風流なること類なかりき。こはいはゆる水江の浦の嶼子といふ者なり。こは旧の宰伊預部の馬養の連が記せるに相嶼くことなし。
 故、略そ所田之旨を陳べむ。長谷の朝倉の宮に天の下知ろしめしし天皇御世、嶼子独り小船に乗りて、海中に汎び出て、釣すること三日三夜を経て、一の魚だに得ず。乃ち五色の亀を得たり。心に奇異と思ひて舟の中に置きて、やがて寝ねつるに、忽ちに婦人となりぬ。その容美麗しく、また比ふべきものなし。

 嶼子問いけらく、「人宅はるかにして、海庭に人なし。なにびとの忽ちに来たれるぞ」と云へば、女娘微笑みてこたえけらく、「風流之土、独り蒼海に汎べり。近しく談らはむとするこころにたえず、風雲のむた来つる」といひき。嶼子、また問ひけらく、「いづくよりか来つる」といひければ、女娘答へけらく、「天上仙家の人なり。請うらくは君な疑ひそ。相談ひて愛み給へ」といひき。

 ここに嶼子、神女なるを知りて、慎み懼ぢて心に疑ひき。女娘語ひしく、「賤妾が意は、天地と畢へ、日月と極まらむとおもふを、ただ君いかにかする。早けく許不の意を先らむ」といひき。嶼子答えけらく、「さらに言ふところなし。何ぞ懈らむや」といひき。女娘、「君、棹を廻らして蓬山に赴かさね」といふ。

 嶼子従きて往かむとしければ、女娘、教えて目をねむらしむ。すなわち不意間に、海中の博大き嶋に至りき。その地は玉を敷けるが如く、闕台はきらきらしく、楼堂は玲瓏きて、目にみざりし所、耳に聞かざりし所なり。手を携へて徐に行きて、一つの大きなる宅の門に到りき。女娘、「君、しばし此処に立ちませ」といひて、門を開きて内に入りき。すなわち七たりの竪子来て、相語らひて、「是は亀比売の夫なり」といひき。亦八たりの竪子来たりて、相語らひけらく、「是は亀比売の夫なり」といひき。

 ここに女娘が名は亀比売なることを知りき、すなわち女娘いで来たりしとき、嶼子、竪子等が事を語るに女娘の曰ひけらく、「その七たりの竪子は昂星なり。その八たりの竪子は畢星なり。君、な怪しみそ」といひて、すなわち前立ちて引導き、内に進みいりき。女娘が父母、共に相迎え、揖みて坐を定めき。

 ここに人間と仙郡との別を称訳き、人と神と偶に会へる嘉びを談議る。すなわち百品の芳しき味を薦め、兄弟姉妹等は、坏をあげて戲酬し、隣の里の幼女等も紅の顔して戯れ接る。仙歌寥亮に、神嶼舞もこよかにして、その歓宴をなすこと、人間に万倍れり。ここに日の暮るることを知らず、ただ黄昏の時、群仙侶等、漸々に退り散け、すなわち女娘独り留まりき。肩をならべ、袖をまじへ、夫婦之理をなしき。

 時に嶼子、旧俗を忘れて仙郡に遊ぶことすでに三歳になりぬ。忽ちに土を懐う心を起し、独り二親を恋ふ。かれ吟哀繁く発り、嗟歎日に益しき。女娘、問ひけらく、「此来君夫が顔を見るに、常の時に異なれり。願はくは其の志を聞かむ」といへば、嶼子こたへけらく、「古への人言へらくは、小人は土を懐ひ、死せる狐は丘を首にすと。

 僕、虚談なりとおもへりしに、今これまことにしかなり」といひき。女娘、問ひけらく、「君、帰らむとおもほすや」といへれば、嶼子こたえけらく、「僕、近く親故之俗を離れて、遠く神仙之堺に入り、恋ひ眷ぶにたへず。すなわち軽しき慮をのべつ。願くは、暫し本俗に還りて、二親を拝み奉つらむことを」といひき。

