[10999] 浦島子の物語 1  神奈備 2012/01/06(Fri) 14:58 [Reply]
浦島子の物語を調べていたら、豊国、丹後、摂津の三ヶ国のつながりが浮かんできました。

キイワードは「豊」「潟湖」「日下部」「浦島子」です。


先ず、豊国と丹後について。

 大分県に日出(ひじ)町に真那井(まない)と言う場所があります。丹後には峰山町に比治の里に真名井と言う泉があり、天女が舞い降りた伝説が残っています。
 大分県九重町の太陽が射し込むタイミングがある壁湯天然洞窟温泉があり、ここに天女が下りてきたとの伝説があります。入浴客の妄想?


 大分県佐伯市の場所は海部郡で、海人族の地。丹後の籠神社の海部氏にもつながります。おそらく、これら海人族の相互の移動が各地によく似た伝承や神話をもたらしたのでしょう。ネットによれば、現在でも丹後の伊根町の舟屋と同じ舟屋が豊後国海部郡にあるそうですが詳細は調べ切れていません。
 いずれにしても、丹後も豊後も、摂津もですが、潟湖が点在し、海人の航行に実に便利な港湾となったのです。


 水銀朱は災いを避ける色であり、また防腐剤にもなり、縄文時代から墳墓に入れられたりして、使われてきました。特に中央構造線と言い、熊本ー大分ー愛媛ー徳島ー和歌山ー奈良ー三重と大断層ゾーン付近の地中から出土していました。それとは別に丹後からも水銀朱が採取されていたようです。

 大分県では大分市坂の市町に丹生神社が集中しています。ここの土壌の水銀含有率は二桁のppm以上ですこぶる高品位。大分市宮河内字阿蘇入の土壌の水銀含有率は0.13%と桁外れに高いのです。
 『豊後風土記』に、「景行天皇が土蜘蛛を打ち、その血で血田と呼ばれた。」との地名説話が書かれています。大和の宇陀に血原地名があり、やはり水銀産地です。

 丹後では、京都府竹野郡丹後町に丹生神社が鎮座、また舞鶴市大丹生の丹生神社鎮座血は、往古より水銀の産地として名高いようです。

 『丹後風土記残欠』に、「伊加里姫」を祭る神社についての記載があります。大和吉野には「井光」と書いて「いかり」と訓む神社が鎮座。また神武東征譚に、「人がいて井戸の中から出てきた。その人は体が光って尻尾があった。」とあり、これが井光と名のっています。水銀鉱山から顔を出した姿のように見えます。このように丹後も豊国や大和と同様に水銀朱の産地だったのです。


 『豊後国風土記』日田郡(ゆぎあみ)郷 欽明天皇のみ世に、日下部君らの祖邑阿自(おほあじ)がユキ部としてお仕え申し上げた。

『丹後国風土記』与謝の郡、日置の里。この里に筒川の村あり。ここの人、日下部首等が先祖は、名を筒川の嶼子と云いき。人となり姿容秀美しく、風流なること類なかりき。こは水江の浦の嶼子といふ者なり。

 ついでに河内国では、生駒山の西麓に日下地名があり、日下部氏の居住地でした。


 豊後国大野郡(大分県大野郡)に鎮座する、門上社、土鳥社、要社、中道神社「皆、浦嶋太郎を祭神とする。」とあります。大野郡は阿蘇山の東30km、海には40km以上も離れた山間部。こういう場所に浦嶋太郎が祭られていることについては、郷土史家も首をひねっていると言う。

 豊後・豊前の両国は豊国を分離したもの。
 『豊後国風土記』(序文)に、豊国に名の由来がかいています。簡単にまとめると、夜明けに白い鳥が北から飛んできて、村に舞い集まった。鳥は見る間に餅となった。さらに数千株もある芋草になった。この事を天皇に奏上すると、「天皇は「天の神から下さっためでたいもの、地の神から授かった豊草である。」と仰せられた。ゆえに豊国と言う。

 白い鳥はまさに豊受大神そのもの。

[11003] 浦島子の物語 2   神奈備 2012/01/07(Sat) 14:39 [Reply]
> 頼れるものはただひとつ・・・どっかで聴いたような科白ですが・・・、朝鮮語の urφ(龍)です。

