やすやす靱物語

魚市場編

摂州大坂全図

 天保年間(1831〜45)の地図。


靱の歴史

 船場に居た塩干魚商らも船からの荷下ろしの便の悪さについては同様であった。それで、津村葭島へ移り、靱の海産物問屋街として発展してきた。この地域は、東は西横堀川・南は阿波堀川・北は京町堀川・西は百間堀川に囲まれた狭い島であった。
 大坂では平野郷などで綿花栽培が盛んであったので、肥料として干鰯(ほしか)の需要が旺盛であったので、これも靱の問屋で扱うようになった。他に、塩魚・鰹節・昆布等を扱った。


 靱地域魚市場略史


 元和八年(1622)津村葭島の開発に乗り出し、移転。新靱町、新天満町、海部堀町の三町を形成。


 寛永元年(1624)、新堀開削を願い出て、海部堀川を開く。堀止を永代堀と呼ぶのは、幕府から永代使用許可を受けたからである。堀の川底にも石畳を敷き、堀の両側も石垣で固めた見事な川岸であった。明治維新後も地画を永代使用の許可を得ている。

楠永神社の永代浜の碑と海産物問屋の碑
 

靱市場 永代浜 摂津名所図絵

  上の橋を渡って左側に住吉神社と楠木があった。楠木は空襲で真っ黒に焼けてしまったが、それが幸いして進駐軍の伐れと命令に堅くてきれないので、そのまま残された。根が生きていたので、若木として蘇った。

 明治四二年(1909)住吉神社は港区の住吉神社へ合祀。

楠永神社の御神木     

港住吉神社の境内の碑

靱住吉神社の造り人形 『西区むかしの物語』から

 住吉神社の人形祭りは大阪の夏の風物誌であった。各町内一箇所ずつ、舞台を仮設して、塩干魚で作った人形を奉納した。人形の衣装の材料は全て塩干魚類であり、それに干エビやゴマメなどで絵付けされており、さらに海藻類やスルメでいろいろと飾り付けで、その年の人気のあった芝居や小説の主人公などの等身大の人形に仕立てて見物人を楽しませていた。ところが材料が材料だけに、特有の臭気が漂う中に、多くの蠅が集まってきて、ものすごいことになっていた。見物人はそれぞれ、団扇を持って蠅を追い払いながら練り歩いたと言う。
 写真は楠公父子の別れの場。


 元和八年(1622)津村葭島の開発に乗り出し、移転。新靱町、新天満町、海部堀町の三町を形成。


 元和八年、塩魚商人である淀屋庵と鳥羽屋善七の両名が代表となり、津村の葭島の開発を企て、時の町奉行嶋田越前守、久貝因幡守へ願い出て、許可を得た。その結果、旧地より一同新開地に移住し、三町が造成された。淀屋庵は、中之島の開発者淀屋常安の子で、十三町(中央区大川町)住み、玄庵とも称した。
 かくして靱の開発が行われたが、三町は海上よりの荷物の扱いには不便な点があった。そこで寛永五年(1624)再び町奉行所に願い出て、三町の間に運河を開く許可を得た。この川は南の阿波座堀川より起こり、海部堀町の東側で直角に曲がり、西へ流れて百間堀川に入るものであった。屈折点を永代浜とよび、塩魚荷物の荷に揚場とするものであった。

 運河の曲がり角を永代浜と呼んだ。全国から塩干魚・干鰯の荷が永代浜に陸揚げされるようになった。
 時がたつに連れて、塩干魚・干鰯を扱う業者が増えて、三町から隣接町へと広がっていった。

 一方、享保年間(1715〜) 海部掘川沿いの材木商は立売掘や西横掘方面に移転していった。その後を襲った塩魚商は水運の便もあって、多いに栄えたが、靱開発当初からの塩魚問屋は営業面ではおされぎみであった。さらに、新天満・新靱両町の「由緒」を持ちたいと願うようになり、二町には、新参者として反対する者も多かったが、この三町以外でも新たに問屋業を開く者もあり、三町同時に開発されたものとして、結合して相たすけ、三町問屋のブランドを共有した。