 女娘、涙を拭ひて歎きていひけらく、「意は金石に等しく、共に万歳を期りしに、何ぞ郷里を着ひて、一時に棄て遺るる。」といひて、すなわち、相携さへて徘徊り、相談ひて慟き哀しみき。ついに袂をひるがへして退り去りて、岐路につきき。ここに女娘の父母と親族と、ただ別を悲しみて送りき。女娘、玉匣を取りて嶼子に授けていひしく、「君、終に賤妾を遺れずして、眷尋ねむとならば、堅く匣を握りて、慎、な開き見たまひそ」といひき。すなわち相分かれて舟に乗り、よりて教えて目を眠らしめき。忽ちに本土筒川の郷に到りき。すなわち、村邑を眺むるに、人と物と遷ひ易り、さらに由る所なかりき。

 ここに郷人に問ひしく、「水江の浦の嶼子が家の人は、今、いずくにあるか」と問ふに、郷人こたへらく、「君はいずこの人なれば、旧遠の人を問ふぞ。吾が聞きつらしくは、古老等の相伝へていへらく、先の世に水江の浦の嶼子といふものありき。独り蒼海に遊びてまた還りこず。今にして三百余歳をへつといへり。

 何ぞ忽にこれを問へる」といひき。すなわち棄てし心をふくみて郷里を廻りしかども、一の親しきものにも会はず、はやく旬月をすごしき。すなわち玉くしげを撫でて神女をしたひき。ここに嶼子、前の日の期を忘れて、忽ちに玉くしげを開きつ。たちまちの間に芳しき蘭のごとき体、風雲にしたがひて、蒼天に翩飛き。嶼子、すなわち、期要にそむきて、還りてもまた会い難きことを知り、首を廻らして佇み、涙に咽びて徘徊りき。ここに、涙を拭ひて歌ひしく、

 常世べに 雲たちわたる 水の江の 浦嶋の子が 言持ちわたる 

 神女、遙に芳音を飛ばして歌ひしく、
 大和辺に 風吹き上げて 雲放れ 退き居りともよ 吾を忘らすな 

 嶼子、更、恋望に勝へずして歌ひしく、
 子らに恋ひ 朝戸を開き 吾が居れば 常世の浜の 波の音聞こゆ 

 後時の人追い加へて歌ひらけく、
 水の江の 浦嶋の子が 玉くしげ 開けずありせば またも会はましを 常世べに 雲立ちわたる たゆまくも はつかまと 我ぞ悲しき



 比治の里の比治山の頂上に真奈井という井戸があり、ここに天女が八人が降りてきて水浴びをしていました。その時、和奈佐老夫・和奈佐老婦という老夫婦が、ひとりの天女の衣を隠してしまったのです。このため、天女は天に帰ることができなくなり、やむを得ずこの夫婦の娘になりました。

 この娘は酒を造るのが上手で、その酒は高く売れ老夫婦は金持ちになりました。すると老夫婦は娘がもう邪魔になってしまい、追い出してしまったのです。
 娘は悲しんでその村を去り、やがて船木の奈具の村に至り、そこで暮らすようになりました。この娘が豊宇賀能売命である。
 丹後国加佐郡 式内社 奈具神社「豐宇賀能賣命」
玄松子さん http://www.genbu.net/data/tango/nagu_title.htm

 奈具岡遺跡から水晶の工房跡が出土しています。水晶玉はレンズとなり、日から火をおこすことができました。日神の後裔に火明命がいるのも頷ける所。
 船木氏、日置氏や日下首の得意技だったのかも。
奈具岡遺跡 http://inoues.net/tango/naguoka.html

 丹後の籠神社は海部氏の齋祀る一宮であり、その奥宮は真奈井神社と云い、祭神は豊受大神です。
 『豊受大神宮御鎮座本記』には、「崇神三十九年に天照大神を丹後の吉佐の宮に遷した。」とあり、また「高天原から豊受大神も降りてきて天照大神と一緒に吉佐の宮にいた。」と出ています。海部氏の勢力が天皇家に近い存在である事が偲ばれる説話と思われます。