なるほど。


豊国と難波・摂河泉について

 『摂津国風土記逸文』「昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山にいて、この山を台所としていた。後にわけがあって、やもうえず、ついに丹波の国の比遅の麻奈韋に遷られた。」とあります。ここでは、豊受大神は難波から丹後へ遷っています。人によっては、丹後に戻ったのではとしていますが、豊国からやってきたかも知れません。

 
 『日本書紀』(垂仁紀)都怒我阿羅斯等が白い石から変化したきれいな娘を追いかけたお話があります。「大加羅国(半島南部)から日本に来たのです。娘は難波に至って比売語曽社の神となり、また豊国の国前郡にいって、比売語曽社の神となった。二ヶ所に祭られていると言う。」との記載があります。
 この話は『古事記』では、天日矛が赤い玉から生まれた娘を妻にし、種々の珍味を作って食べさせた。ある日行き違いがあり、妻に逃げられました。難波の比売碁曽の社においでになる阿加流比売という神です、との話になっています。さらに、天日矛が追いかけて難波に入ろうとする時、その渡の神が遮って入れなかったとあります。豊国は出てきません。

 渡の神は住吉大神なのか、鴨の大神の味耜高日子根命の御子神の阿遲速雄神かも知れません。

 比売語曽社の神は半島南部からやってきたのですから、イメージとしては、北九州から豊国に抜け、瀬戸内を通り畿内にやってきた足取りが考えられます。


 豊と摂津で、「息長」が共通事項として、あります。豊では香春神社の祭神に辛國息長大姫大目命の名が見えます。また大阪市平野区喜連鎮座の楯原神社と近辺には、息長氏に関わる伝承が残っています。住吉大社の第四宮も息長帯姫を祭神としていますが、本当の所は阿加流比売ではないかとの意見も有力です。


 難波のある上町台地の東側は、その昔は河内湖と言われる海でした。徐々に上流からの土砂で埋まってきて河内潟となり、現在はレンコン栽培の湿地帯を若干残して、市街地となっています。明治時代には大阪湾の船が津波で生駒山山麓にまで流されたこともあったようです。海を渡ってきた船を淡水湖(汽水湖でも)に係留しておくと、海の貝が剥落して、船の寿命が延びるようです。生駒山麓には日下部氏が居住していました。


 大阪は渡来人の巣窟です。豊の国は秦氏が多いようですが、大阪は秦氏だけではなく、西漢氏、など多彩です。

 仏教が伝来して以降、仏教を信仰するのかしないのかの対立がありました。敏達十四年に仏像を捨てる事件がありました。
 『日本書紀』敏達天皇十四年(五八五)三月 「物部弓削守屋大連は自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、その塔を切り倒おさせ、火をつけて焼いた。同時に佛像と佛殿をも焼いた。焼け残った佛像を集めて、難波堀江に捨てさせた。」とあります。大阪市の大川のこととされています。ここで仏像が陸揚げされたので、ここで捨てたと言うことでしょう。
 同じ記事が『日本霊異記』に、「弓削大連公、放火焼道場、将仏像流難波堀江。…速忽棄流乎豊国也」とあり、「すみやかに豊国に棄て流せ」となっており、豊国にも難波があったようですね。

 
『万葉集巻九 一七四〇』 水江の浦島の子を詠める歌一首、また短歌
春の日の 霞める時に 住吉(すみのえ)の 岸に出で居て 釣舟の たゆたふ見れば 古の こ
とそ思ほゆる 水江の 浦島の子が 堅魚(かつを)釣り 鯛(たひ)釣りほこり 七日まで 家にも来ずて 海界(うなさか)を 過ぎて榜ぎゆくに 海若(わたつみ)の 神の娘子に・・・

 浦島のお話が摂津の住吉のこととして歌われているようです。ここでは亀は出てこないのです。突然に神の娘子の登場です。

 浦島が釣っていたのは、「堅魚(かつを)釣り 鯛(たひ)釣り」です。かつおつりぼし、たいつりぼしと言う言葉があり、金星を表すようです。海若(わたつみ)の神の宮は金星にあるように思っていたのかも知れません。

