愛宕神社
京都市右京区嵯峨愛宕町1

登り口の鳥居

交通
嵐山から清滝行きバス終点下車 清滝navitime

祭神
本宮(端の御前) 稚産日命、埴山姫命、伊弉冉尊、天熊人命、豐受姫命
若宮(奥の御前) 雷神、迦倶槌命、破無神
奥宮 大國主命ほか十数社

参道の登山道 六合目付近

由緒

 愛宕山頂に鎮座、この山の別名白雲寺または愛宕権現と呼ばれた神仏習合の社。本地佛は勝軍地蔵で主祭神は火神の迦倶槌命ともされ、全国に分布する愛宕神社の総本社である。

 愛宕山信仰は、祖霊が留まる山岳信仰と火への信仰に仏教諸信仰が加わり、陰陽道的な方位の思想も入ったようだ。都から見て、北西、乾、妖怪鬼神の棲む所であり、神門として恐れられた。

山頂の鉄の鳥居と拝殿

 

 創建の次第
 延喜式神名帳に丹波国桑田郡に阿多古神社が載っている。貞観六年(864)『三代実録』には「従丹波国正六位上愛当護神従五位下」との神階授与の記事があり、元慶四年(880)「授丹波国阿当護山無位雷神。破無神、並従五位下」とある。この間に「山」に遷座したのだろうか。
 丹後国の愛宕神社であるが、亀岡市千歳町国分南山に元愛宕と呼ばれる愛宕神社が鎮座、ここから山頂へ遷座をしていったとの伝承がある。一方、愛宕山頂はかっては丹後国であったが平安時代に変更になったと云う。

本殿

 修験と天狗
 神仏習合の進展に伴い、愛宕山は修験者の修行場となり、祭神も天狗の姿をした愛宕権現太郎坊とも称された。こう云うことは開創伝承に役小角(修験道の開祖)と泰澄(白山の開祖)が山頂に神廟を造立したとの伝承を生んでいる。

 役行者の従者である前鬼後鬼とかいわゆる山伏の使役霊を護法とか童子と呼ぶ。さらに護法は烏天狗のようなものとの概念が生じ、一般化して山伏と天狗との関係ができあがり、修験の山には太郎坊などの天狗が住むと信じられるようになった。
 賀茂氏の祖である八咫烏などがイメージされたのかも知れないが定かではない。

 『白雲寺縁起』によれば、役小角が愛宕山に登ろうとして清滝に至った。この時、大杉があって天地に広がり、九億四万余の天狗が集まり、小角に向かって云うには「我らは先き二千年にこの霊山会場に仏の付属をうけ大魔王となって山を領有し、群生を利益するであろう」と語って姿を消した。よってこの杉を清滝四所明神とし、滝の上に千手観音を安置した。四所明神は燧権現(ひうちごんげん)とも呼ぶ。

若宮


 
修験は神仙術呪術修得が主な目的であり、其れ故の特異な信仰の雰囲気が漂い、天狗の像の目に釘を打ち込んで天皇を呪詛したような記事も残っている。
 修験者の姿はまさに天狗に見えたのであろう。

 承和三年(836)、七高山が定められた。官符を以て鎮護国家を祈るのである。比叡、比良、伊吹、神峯、愛宕、金峯、葛木である。修験の山々である。

たたずまい
 市内から愛宕山を眺めると、山頂に更にコブのような盛り上がりがある。これが朝日峯と云い、ここに愛宕神社が鎮座している。924m。

愛宕山遠景 嵐山から

 京都市の左京区付近はその昔は愛宕郡(おたぎ)であり、愛宕郷があった。六波羅密寺の付近である。この寺から東は鳥辺野に近く、葬送の地であった。
 一方、洛西の愛宕山登山口の清滝には化野念仏寺(あだしのねんぶつ)があり、ここはやはり葬送の地であったので、弘法大師が石仏を刻んで供養した地と伝わる。「あだ」は移り気、はかないの意味で、愛宕のアタに通じているのである。東の愛宕のオタも同じ意味。

拝殿前の磐座

 愛宕山登拝は登り2時間〜2時間半、下りは1時間〜1時間半を要する。9月の秋めいた日に登ったのだが、暑くて汗が吹き出てそれは厳しい登りであった。特にこの夏は暑く、出歩く事が少なく、鍛え方がいささか不足気味の初老の身にはこたえた。

 登るのにシンドイ人は里宮があればいいのだが、今はない。かっては黒木鳥居と伊勢斎宮旧跡で有名な嵯峨野の野宮神社がその役割を果たしていたようだ。野宮神社に摂社の愛宕神社が鎮座。
 愛宕山は市内からよく見えるので、遙拝をして火の用心。

参道途中の大杉大神
 

お祭り

 例祭  9月28日


平成祭礼データ由緒から

 愛宕略記

 愛宕神社は全国に御分社800余社を有し、防火・火伏の神として崇敬されている“愛宕さん”の総本宮として海抜924メートルの愛宕山、山上に鎮座する。
 大宝年間(701−704)、役小角が泰澄を伴って愛宕山に登り禁裏に奏上して山嶺を開き、朝日峰に神廟を造立。(「山城名勝志」の白雲寺縁起)

 光仁帝の勅により天応元年(781)、和気清麿公が慶俊僧都と力を合せ、王城鎮護の神として鎮座された。 中国の五台山に模した、1.朝日岳(峰)の白雲寺(愛宕大権現)2.大鷲峰の月輪寺3.高雄山の神願寺(神護寺)4.竜上山の日輪寺5.賀魔蔵山の伝法寺という五寺が山中の五山にあった(「扶桑京華志」)と記されている。
 「和歌初学抄」・「八雲御抄」・「和歌色葉」の和歌に詠まれ「本朝神仙伝」・「今昔物語集」・「源平盛衰記」・「太平記」等の物語に登場し、古くより修験者の修業場ともされ、祭神も天狗の姿をした愛宕権現太郎坊とも考えられ、火神ともされた。愛宕山中で宗教生活を送る修験者を「愛宕聖」(「源氏物語」)とか「清滝川聖」(「宇治拾遺物語」)と呼ばれて、愛宕信仰を全国に流布させ、これが慶応4年(1868)の神仏分離令までの愛宕山・白雲寺内大善院・教学院・威徳院・長床坊・福寿院の五坊の修験者支配と続き、神仏分離令後は、祭神の一つ勝軍地蔵は金蔵寺(現・西京区)に移座され仏寺を廃して愛宕神社となった。(別表社)

 以上

京都山城寺院神社大事典(平凡社)、天狗と山姥(河出書房新社)

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H16.9.24