『摂津国風土記逸文』から。

 昔、止与宇可乃売神は山の中にいて飯を盛った。それによって名とした。
 またいう、−昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山にいて、この山を台所にしていた。のちにわけがあって、やむをえず、ついに丹波の国の比遅の麻奈韋に遷られた。

 稲倉山の候補地
  摂津国河辺郡 式内社賣布神社の裏山 中山寺の奥宮が鎮座
紫雲山中山寺奥院 http://kamnavi.jp/mn/kinki/nakayama.htm

 飯を盛ったと言う所からは:−
  飯盛山 生駒山北部。ここなら住吉大社との関係があるかも。
  泉南の紀伊との境。
  泉佐野市の関空の反対側の山中に稲倉池があります。

  良くわかりませんが、豊宇可乃売神は摂津で祀られていたと思われます。

[8284] 時のお話 3  神奈備 2007/05/06(Sun) 08:30 [Reply]
 『住吉大社神代記』から

  姫神宮。御名。氣「息帶」長足姫皇后宮、奉齋祀神主。津守宿禰氏人者。元手搓「見」足尼後。

  膽駒神南備山本記 四至 東限膽駒川。龍田公田。 南限賀志支利坂。山門川。白木坂。江比墓。西限母木里公田。 鳥坂至。 北限饒速日山。

 摂津の国にいた豊宇可乃売神は稲倉山にいたのですが、摂津のどこかの社で祀られていたのでしょう。丹後では船木の奈具に祀られています。摂津と丹後の共通要素に船木氏が現れました。
 『住吉大社神代記』に「船木等本記」の記載があり、日神を出す氏族として尊ばれています。天手力男を遠祖とし、大田田命、神田田命を祖神としています。彼らは住吉大社創建の頃と言うか初期の河内での王権確立の頃には重要な役割を果たしていたのでしょうが、その後の河内の歴史には登場していないようです。
 船木氏は大社の祭祀について津守氏との主導権あらそいに破れたのかもしれません。従って河内王権から見たら僻地のような紀伊國伊都郡丹生川上天手力男意氣績ゞ流住吉大神を祭祀し、鉱物を採取していたようです。

 後にわけがあって、やむをえず、ついに丹波の国の比遅の麻奈韋に遷さされたのは船木氏であり、船木氏が豊宇可乃売神を奉じて遷ったのでしょう。この女神は穀物の神とされています。そうでしたら本来は、日神・水神・竈神・酒神でもあったのです。従って元始の神といえます。

 日神を出すとはどういうことでしょうか? 天岩屋から天照大神を引っぱり出す、これは実に判りやすい。それだけでは単なる力持ちのこと、そうではなく、日神を舟に乗せて天空を西へ、また沈んだ日神を東から昇らせる役割が重要です。

 金星は明けの明星の場合、太陽より先に昇って来ます。それに続いて日が昇るのです。また宵の明星の場合には太陽が沈んだ後も輝き続けます。まさに太陽の運行を司っているのが金星だとされたのです。金星こそ豊受大神と見なされていたのです。金星は日神、月神の御祖ともされ、豊受大神がそのように見なされた始原の神に相応しいのです。

 丹後の海部氏は豊宇可乃売神を奧宮で祀っています。海部氏と津守氏は同族であり、豊宇可乃売神を祀っていたのでしょうが、河内の王権からは姫神としては神功皇后を祀るべく強制されたのではないだろうか。その段階で、津守氏は豊宇可乃売神とは袂を分かったのでしょう。

 神功皇后の母方の祖は天日槍命ですが、父方の祖は日子坐王です。従って共に日下首の祖である浦嶋子が祖神とも言えます。住吉大神は塩筒老翁でもあり、筒川の浦嶋子です。浦嶋子は住吉の地で姫神である豊受大神を祭っていたのですが、これが神功皇后に置き換わってしまったということ。