[11004] 浦島子の物語 3  神奈備 2012/01/08(Sun) 11:08 [Reply]
難波と丹後 キイワードは「豊受」「潟湖」「日下部」「浦島子」です。

豊受大神

『摂津国風土記逸文』から。
  昔、止与宇可乃売神は山の中にいて飯を盛った。それによって名とした。
  またいう、昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山にいて、この山を台所にしていた。のちにわけがあって、やむをえず、ついに丹波の国の比遅の麻奈韋に遷られた。

『丹後国風土記』逸文から
  丹波郡比治里の比治山の頂上の真奈井で天女八人が水浴をしていた。うち一人の羽衣を老夫婦が隠してしまったので天に帰れなくなった。そのためその老夫婦の家に住んでいた。天女は酒を造るのがうまかった。それで家は豊かになった。しかし十年後に家を追い出されてしまった。
 天女はあちこち漂泊した末に舟木の里の奈具村に至ってそこに鎮まった。この天女が豊宇賀能売神(トヨウケビメ)であるという。

 これらを読む限り、先に摂津国にいて、それから丹後に遷ったとあります。摂津にはどこから来たのでしょうか。摂津にやってきた女神、豊国の比売語曽社神すなわち阿加流比売を思い起こします。この女神は天日矛の御饌都神として、「種々の珍味を作って食べさせた。」とあります。丹後に摂津から豊宇賀能売神を遷して祭った場所は「舟木の里」です。舟木一族が移動して祭ったと考えることができます。舟木の名は、『住吉大社神代記』にも出てきます。船木等本記、船木遠祖、船木連など。住吉の祭祀氏族だったのでしょう。現在は津守氏の名前が残っており、船木氏の名は見えないようです。住吉大社の姫神を丹後に遷し祀ったのは船木氏だろうと思います。そうして姫神とは、阿加流比売神であり豊宇賀能売神と思われます。


潟湖
 丹後半島の西側に多かった潟湖は徐々に土砂で埋まってきて、港機能は東側に移動して行ったようです。大阪は河内湾が徐々に埋まって河内潟から河内湖へと変貌していきます。丹後での浦嶋子を祭る神社も半島の西と東に分布しているのも、港機能の移動と関連しているのでしょう。


日下部と浦嶋子
 浦島子を日下部の祖先とする伝承があります。また生駒山の西側に日下地名があり、また日下部一族が居住していました。雄略天皇が生駒山を越えて求婚に来ています。また、堺市草部に鎮座の日部神社は日下部氏の祖神を祀る。彦坐王。



丹後の籠神社に伝わる海部氏の系譜に難波根子建振熊の名が見えます。神功皇后の時に忍熊王討伐の将軍となっています。さらに仁徳期には飛騨の両面宿禰を退治します。和珥の祖とされています。和珥氏は後に多くの氏族に展開します。春日、布留、櫟井、大宅、高橋、柿本、粟田、小野、山上氏で、近江から大和東側などに分布しています。

 名前に難波がついている所から見ますと、丹後と難波をつなぐ武人のようですが、和珥氏と末裔の氏族は大阪にはあまりなじみがないようです。所謂河内王朝の成立に大いに貢献した武人ということで、難波の冠が建振熊さんに与えられたのかも。

[11005] 浦島子の物語 4  神奈備 2012/01/09(Mon) 16:37 [Reply]
 豊後国海部郡に丹後の伊根町と似た舟屋があるとのことで、平凡社の『大分県の歴史・地名事典』を見たのですが、そのような記述は見あたりませんでした。
 臼杵市の地名で、大泊、坪江、深江、硴江、大浜、中津浦、下ノ江。
 南海部郡 上浦、蒲戸浦、長田浦など、まさに海岸の地名が並んでいました。この辺りに舟屋が並ぶ港があるのかも知れません。


 真名井は豊後と丹後に特有のものかと思っていましたが、なんと大阪の富田林に真名井古墳と言う古墳がありました。3世紀後半、三角縁神獣鏡が出土しているようです。古墳名の由来は判りませんが、真名井と言う地名か池が付近にあったのでしょう。


 天女・羽衣伝説が大阪にもありました。
交野市に羽衣橋はあって、天女の衣を隠した少年と天女が夫婦となった伝承がありました。
また、高石市に羽衣地名があり、はやり天女伝説があったようです。


