Uga 紀と渡来人
天日矛と神社について




1. 天日矛の渡来時期
紀 垂仁3年の条に渡来の記事あり。垂仁90年に、4世孫の田道間守に常世国に遣わしている。
記 応神天皇記の中に 「また昔、新羅の国主の子・・」とある。
『古語拾遺』垂仁天皇の時代、新羅の王子の海檜槍が来て帰化しましたとある。
『播磨国風土記』葦原志許乎や伊和大神と天日槍命が戦っている。倭国乱の見方もある。
『但馬故事記』6代考安天皇53年。稲飯命の5世孫とある。『姓氏録』に、神武の兄の稲飯命は新羅王の祖とある。
『筑前国風土記逸文』 渡来の年代は不詳。
『摂津国風土記逸文』 応神天皇の御世、新羅の国の女神が夫から逃れて比売島に来た。
『新羅本紀』は12世紀のものだが、第四代の脱解王はもと、多婆那国の生れで、その国は倭国の東北千里の所にあると言う。また、丹後の籠神社には「古代、この地から一人の日本人が新羅に渡って王様になった。」という伝説が残されているとのことである。天日矛は脱解の子である。3世紀前半の人である。


さて紀の垂仁の年齢はそうとうな長寿にされているようで実際の年齢は不詳である。
天日矛は田道間守の存在から常識的には垂仁の4代前の7代孝霊天皇の頃と見た方がいい。
なお、新羅の王子とあるが、新羅は4世紀後半以降で、その前は辰韓、斯蘆であるが、新羅と表現していると思われる。


2. 将来した神宝について
 天日矛は神である。神は祀る人がいなければ零落し妖怪になる。だから天日矛は逃げた巫女を求めてやって来た。祀る呪物を持参して来た。ご丁寧なことである。
神宝について、紀本文は
羽太の玉(はふとのたま) 1箇     勢いよく振る玉
足高の玉(たりたかのたま) 1箇    霊魂の振動
鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま) 1箇  赤色は霊感の宿ること
出石の小刀(いづしのかたな) 1口
出石の桙(いづしのほこ) 1枝
日鏡(ひのかがみ) 1面        日神を招く術具
熊の神籬(くまのひもろき) 1具    神の降臨する場所として特別に作る。

横浜根岸の榊神輿

持ち運びするもの。天忍穂耳の降臨の天津神籬に似ているのは神であるから。神籬は最初の神祠だった。新羅や半島には、古代に祀堂・堂(タン)と言われる神祠があったが、国家の庇護を受けられず、後世の仏教・儒教が国教となり衰退した。
横浜市根岸に市文化財の榊神輿と言うものがある。ハンディタイプの降臨場所である。



 さて、将来したものに出石の太刀や桙の名が見える。天日矛はもともと出石にいたのかも知れない。
 紀一書には、出石の桙のかわりに胆狭浅の大刀(いささのたち)が入っている。鶴賀の気比神宮や但馬の気比神社の祭神はこの太刀の人格化した伊奢沙別命が祭神で、天日矛のこととされている。但馬の気比神社の近くに楽々浦と言う場所がある。ササウラである。ササは砂鉄と思われる。天日矛集団は金属精錬に従事しており、それはまた呪術師の一面もあった。
 さらに古事記の呪具には、波や風を制御する領布ヒレがある。海との繋がりが強い。
また、記では奥津鏡・辺津鏡、紀には日鏡がある。鏡信仰の持ち込みと太陽信仰である。

3. 兵主神社
 天忍穂耳命の降臨にさいしては、天津神籬と天津磐境が準備されている。おそらくは神の降臨の古い形であろう。
 神武天皇は香具山の土で、平瓮(皿)や厳瓮(壺)を造り、天神地祇を祀ったとある。神社や祭祀跡からも、土器類が出土しており、古代からの神祀りの道具だったと思われる。
 邪馬台国の卑弥呼の登場は銅鐸時代を終わらせ、銅鏡時代に入った時期と考えられている。まさに天日矛の将来した神具は、新しい時代の神祀りの神具と言える。時代を切り開くショックを与えたのである。天日矛を祭神とする神社は但馬や近江に多い。特に兵主神社が目立っている。出雲の大黒山頂に鎮座する兵主神社は、大量の銅鐸が出土した、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡を裂くように見える。千田稔氏は「銅鐸を祭器とする機能は停止させた」現場ではないかと指摘している。
 大和の場合の兵主神社は、巻向遺跡の真東に鎮座している。北に大和神社、南に大神神社の間にである。共に大和の国魂を祀る神社の間を裂いている。これも事件の現場と言える。それは卑弥呼共立によって、祭儀の転換が行われたのである。纏向の宮殿を守るように鎮座する大兵主神社と穴師坐兵主神社は天日矛との関連を物語る。
 但馬の楽々浦に呼応するように伯耆や吉備に楽々福神社が多く鎮座し、孝霊天皇を祭神としている。これも砂鉄を吹く金属精錬の名であり、孝霊天皇と同時代の天日矛との関連が見える。孝霊天皇の娘の百襲姫が卑弥呼であるので、天日矛との深い関連を見ることができる。天日矛が記紀では孝霊天皇として描かれたのかも。

4.神祀り
 神武天皇の時代の神祀りは土器に飲み物などを入れて行ったと思われる。そこに天日矛が新しい神具をもって登場して来た。三種の神器のお出ましである。天日矛を祖とする筑前の伊都県主の五十迹手は、仲哀天皇を出迎えるために、船に榊を置き、八尺瓊・白銅鏡・十握釼をかけて待っていた。
 天日矛は韓半島からの渡来である。韓半島南部と北九州は同一文化圏をなしていたと見ることができる。半島には、堂(タン)と呼ばれる祠があった。その影響は北九州に入っていたものと思われる。平原遺跡には、真東を向いて鳥居の穴を思わせるものが遺構として残っている。
 紀の編集者達は、天日矛の将来した神器を詳細に記している。これは神祀りに新羅の影響があったと紀編集者達が認めていると理解でしていい。紀は戦前まで貴族や華族であった亡命百済人の影響下にあり、反新羅感情が流れており、また半島の影響を消そうとする傾向にあった中で、この伝承は重要だと思われる。
 韓国の名がついた神社
  韓国 韓神   8
  百済      2
  高麗 高来   2
  新羅 白木 白井 白城 44
  白髭    210
 新羅系の秦氏ゆかりの神社である 稲荷、八幡 は 全神社数のNO.1,2 を占める。これに、素戔嗚尊や五十猛神も縁とすれば、相当量の新羅系神社が鎮座している。司馬遼太郎は、「新羅人は日本の原始神道に相通ずる神を持っていた。」と書いている。
 

                             以上
*1 『神社の起源と古代朝鮮』岡谷公二
*2 『古代日本の渡来勢力』宋潤奎

史話

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