 『大神宮諸雑事記』
  雄略天皇二十一年、天照大神の要請で丹後国与謝郡真井原の豊受大神を伊勢国に遷した。

 『丹後国一宮深秘』
  雄略天皇二十三年、豊受大明神を伊勢国山田原に迎えた。
 伊勢では外宮先祭と云われており、地主神として外宮が先に鎮座しており、後に滝原宮から内宮へ天照大神が遷座して来たと言われています。
 外宮の度合氏は天村雲命の後裔を名乗っており、丹後の籠神社奥宮の豊受大神と同じ神とする伝承は古いものがあったと言えます。
 古代、先ず祀る神とは食物の神であったろう。これは伊勢に限らず、丹後でも摂津でも同じこと。

[8285] 時のお話 4  神奈備 2007/05/07(Mon) 09:13 [Reply]
 伊勢の事が出たので、手力男神を祖神とする伊勢の船木氏について若干触れておきます。

 『古事記』に「手力男神者、坐佐那県也」とあるように、伊勢の佐那、現在の多気郡多気町仁田に佐那神社が鎮座、近くの多気郡多気町四匹田から銅鐸が出土しています。
 銅鐸のことを「サナキ」と言うのですが、「サナキ」は「サナ」や「ナキ」に訛ることもあるのでしょう。

 丹後に祀られた豊宇賀能売命は哭木村の奈具神社に鎮座しました。 このナグも銅鐸の余韻を残しているのかも知れません。
 船木氏は「フ・ナキ」、伊勢では佐那神社を奉斎、手力男神は内宮の相殿に祀られるほどの神であり、その神威はもの凄いものがあるはずです。その力は弥生時代には銅鐸として祀られたと考えてもいいのでしょう。
 銅鐸は忘れ去られたのではなく、手力男神のような強力な神の名として伝えられていたのです。

 佐那神社の手力男神や奈具神社の豊宇賀能売命とは銅鐸の威力を伝える神だったのかも知れません。

 余談ですが、紀州の伊太祁曽神社、江戸時代に祭神を手力男神とする説があったようです。お伊勢参りに便乗した神名だったのかも知れませんが、伊太祁曽の神は木の神、浮き宝(船)の神として名高く、これを船木とまとめて考えれば、あながちトンデモ説とは言えないのかも知れません。

 これまた余談ですが、佐那神社に須麻漏売神社が合祀されています。須麻漏とはスバルで、『枕草子』には、「星は、すばる、ひこぼし、明星、ゆふづヽよばひ星少しはをかし。云々。」とあるスバルのことで、プレアデス星団のことで、六つ位の星が集団になって見えるものです。実際には120個ほどの星の集団です。
 このスバルを伊勢に持ち込んだのは一体誰だろうかと思っていましたが、『豊受皇太神御鎮座本紀』には、止由気之皇太神の相従神として須麻留売神の名が見えることから、これは海部氏の裔の度会氏かと思われます。要は金星である豊受大神と共にすばるである須麻留売神がやってきたと言うことです。丹後の浦嶋子の伝承の根強さが偲ばれます。

 どうもお話が青草っぽくなって来ましたが、行きがかり上ここで・・・

[8286] 時のお話 5  神奈備 2007/05/07(Mon) 19:16 [Reply]
雄略天皇と時間の不思議

 『古事記』雄略天皇と引田部の赤猪子

 大和川で赤猪子と言う童女を見初めた雄略天皇はそのうちに迎えるから 嫁に行くなと言ったきり、忘れており、童女は80になりました。婚せんとも、すっかり老女となった赤猪子を悼み、歌を与えました。
 引田の 若栗栖原若くへに 率寝てましもの 老いにけるかも(歌謡九四)

 どう見ても雄略天皇は若いようです。赤猪子だけが歳をとるのかいな。何と残酷!