 また、探せば全国的に分布しているのでしょうが、海の彼方に常世の国があるという信仰を常世信仰というのですが、豊国、丹後、大阪にあったようです。

豊国 香春神社の祭祀氏族の赤染氏は、後に常世連と名を変えています。ルーツであった新羅などに常世を感じる氏族だったのでしょう。
 豊国では、豊後には熊野神社が多く鎮座していますが、豊前の場合宇佐以外に熊野神社はありません。

丹後 徐福渡来伝承、浦島子伝説、天女降臨など、神仙の雰囲気が満ちているようです。また熊野郡には式内社の熊野神社が鎮座しています。

摂津 四天王寺の西門は西方極楽浄土の東門にあたると言われます。またその西の浜から渡海をおこなったこともあったようです。補陀落を表す庭もあります。四天王寺の南門近くには熊野遙拝石がおかれています。


[11006] 浦島子の物語 5  神奈備 2012/01/10(Tue) 17:20 [Reply]
丹後 和銅六年(713)丹波国の北部を分離し、丹後国とする。大江山山系が境。

丹後地域は他の地域に比べて弥生時代の遺跡が多いようです。

弥生前期  竹野(たかの)遺跡 陶[土員]とうけん=土笛 大陸の影響が見られる。       扇谷遺跡  二重の深い濠に囲まれた高地性集落の遺跡。弥生初期にこの付近はきな臭かったということでしょうか。瀬戸内よりだいぶ早い登場です。


弥生中期  BC219年。始皇帝、東海へ徐福を派遣。丹後半島に上陸伝承が残っている。新井崎神社。
      奈具遺跡
  大宮町三坂神社墳墓群  ガラス玉、鉄器、土器 埋葬品は九州北部と似ている。
      久美浜町の函石浜遺跡 大陸の新(8〜13)の貨幣である貨泉が出土。
弥生後期  奈具岡遺跡 水晶の玉を造る、鉄器も大量に出土。
      大風呂南一号墳 舟底状木棺 鉄製武器、ガラス玉。
      鉄製武器が出土した赤坂今井墳墓と上記の大風呂南一号墳は他地域の首長墳と比べても超越している存在。

古墳時代
3世紀   峰山町カジヤ円墳  碧玉製腕飾り、鉄製武器、農耕具類 埋葬品は畿内勢力との関係。

4世紀   大田南五号墳古墳  青龍三年鏡(235)出土。卑弥呼が魏に遣いを出す三年前の年号。
      北二号墳  後漢 画文帯環状乳神獣鏡
      福知山広峰一五号墳  景初四年鏡(239+1)景初は三年まで年号変更を知らずに鋳造したとされる。魏の国の影響下にある国々はそれぞれ広い国ですから、末端の工員にまで伝わらなかったのかも知れません。

5世紀  神明山古墳
     網野銚子山古墳(全長200m)日本海沿岸部最大の古墳。

 丹後半島西部には、潟湖が多く、天然の良港であった。交易によって富が蓄積された。淡水湖に海洋船を係留させると、海の貝などが剥落し、長持ちする。

『古事記開化天皇の条』
この天皇、旦波の大県主名は由碁理(ユゴリ)の女、竹野比売を娶して生みましし御子、比古由牟須美命(ヒコユムスミノミコト)。

 このように、大和の大王との婚姻関係があった伝承があったほど、政治力・経済力を持った存在がいた。経済力は、大陸・半島との交易でも得ていたのだろう。同時に大陸の神仙思想が入って来てさまざまな物語がはぐくまれた。浦嶋子、羽衣と天女、徐福渡来、大江山の鬼など。



 丹後に由良神社が鎮座しています。これに対応しそうなのが、由良比売神社が隠岐島に鎮座しています。由良と浦とは近い言葉のようです。

 『出雲国風土記』「大穴持命の御子の阿遅須伎高日子命は、八十島を率て巡りて宇良かし給へども・・」とあります。「宇良かし」は魂を「揺り動かす」と言う意味がありますが、宇良は由良と同意のようです。占いの「うら」にも通じるのではないでしょうか。