 
  前述のように元和八年(1622)靱の塩干魚商は敬三町を開発して営業をはじめ、当初は新靱町・新天満町の両町に店を開き、海部掘川町には主として材木商人が居住していた。しかし同町はさきの両町に接しているのみならず、塩魚を積み登る小船が海部掘川を遡って着船する便利な土地であるため、塩魚問屋や仲買店でここで開業する者が次第に増加し、享保年間(1716〜35)の頃には、材木商は立売掘や西横掘方面に移転して、遂に全町すべてが塩魚店となったばかりでなく、隣町の敷屋町にも進出する繁栄振りであった。
 海部掘川町の塩魚商は、舟運に恵まれた場所であるため大いに栄えたが、新天満・新靱両町の問屋は、靱閲発当初よりの塩魚問屋であるとの誇りを持ち、海部掘川町の問屋を目して「浜問屋」と軽視したが、営業上では却って浜問屋に圧迫される有様であった。このため延享年問(1744〜47)に至って、新靱町・新天満町の問屋が、古来よりの由緒をもって町奉行に年頭八朔の祝詞を上ることを許されたさいに、海部堀川町の問屋もこれに加入し、共々町奉行に祝詞を上る資格を得たいとした。しかし両町問屋中には両町塩魚問屋の由緒と営業に割込むものとして反対するものが多かったが、三町は同時に開発されたものであり、かつ浜問屋開業以後相当年数も経ち、浦々へ対しての仕入銀も多く、かつ近年他所浜々にて新に問屋業を開く者すらあるとのことで、三町が結合し相助けるべきであるとして、三町問屋の名を用いることとなった。当時の営業には、ただ実力だけでなく、飽く迄も「由緒」や「仕来り」あるは「分」が尊重され、仲間全体の諒解が必要で、すでに営業上でも有利な立場にあった海部掘川町も両町の問屋に対し、将来両町の意に従うことを約し、我意を主張せずとの誓約を入れて、漸く加入を許された。
 当時の塩魚問屋の規約中、もっとも古いものとして、元文二年(1737)の「三町問屋商法につき定書」があるが、当時の商慣習や中貫の関係をみる事例として、『大阪商業史資料』に掲載されている。

 明和四年(1767)永代堀は埋立てられたが、まもなく幅約三間(約8メートル)の堀川として復活し、その最上流部に門樋橋、その下流に永代橋が架かっていた。門樋橋は初め通常の橋ではなく門樋(水門)であり、橋名はこの名残からきている。
 大正二年の市電の敷設にともない幅員22.4メートル、橋長 4.4メートルの橋に架け替えられた。
 永代橋は海部堀川の開削当時からあり永代浜に通じる橋として架橋された歴史のある橋であった。昭和二六年海部堀川の埋立てにより両橋とも姿を消した。

永代橋・門樋橋跡の碑 なにわ筋東側

永代橋・門樋橋跡の碑の中の地図

 

 安永九年正月(1780) 雑喉場生魚問屋と三町塩魚問屋との問に訴訟問題が起こる。靱三町の問屋はますます繁盛した。加えて、三町問屋が永代浜にて生魚市売をはじめて、雑喉場魚市場に迷惑をかけるようになり、取り扱い品目について訴訟が起こった。
 結果として、取扱品目を明確にした。 。

 以上の靱三町の問屋仲買のほか、塩干魚の問屋として「五組問屋」あるいは「内平野町組」「海部掘川町赦屋町組」「立売掘・長掘・道頓掘・掘江組」「出口町組」「南北掘江新大黒町組」 「南掘江五丁目組」など多数の組合が形成され、商運いよいよ繁栄に赴いたが、やがて雑喉場生魚問屋と三町塩魚問屋との問に、安永九年正月(1780) 訴訟問題を引起し、漸く天明二年三月(1783)に至り落着した。

 この事件の発端は、近頃三町問屋永代浜にて生魚市売をはじめ雑喉場魚市場に迷惑をおよぽすため、市売は勿論生魚取扱を禁止されたいと訴訟を提起し、官でも惣年寄に諭して調停を試みたが、双方その主張を抂げず容易に解決をみなかった。すなわち三町問星の陳述によれば「我等先祖は往古天満鳴尾町に住して魚商を営み、其後本靱町・本天満町に移り、元和八年津村の霞島田畑を開いて三町とし、荷物運送の便を図ってて新掘を出願、開さく完成してその沿岸を永代浜と号し諸魚市場の免許を得たものである。それ故永代浜は全部三町の所有ではないが、三町より支配し、延享年問および宝暦年間他町住人で浜先を所有する者が家屋を新築しようとしたさいも、三町より出願し新建家禁止となった。また西成郡今宮村より毎年禁裏御所御厨子供卸の魚類を調進するにあたって三町より売上げているのは、まさに諸魚市場赦免の証である」と主唱した。「大阪市史」第一)