『日本書紀』巻十四雄略天皇二二年(戊午四七八)七月

 秋七月。丹波國餘社郡の管川の人、水江浦嶋子が舟に乘って釣りをしていた。そして大龜を得た。それがたちまち女となった。浦嶋子は感動して妻とした。二人は一緒に海中にはいり、蓬莱山に至って、仙境を見て回った。この話は別の巻にある

 『日本書紀では戻ってきたとは記していません。また亀からなった女はただの女のようで、神女とはなっていません。 

『万葉集巻九 一七四〇』 http://www.manyo.jp/heiseimanyo/manyoshu/019_1.html

 

『万葉集巻九 一七四〇』
 水江(みづのえ)の浦島の子を詠める歌一首、また短歌
 春の日の 霞める時に 住吉(すみのえ)の 岸に出で居て 釣舟の たゆたふ見れば 古の ことそ思ほゆる 水江の 浦島の子が 堅魚(かつを)釣り 鯛(たひ)釣りほこり 七日まで 家にも来ずて 海界(うなさか)を 過ぎて榜ぎゆくに 海若(わたつみ)の 神の娘子に たまさかに い榜ぎ向ひ 相かたらひ 言(こと)成りしかば かき結び 常世に至り 海若の 神の宮の 内の重(へ)の 妙なる殿に たづさはり 二人入り居て 老いもせず 死にもせずして 永世(とこしへ)に ありけるものを 世の中の 愚(かたくな)人の 我妹子に 告(の)りて語らく 暫(しま)しくは 家に帰りて 父母に 事も告らひ 明日のごと 吾(あれ)は来なむと 言ひければ 妹が言へらく 常世辺に また帰り来て 今のごと 逢はむとならば この篋(くしげ) 開くなゆめと そこらくに 堅めし言を 住吉に 帰り来たりて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて あやしみと そこに思はく 家よ出て 三年(みとせ)の間(ほど)に 垣もなく 家失せめやも この筥(はこ)を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉篋 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世辺に たなびきぬれば 立ち走(わし)り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ たちまちに 心消(け)失せぬ 若かりし 肌も皺みぬ 黒かりし 髪も白けぬ ゆりゆりは 息さへ絶えて のち遂に 命死にける 水江の 浦島の子が 家ところ見ゆ

 住吉の岸から船出をしています。これは摂津の住吉なのでしょうか、丹後の網野神社の鎮座地を墨江浦浜と言うそうで、丹後かも知れませんが・・。
 万葉集の歌では亀は登場せず、直接に海若の神の娘子と結ばれました。帰って来て玉篋を開けてたちまちの内に死んでしまったと言う内容です。



『 丹後国風土記逸文』

 浦嶼子は五色の亀を獲って船に置きました。亀は娘に変わり、天上仙家に誘いました。
 楼殿に着くと七たりの竪子、八たりの竪子が出ていき、浦嶼子は彼らと交代して入りました。
 3年楽しい時を過ごした嶼子は玉匣を貰って郷里に帰りました。何と300年経っていました。
 筒川の浦嶼子を日下部首等が先祖としています。

 注1 筒川 筒は星だから銀河を表すか。星の世界を旅したとの形容ともとれます。
 注2 日下部首 『姓氏録』開化天皇の皇子の日子坐王 『古事記』では、崇神天皇により丹波に派遣されました。浦嶼子はただの漁夫ではなく、丹波の支配者の一族です。
 注3 五色の亀 五色の亀はたちまち美しい女となりました。神女。亀比売と言います。五とは、宇宙の五元素を示し、神仙思想の不老不死と云う観念で書かれたので300年としているのかも知れません。
 また、神女との約束を破って霊験が吹っ飛んだと云うことです。だいたい男は女との約束を破っています。イザナギの命も同様です。イザナギの命の場合には地上の人間の生死に関わることでした。浦嶼子の話も寿命に関わっています。


[8291] 時のお話 6  神奈備 2007/05/09(Wed) 07:59 [Reply]
浦嶼子の宇宙旅行譚
 豊田有恒著『神話の痕跡』、大和岩雄『日本の神々 住吉大社』などに触れられていますので、参考にいたしました。

 にぎやかな色の五色の亀とはまさに空飛ぶ円盤のイメージそのものです。

  七たりの竪子とは昴星(すばる)のことです。6〜7個の星のまとまりに見えますが実際には120個の星からなるプレアデス星団で、星座としましては牡牛座の肩にあたります。
  八たりの竪子とは畢星(あめふり)でアルデバランです。牡牛座の顔にあたります。ギリシャ神話でも雨を降らす女と言われています。
  天上仙家とは、宇宙にある蓬莱のことで、100個の星のヒアデス星団とされます。130光年ほど離れています。