 丹後の弥生時代から古墳時代初期には、列島内では先端地域で、大陸との交流も相当あったようだ。大和の王権の対外窓口であったのでしょう。

[11007] 浦島子の物語 6  神奈備 2012/01/11(Wed) 19:03 [Reply]
邪馬台国と浦島太郎

この項目は、前田晴人著『桃太郎と邪馬台国』講談社社現代新書を参考にしました。

『魏志倭人伝』
 伊都国 東南に陸行すること五百里で、伊都国(筑前の国怡土郡)にいたる。官を爾支(にき)といい、副を泄謨觚(しまこ)・柄渠觚(ひここ)という。千余戸。世々王がある。みな女王国に属している。

 奴国 東南(行)して、奴国(筑前の国、那の津、博多付近)にいたる。百里である。官を兇馬觚(しまこ)という。副(官)を卑奴母離(夷守)という。二万余戸がある。


『丹後国風土記』
 与謝の郡、日置の里。この里に筒川の村あり。ここの人、日下部首等が先祖は、名を筒川の嶼子と云いき。人となり姿容秀美しく、風流なること類なかりき。こは水江の浦の嶼子といふ者なり。
 (亀に乗って海中を行く。)
 すなわち不意間に、海中の博大き嶋に至りき。その地は玉を敷けるが如く、闕台はきらきらしく、楼堂は玲瓏きて、目にみざりし所、耳に聞かざりし所なり。
 さて、泄謨觚、兇馬觚のどちらかを「しまこ」と訓めるということが、前田氏の主張の根拠の一。

 前田氏:嶼子シマコを、外交官の役職名と想定しています。丹波のシマコも外交官であり、奴国へ来て外交を司っていたと想像できます。

 前田氏:シマコの「コ」 こ・呼・子。これは、ヒミコ、シマコ 高位の職名と思われるとする。

 前田氏:風土記の仙郡(とこよ)の風景は、闕(宮殿の門)、楼堂(高い建物) 魏の王都のイメージに見える。

 『魏志倭人伝』
 倭の女王に報えていう。「親魏倭王(しんぎわおう)卑弥呼に制詔(みことのり)する。帯方(郡)の太守劉夏は、使をつかわし、汝の大夫難升米(なしめ)・次使都市牛利(としごり)をおくり、汝が献ずるところの男生口(どれい)四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉じて到らしめた。
 『古事記』
 若倭根子日子大毘々命(開化天皇)、春日の伊耶河宮(イザカハノミヤ)に坐して天の下治らしめき。この天皇、旦波の大県主名は由碁理(ユゴリ)の女、竹野比売を娶して生みましし御子、比古由牟須美命(ヒコユムスミノミコト)。

 前田氏:都市牛利(としごり)は都市(物品管理者役)の由碁利のこと。
 神奈備:難升米とは奴宿禰か。

 『丹後国風土記』
 そして、帰り際に、女は、再び逢いたかったら肌身離さず持ち、決して開けてはならないと言って、島子に「玉箱」を与えた。玉箱を持ち、女に言われるままに目をつむって船に乗ると、瞬く間に元の筒川に着いた。

 前田氏:この玉手箱とは、由碁利は魏王から卑弥呼に与える土産を預かった。箱に入っており、開けてはならない物のことを指している。

 『丹後国風土記』
 昔、豊宇気大神が当国の伊佐奈子嶽に天降されたとき、天道日女命たちは、この大神に五穀と
蚕などの種をお願いした。その嶽に真名井を堀り、それで潅漑して水田陸田を定めて植えた。そして大神は再び高天原に登られた。それで田庭と云うのである。丹波、旦波、但波、など、多爾波と読む。

 『魏志倭人伝』
 卑弥呼はすでに死んだ。大いに冢つかをつくった。径は百余歩・徇葬者の奴婢は百余人であった。あらためて男王をたてたが、国中は不服であった。こもごもあい誅殺した。当時千余人を殺した。(倭人たちは)また卑弥呼の宗女の台与なるもの、年十三をたてて王とした。国中はついに定まった。