 しかし町奉行の裁定では、三町問屋が永代浜に諸魚市場の免許を得たとする確証はなく先年の問屋株願で差出した口書にも「塩魚・干魚・鰹節等市売いたし」とあって諸魚市場のことは無かった。また今宮村より奉献の禁裏供御の魚類も必ず塩魚問屋より購入せよとの規定はない。よって今後生魚市を開くことをやめ、生魚問屋も塩魚を売買してはならないと申渡し、ここに両問屋の営業範囲は確定するに至った。ところがある種の商品例えば生節・煎薙喉・かますごのようなものは、いずれに属するか紛議を生じたが、再三訴訟におよぶは両問屋の迷惑になるところから、三町問屋にて取扱品目を明記し雉喉場問屋の承諾を得て録上すべしとの命があった。よって天明三年五月(1783)三町問屋より上申したものはつぎの二十二種であった。『≡町・雑喉場生節争論一件と三町取捌品類書上』。


 天明三年五月(1783)取扱品目を明記

 品類書の覚
一 都て塩魚類    一 都て干魚類     一 都て生干魚類
一 都て鰹節類    一 生節        一 都て煎雑喉類
一 都て塩辛類    一 ごまめ       一 かます    
一 ゆでゑび     一 慰斗        一 からすみ
一 身鯨       一 皮鯨        一 煮がら
一 けたいりこ    一 烏賊鯣(するめ)  一 からさけ
一 鯡(にしん)   一 鰊鯑(かずのこ)  一 棒だら
一 串貝・煮貝・繋貝

 前述のように塩魚商は新靱・新天満・海部掘三町に移転し、また海部掘川を開さくしてより、諸国の荷物の廻着が増加し、従来取扱い来った食料塩干魚のはかに、田畑の肥料に使用する干鰯の取引を開始する問屋を生じるに至った。その仕入法としては、まず縁故を求めて諸国漁場の網元に仕入銀を貸与し新漁場新網株を設定せしめ、漁獲の鰯を干鰯として銀主の問屋に送らせる方法であった。これより畿内・播磨・丹波・伊賀・近江・紀伊および阿波などの百姓商人が仕入のため多数靱の市場に参集し、大いに大阪の繁栄をもたらすに至った。


 干鰯船は、米・洒・絹布・綿・大物・薬種・神器・仏具・船具を積んで帰った。

 大阪に積登る魚荷船は、快速を必要とする関係から、おおむね小船を使用し、生魚船などは荷物を売捌くや即日即刻に出船し、塩魚船でも三〜五日逗留してその問に若干の買物を積込み出船するを常とした。ところが干鰯船は、中船を使用して積登り、五日・十日ないし半月も滞留して、米・洒・絹布・綿・大物・薬種・神器・仏具・船具その他の品を浦々の注文に従って買入れ積下るを例とした。こうしたことから多数の干鰯仲買が生れ、次第に三町の地続きである油掛町・信濃町・海部町・敷屋町・京町堀三〜五丁目にまで拡大し、これら諸町と併せ靱あるいは靱の島といわれるに至った。



 干鰯商人達は戎講を設け、規約を設け、他の浜での買い付けを禁じ、新規参入者へのルールも決めていた。このような事で、干鰯の価格があがったとして、農民からの苦情もあり、奉行所の調査もはいった。結果としては、鰯の大坂入庫量がが現象しており、問屋仲買人の問題ではないことが判明した。、

 干鰯商人は承応二年(1653)戎講を設け、全仲間を四人組若干に分ち、順番に諸般の事務を処理していた模様である。戎講は毎年正月十日、いわゆる十日戎の日をもって仲間一同参会し、規約を正し、親睦を厚うするを目的とした。また寛文元年三月(1661)の定書によると、他浜にて買合をするを禁じ、新加入者には銀五枚を出させ、退会者には相当の銀を返付し、仲間の銀子は当番組中に引継ぐものとした。またこの頃より問屋仲買の別も生まれ、寛文八年(1668)の仲買定には、仲間加入金を銀十枚に増加し、仲買より問屋に交渉して干鰯一俵に付五厘の値引を請い、うち一厘を戎講その他の漁事に用い、四厘を仲間全般に分配することとした。これは厘引鋭と称し、永く鰯仲間の仕法として残った。