 下記の冬の大三角をご覧下さい。

 冬の大三角   HP 冬の大三角

 すばるとアルデバランが牡牛座を形成し、それをオリオン座の猟師が追いかけています。

 浦嶋子は300年以上経過して帰国しています。本人は3年程度留守をしていたとの認識。これは相対性理論が登場しないと説明できない現象です。

 『水鏡』(12世紀末)、『帝王編年記』(14世紀後半)などの書物には、浦嶋子は347〜8年後に帰って来たとしています。淳和天皇の二〜三年です。その頃の歴史は『続日本紀』に詳しいのですが、もちろん浦嶋子の記事は見えません。
 中世の知識人も興味をそそられてのでしょう、遊んで見たのでしょう。


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 画像のイメージ
 

神奈備 月へ飛んでいくと1秒長生き。
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[8293] 時のお話 7  神奈備 2007/05/10(Thu) 08:57 [Reply]
 天上仙家ヒアデス星団までの距離は150光年程度、丁度300年もあれば往復できます。

 浦嶋子は宇宙旅行をして来たのです。天上仙家には昴星や畢星からの宇宙人も来ていたことになります。

 昴星と畢星とは牡牛座の肩と顔です。牡牛座の次ぎに東の空に昇ってくるのは猟師であるオリオン座です。例の高松塚古墳の天井に描かれていた星宿図でも西方七宿に昴、畢に続いて参(からすき 韓鋤)となっています。参はオリオン座の三ツ星で、猟師のベルト。オリオン座の三ツ星は赤道上にあり、真東から昇り、真西に沈むのです。昇る時は三ツ星は縦になり、沈む時は横になります。天空の角度で時間がわかるのです。

 参照 オリオン座の動き http://kids.gakken.co.jp/campus/academy/jisaku/contents/047orion.html

 高松塚古墳の星宿図の西方七宿には金星が対応するのが大陸の天文学の考え方です。古代の人々は浦嶋子がヒアデス星団まで行った事は知らず、金星に行ったと思っていたのかも知れません。すなわち丹波の国で浦嶋子を誘った五色の亀すなわち神女とは、豊受大神だったのです。


 『備前国風土記逸文』に興味深い一文があります。「神功皇后が備前の国の海上を航海している時、大きな牛がいて船をひっくり返そうとした。その時、住吉明神が現れて牛を転がした。牛転が訛って牛窓になった。」 岡山の牛窓は住吉大社の真西であるのは興味深いことです。

 さて、牡牛座を追いかけてオリオン座が昇って来ます。牛を退かすのが住吉明神であるのは、オリオン座の三ツ星こそ住吉三神であることを示していると言えます。筒は星、実に素直な理解。

 住吉大社に星宮と言う摂社が置かれています。

住吉大社境内社 星宮の説明


 竃神住吉大神と共に星辰の神御因縁浅からず厄除の為星祭を行う慣習古く古来竃殿に竃神を祀り、星神なりという。

 住吉大神は星神と理解しても良いような文言だ!!

 筒川の浦嶋子も天上仙家から昴星と畢星とを追い出して亀比売の夫に治まった。まさに住吉の神であり、筒の男。
 丹後と摂津とは住吉、浦嶋、船木、豊受大神でつながっているようです。

 浦嶋子のような伝説は世界にも無いわけではない。白鳥処女伝説はヨーロッパにも分布しているそうです。また畢星をあめふらしとするのはギリシャと同じ。牡牛座をオリオンが退治するのもこの国のお話と共通です。
 奈良時代と云えば大仏も造られ、唐やより西の国々からの来訪者も多く、色んな話が伝わって来たのでしょう。それが豊かな伝承を生んだのです。

 参考 『神話の痕跡』豊田有恒 『神話の考古学』大和岩雄 『浦島伝説に見る古代日本人の信仰』増田早苗 『日本の神々3』(住吉大社 大和岩雄)



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