 神奈備:卑弥呼の後継として、丹波から「豊」姫を迎えたと言う意味かも知れない。

 さて、邪馬台国時代(3世紀中頃)の丹後半島から、画文帯環状乳神獣鏡、青龍三年銘方格規矩四神鏡(高槻安満古墳と同笵鏡)が出土しています。このことから、この地域の首長は邪馬台国の目指す魏王朝との外交関係を持っていたようです。

 3世紀後半以降の政権の動き 記紀から。

 開化天皇 丹波の竹野媛を妃とした。

 崇神朝  四道将軍:丹波道主命(彦坐王子)を丹波に派遣。

 垂仁朝 丹波道主命の五人の娘 日葉酢媛・竹野媛 ら召しいれた。竹野媛は不器量ゆえ返した。

 また、浦島子が祖先となる日下部首については、文献によって若干の差があります。
日下部首の祖
『風土記』 シマコ 日下部首
『姓氏録』 彦坐王 日下部首・日下部連
『古事記』 開化天皇  崇神天皇 垂仁天皇
     └ 彦坐王     狭穂彦 日下部連
『日本書紀』    └ 丹波道主王

 日下部首は、彦坐王の後 山城・摂津・河内・和泉 に部民を持っていました。反乱に加担した垂仁后狭穂姫も彦坐王の皇女。

 このことは、丹後国、初期ヤマト王権とのつながりがあったといえます。シマコが彦坐王だとストレートには言いにくい所です。


余談 丹後の海部氏本紀
始祖火明命−・・−日本得魂命−−−弟彦命−乎縫命 −小登与命- 建稲種命-
 日女命   小止与命 宮簀姫
倭人伝 (卑弥呼)  (台与)
天皇家  崇神天皇 垂仁天皇 景行天皇 日本武尊
 『丹後国風土記』
 長谷の朝倉の宮に天の下をお治めになった天皇(雄略天皇)のみ世に、嶼子は云々。

 雄略天皇の時代の特徴
  稲荷山古墳出土の鉄剣銘
  ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。(先祖の名が続く。)名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、(云々)。
  江田船山古墳出土の鉄刀
  天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀を并わす。

 雄略天皇の時代、大王の力が強まり、各豪族はそれぞれの先祖伝承をもって、忠誠を誓ったのではなかろうか。豪族は氏とよぶ同族(血縁)集団を形成して氏の名を名のり、その集団の長である氏上が氏人を率いて大王に仕えた。

 丹後の日下部氏の祖先伝承も、雄略天皇の時代に整理されたことが、その時代のこととしたのでは。

 雄略天皇は河内に住む若日下部王を娶る。

 『紀』雄略元年の条 后の韓媛(葛城円大臣の娘)が生んだ稚足姫皇女を伊勢の斎宮とした。

 『紀』雄略十八年 伊勢の朝日郎を討たせる。伊勢国の服属譚。
 『記』伊勢の国の三重の釆女が天皇に御酒を捧げた。伊勢国の服従譚。
 『紀』雄略二十二年 丹波国与佐宮で祭られていた豊受大神が伊勢に遷された。

 称号について
魏志倭人伝 記紀 魏志倭人伝 記紀
伊支馬 活目 難升米 宿禰
弥馬獲支(みまわき) 和気 卑奴母離        夷守
柄渠觚(ひここ) 彦 奴佳革是 中臣
狗古智卑狗 菊池彦

[11008] 浦島子の物語 7  神奈備 2012/01/12(Thu) 11:12 [Reply]
この項はは、豊田有恒著『神話の痕跡』青春出版者を参考にしました。

『丹後国風土記』
 嶼子は、五色の亀を得たり。女娘、教えて目をねむらしむ。
 (到着)
 ここに女娘が名は亀比売なることを知りき、すなわち女娘いで来たりしとき、嶼子、竪子等が事を語るに女娘の曰ひけらく、「その七たりの竪子は昂星(すばる)なり。その八たりの竪子は畢星(あめふり)なり。

 嶼子、仙郡に遊ぶことすでに三歳になりぬ。忽ちに土を懐う心を起し、独り二親を恋ふ。  (帰国)
 ここに郷人に問ひしく、「水江の浦の嶼子が家の人は、今、いずくにあるか」と問ふに、郷人こたへらく、「君はいずこの人なれば、旧遠の人を問ふぞ。吾が聞きつらしくは、古老等の相伝へていへらく、先の世に水江の浦の嶼子といふものありき。独り蒼海に遊びてまた還りこず。今にして三百余歳をへつといへり。

