Uga 弥生と稲作

(1)稲作の伝来
中国 8千年前の湖南省北部遺跡から炭化米が出土。
 7千年前の稲作遺跡である揚子江河口の河姆渡(カボト)は、程度の高い稲作文化であった。
日本 熱帯ジャポニカが伝達、宮崎県えびの市桑田遺跡 縄文晩期 焼畑稲作。
 岡山県総社市 南溝手遺跡 後期縄文土器の中から イネ のプラントオパール。
 紀元前500年 福岡県博多区板付関 水稲稲作。縄文晩期の水田跡が、弥生遺跡の40cm下から出土。水路もある。
 弥生時代とは、水稲による稲作、青銅器・鉄器の使用の時代である。
 前300年 大阪湾海岸地域。近畿あたりの縄文人が西の弥生人と交わって、コメの文化をはぐくった。
 弥生末期 本州最北端まで水田稲作が伝播。
 寒冷地の稲作は 常食ではなく、備蓄、マツリ などのためと思われる。


(2)コメは神
  古代王権は、コメを単なる食糧とみなすのではなく、神とみていた。天皇家中心の統一国家をつくろうとしたとき、国家目標の中枢にコメを置いたのある。
 従って、天孫が降臨して、この葦原の中津国を豊葦原の瑞穂の国にするのである。
 『記紀』は、日本文化は、豊葦原の瑞穂の国の文化にするとの構想で描かれている。
 稲作は、天照大神が天孫を経由して、蒼人草である国民にことよさす(委託)した作業である。
 公が種もみを渡し、収穫できたら、応分のコメを差し出す仕組みが税金の仕組みとなった。
 コメは日本のソウルフードである。日本から水田の風景を無くしてはならない。


(3)古事記神話 オオゲツヒメの物語
  1 二神の国生み
 次に伊予之二名島を生みき。この島は身一つにして面四つあり。面毎に名あり。故(カレ)、伊予国を愛比売(エヒメ)と謂ひ、讃岐国を飯依比古と謂ひ、粟国を大宜都比売(オホゲツヒメ)と謂ひ、土左国を建依別と謂ふ。

  2 二神の神生み
 次に生みし神の名は、鳥之石楠船神、亦の名は天鳥船と謂ふ。次に大宜都比売神を生みき。次に火之夜芸速男神(ヒノヤギハヤヲノカミ)を生みき。

  3 スサノヲ 天上で暴れる
 ここに速須佐之男命、天照大御神に白(マヲ)さく、「我(ア)が心清く明(アカ)き故に、我が生みし子は手弱女を得つ。これによりて言さば、自ら我勝ちぬ」と云ひて、勝さびに天照大御神の営田(ツクダ)の畔を離ち、その溝を埋め、またその大嘗(オホニヘ)聞こしめす殿に屎まり散らしき。

 4 スサノヲ、高天原から追放され、大宜津比売神を殺す。
 大宜津比売神、殺さえし神の身に生りし物は、頭に蚕生り、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰(ホト)に麦生リ、尻に大豆(マメ)生りき。故(カレ)、ここに神産巣日(カムムスヒ)の御祖命、これを取らしめて、種と成したまひき。

   4は、所謂穀物神話である。殺された女神から穀物が生じるハイウェレ神話である。
 ハイウェレ神話は神の死体を埋めると植物が生えるという話で、これは親株の球根を植えると複数の株が収穫できるという「穀物栽培以前の農業」の神話化ともいわれ、オオゲツヒメ・ウケモチの日本の穀物起源神話は古い神話と穀物が合わさったものである。
 ハイヌウェレ神話は東南アジアだけでなく、中南米・アフリカなどにも見られる。

検討
 大宜津比売神の目から稲種が出来ている。しかし、その前に高天原ではすでに田か営まれ、大嘗祭まで行われていたようであり、この穀物神話の置く場所が1か2の辺りが妥当といえよう。  

 2でのオオゲツヒメは火の神より先に生まれており、焼畑農耕以前の穀物採取の女神とも見るかとができる。栗や椎などの木の実、イチゴやブドウのような果実、茸、海草など。
   このことは、『日本書紀』に、スサノヲが八岐大蛇退治に使った酒は、「汝可以衆菓釀酒八甕。」とあり、果実酒であり、米や雑穀酒ではありません。ワインだったのかも。


(4)オオクニヌシとスクナヒコが普及したもの   
 風土記には、この二神による稲作や田の話がでている。
出雲国飯石郡多禰郷  大神大穴持命が須ク奈比古命が天の下を巡って歩かれたとき、稲の種をここでこぼされた。
出雲国仁多郡三処郷 大穴持命が詔して「この地の田は結構な田だ。」と言われた。
播磨国揖保郡御橋山 大汝命が俵を積んで橋(梯子)をお立てになった。
播磨国揖保郡稲積山 大汝命と少日子根命の二柱の神が神前郡ハニ岡の里の生野の峰について、この山を望み見て、「あの山には稲種を置くことにしよう。」と仰せられた。
日向国風土記逸文「知鋪郷 瓊々杵尊が降臨された際、空は暗くて昼夜の区別がなく、人であろうが何であろうが、道を失って物の区別がつかなかった。その時、大鉗(おおくわ)・小鉗(こくわ)という二人の土蜘蛛がいた。彼等が言うには「瓊々杵尊が、その尊い御手で稲の千穂を抜いて籾(もみ)とし、四方に投げ散らせば、きっと明るくなるでしょう」と。そこでその通りに多くの稲の穂を揉んで籾とし、投げ散らした。すると、空が晴れ、日も月も照り輝いた。

検討
 風土記は天孫降臨前から稲作が行われていたことを物がったています。しかし、『記紀』には、二神は天下をおさめ、人間と畜産の病気を治する方法を定め、鳥・獣・虫の災害を防ぐ方法を定めました。 とありますが、稲作については書かれておりません。
 ところが、スクナヒコを知っていたのは、崩彦(クエビコ)という山田のそほど(案山子)でした。稲田だったのかもしれません。
 さて、スクナヒコは伯耆国の風土記、相見郡余戸里の条に、「粟島がある。少日子命、粟を蒔いてよく実ったとき、そこで粟に載って常世の国に弾かれて渡りなされた。」とあります。粟の神だったことを印象付けています。
 『記紀』は、稲作は天孫が降臨してから行われたことにしたいようです。しかす素戔嗚尊の妻は櫛稲田媛で、ここにひょっこりと稲作が顔を出しているように思います。 以上


参考    
吉田敦彦 日本神話における稲作と焼畑  
上田正昭 私の日本古代史 上

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