 他方干鰯市場も生れ、逐年干鰯荷物の積登り多く、いよいよ不猟市中繁盛を来たし、干鰯問屋仲買数も増加したが(宝永七年の干鰯屋総数二百三十四)、やがてその問の競争から新古両組に分裂する騒ぎとなった。ところが寛保三年(1743)には肥料の高値から摂津島上畠下両郡八十四力村の農民から生活困難を町奉行所に訴え出で、町奉行所でも惣年寄に命じ、干鰯荷物の登高及び相場や両組分裂の理由分裂の直段におよぼす影響を調査せしめた。これによると干鰯漁場は東国では相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・奥州のうち南部・仙台・磐城、西国筋では阿波・土佐・伊予・豊後・筑前・肥前・日向・薩摩・対馬・長門・紀伊、北国では出雲・因幡・越後・越中・若狭等であるが、近年不漁で干鰯の大阪登高は年毎に減少しこれが価格騰貴となっている。必ずしも新古問屋仲買分裂が騰貴の原因でないとしたが、町奉行所ではその処置に苦しみながら新古問屋の合体を命じた。しかしその後も分裂するなどのことがあった。

 ところが古来より大阪へ輸送し来った肥料は、主として西国・北国および関東物の干鰯・鰯メ粕等で松前産物の入荷は極めて少なく、ために組合の制裁外にあったが、文化・文政の頃から漸次着荷が拡大し、これを取扱う商人は、干鰯商の中から分れて松前組と称する仲間組合を結成し、降って弘化四年(1847)さらに松前荷受問屋と改称したが、安政五年三月(1858)に至って幕府は靱剣先町に箱館産物会所を創立し、兵庫にその出張所をおき、松前物の一手取捌を行った。そして当時十三軒を有した松前荷受問屋は、この時から会所附仲買を命ぜられた。

 以上のように靱の地区にも時代より商況に若干の消長はあったが、永代浜干鰯市、塩魚舗並びに近くに雑喉場魚市をかかえ、地区の繁栄はまことにすざましいものがあった。
、『靱の歴史』川端直正、から。


 住吉大社の鳥居の北隣の巨大な石燈籠は明治二三年(1890)、靱の干鰯問屋の寄進になるものである。参詣人には、靱の威勢がよく伝わったであろう。
 干鰯問屋のHT家の女性でとりわけ信心の深い方がおられ、戦前に住吉大社の末社として、おいとしぼし社を寄進されている。その女性はどのような理由があったのか、実の息子と絶縁し、財産をわけている。その息子も今は90歳を越え、病院に入っている。筆者とは馬が合い、仲良がかった。靱で最も金持ちと最も貧乏人のコンビであった。

住吉大社の石燈籠

おいとしぼし社

 昭和六年(1931)に大阪市中央卸売市場が開設されるまでその機能を果たした。その後も商いは続けられた。


 昭和二〇年(1945)三月の空襲によって殆ど焼き尽くされた。

 昭和三年(1923) 楠木は樹齢400年とも云われる大木があり、神木とされてきた。昭和三年十二月、楠木の側の川岸の石垣を修理していた際、白蛇が出てきたので、そのまま梅戻した。噂を聞いて多くの人々お参りに来たので、楠樹の下に小祠を設けて祀るにいたった。楠永神社が設立された。


 靱公園が米軍飛行場なった際、楠木を伐るとのことであったが、堅くて伐れず、今日まで残っている。

雑喉場の歴史

雑喉場市場 鮮魚市場
江之子島に立つ「雑喉場魚市場」の碑



 靱地域の北西側に隣接していた雑喉場市場は主に鮮魚、靱は塩魚・干鰯を扱っていた。雑喉場がより海に近く、靱はその東側で、漁船などが入港する時間差が問題だったようだ。 

 両者は元々一体であり、東側から移転してきた。

 天正年間(1573〜92)以前は、天満の鳴尾町に生魚と塩干魚の市場があった。秀吉によの城下町建設のときに船場に移転、その一帯は旧地にちなんで天満町と名づけられた。当地を訪ねた秀吉は、市場の売り声が「何十文やすやす、何百文やすやす」と言うのを聞き、「やすやす」とは矢を巣におさめるのに通じ、天下泰平のしるしだと喜んで、町名を靱(うつぼ:矢の巣の意味)と改めたと伝わる。                                                                

 船場の生魚商17軒が元和元年(1615)に南の上魚屋町に移転した。船場一帯や上魚屋町では、生魚の集散に不便であり、真夏には荷が腐敗する恐れがあった。そこで生魚商たちは漁船の便がいいより西へ移っていった。雑喉場市場である。

雑喉場市場 摂津名所図絵

雑喉場市場 摂津名所図絵


 昭和六年(1931)、大阪市に中央卸売市場が開設されたのを期に廃止となった。

 参考文献 『西区史 1』、『靱の歴史』川端直正、『いのちの森ー生物多様性公園をめざしてー大阪都心・靱公園の自然と歴史ー』

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