 五色の亀を得たり。これは、空飛ぶ円盤そのもののイメージ。亀比売は神女。
色 五行・星 方位 神獣
青 木 東 青龍
白 金 西 白虎
赤 火 南 朱雀
黒 水 北 玄武
黄 土 中央 −

 女娘、教えて目をねむらしむ。 星間旅行の常識。おそらくは、嶼子を冷凍した。
 豊田氏
 天上仙家(亀比売の宮殿)とは、約150光年程度の距離にある星。300年経過とあり、宇宙旅行をしたとすれば、片道150年を要す。ヒアデス星団(130光年)が該当します。
 昂星(すばる) プレアデス星団  410光年 6〜8の星の集団。
 畢星(あめふり)アルデバラン    68光年 7〜8の星の集団。

 各星と地球との距離(光年) 亀比売の宮殿 天上仙家
    地球    畢星   ヒアデス星団       畢星
           68        130       410

 さて、ローレンツの時間の収縮の式と言うものがあります。あるスピード(V)で走っている物体の経過する時間は元の動いていない場所の物体の経過時間との比率を示す式です。
光と同じ速度で飛ぶと、時間が経たないのです。それはすべての景色が一緒に飛んでいることになり、時間がたっていないことと同じだからです。

 収縮率=√(1−v**2/c**2) **は二乗 cは光速。300,000km/秒
v/c 収縮率% 300年が
99.9995   1%      3年 遊ぶことすでに三歳になりぬ
計算例 今にして三百余歳をへつといへり。
        99.998   2%      6年
        99.995   3%      9年
        99.400  10%     30年
        97.900  20%     60年

具体的な星の名前が登場し、かつ、距離感がすばらしい。

 ローレンツの時間の収縮の式を図示すると、下記のようになります。VがCに近づくと#がゼロに近づき、時間がかからないということ。
 逆に止まっている場合、経過時間通り時間が経ちます。

龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜龜
龜龜龜龜           龜龜龜龜龜龜龜龜
龜龜龜龜#:島子の感じる時間 龜龜龜龜龜龜龜龜
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龜龜龜龜V龜龜C龜龜             龜龜
龜龜龜龜V龜C龜龜龜Cの長さ:光のスピード龜龜
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龜龜Vの長さ:浦島子の飛ぶスピード龜龜龜龜龜龜
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[11010] 浦島子の物語 8  神奈備 2012/01/13(Fri) 09:39 [Reply]
 豊田有恒さんの前回のそれぞれへの星の比定は、距離感がすばらしい。
雄略時代の時間概念
 『紀』美和河で容姿甚麗な引田部の赤猪子と言う童女を見初めた雄略天皇はそのうちに迎えるから 嫁に行くなと言ったきり、忘れており、そのうちに80年が過ぎてしまった。100歳に近い老女になってしまったのでしょう。
 天皇は訪ねてきた赤猪子を悼み、歌を与えました。

   引田の 若栗栖原 若くへに 率寝てましもの 老いにけるかも(歌謡九四)  
 雄略天皇は、418年の生まれ、456年に天皇に就任、在位は23年。479年に没。61歳。赤猪子に声をかけてから80年も生きていることにはなっていません。残酷にも赤猪子だけが歳をとっています。浦島子と同じように、ここにも時間の矛盾があります。

 各地の浦島伝説を紹介します。
  漁労民が竜宮へ行くお話は、インドシナ、インドネシア、台湾、中国、朝鮮、沖縄に分布。
  
  この伝承を伝えた日下部氏には、彦坐王の後裔と、仁徳天皇と日向髪長媛の子孫の流れがあります。この日下部氏には、南九州にあった浦島伝説を各地に持っていた可能性もあります。

 日向国児湯郡(宮崎県児湯郡川南町) 白鬚神社「浦島大神を祀る奥之宮がある。」
 浦島太郎が龍宮から高鍋町の浮島なる鵜戸を経て帰着。知り合いもなく、ここが終焉の地となる。

 海部氏が祀る丹後の籠神社の摂社の真名井神社の祭神は豊受大神。

 豊後国大野郡(大分県大野郡) 門上社、土鳥社、要社、中道神社 「皆、浦嶋太郎を祭神とする。」大野郡は阿蘇山の東30km、海には40km以上も離れた山間部。

 豊後国の日出(ひじ)に真那井がある。また、『豊後国風土記(逸文)』に、餅の的のお話がある。「裕福な農家の人が弓を射ようとして、的がなかったので、餅を的にして射た。餅は白い鳥になって飛び去った。家はたちまち貧しくなった。」。よく似た話は、『山城国風土記(逸文)』にもあって、餅を射た人の子孫が先祖のあやまちを悔いて、祈り祭ったと言う。稲荷の神になったと言う。
 稲荷の神、豊饒の神の縁起譚である。豊受の神に通ずる。

 丹後での比治山の真奈井への天女降臨伝説は豊受大神につながる。豊の国にも天女伝説がある。

『海部氏本記』彦火明命−−・・−−難波根子建振熊−建振熊宿禰−・・
丹後から難波へか、難波から丹後へか、浦嶋譚が伝承されている。

 『摂津国風土記逸文』「昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山にいて、この山を台所としていた。後にわけがあって、やもうえず、ついに丹波の国の比遅の麻奈韋に遷られた。」とある。
 ここでは、豊受大神は難波から丹後へ遷っている。

  『万葉集巻九 一七四〇』 水江の浦島の子を詠める歌一首、また短歌
 春の日の 霞める時に 住吉(すみのえ)の 岸に出で居て 釣舟の たゆたふ見れば 古の ことそ思ほゆる 水江の 浦島の子が 堅魚(かつを)釣り 鯛(たひ)釣りほこり

「住吉」が浪花の住吉なのか、単に澄んだ海岸と言う意味なのか。筒川と筒男も面白い。

 難波には豊受大神の伝承が残っている。『摂津国風土記逸文』から。
 昔、止与宇可乃売神は山の中にいて飯を盛った。それによって名とした。
 またいう、昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山にいて、この山を台所にしていた。のちにわけが
 あって、やむをえず、ついに丹波の国の比遅の麻奈韋に遷られた。

 浦島伝承や豊受大神の信仰が、豊の国から難波へ、さらに丹後へと伝わっていった可能性があります。

 住吉にいた豊受大神
  豊の国と難波、豊の国にいた女神の赤留比売も難波へ遷っている。『古事記』では、赤留比売は「色々な珍味をそろえ夫に食べさせた。」とあり、食物を司る巫女であり神女であった。すなわち豊の国の食物の神である。ヌナクラと呼ばれたイナクラにいる豊宇可乃売の神といえよう。
 『住吉大社神代記』によれば、住吉大社の第四宮について、「姫神宮。御名。氣長足姫皇后宮。」とあり、氣長足姫は姫神すなわち赤留比売を自らの宮に祀っていた。これが豊受大神の原形でしょう。

 他の重要な豊後・摂津・丹後のつながり。
    彦火明命−・・−椎根津彦命(倭宿禰命)−−
    彦火明命:丹後の籠神社  椎根津彦命(豊後:椎根津彦神社  摂津:保久良神社)

 各地の伝承

 福島県いわき市下仁井田 諏訪神社 浦島太郎屋敷跡
 
 神奈川県横浜市七島町 連法寺 帰ってきた太郎が両親の墓を探して、当地で見つけ没した。
 神奈川県横浜市神奈川本町 慶雲寺 乙姫様からいただいたという菩薩像がある。

 長野県木曽郡山口村 竜宮峽乙姫岩 寝覚の床で釣りをしていた浦島太郎は鉄砲水で流され、この地に着く。これに気づいた乙姫は浦島太郎を介抱し、やがて二人は恋仲となり、一緒に暮らす。

 愛知県武豊町 知里付神社 神社の東南に、「負亀(おぶがめ)」という土地に浦島屋敷がある。浦島太郎が助けた亀の背に負ぶさって出発したのでその名になっている。

 石川県松任市 石ノ木塚 助けた亀の母の背中に乗って竜宮城へ行く。帰ると100年経っていた。

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