枳尼天尊
孁京都市左京区浄土真如町82

社号


交通
京阪丸太町駅 東へ1.2kmゼンリン

祭神
稲荷大明神

鳥居

由緒
  大文字山を東に、またひときわ高くそびゆる霊峯比叡を仰ぎ、現存する鈴声山真如堂山門直ぐ左手に鎮座されます枳尼天尊は、弘法大師の御真作になる御尊像であります。
 その由来を尋ねまするに、吾が国において稲荷大明神ととして信仰される尊天は、皇統四十三代、元明帝の和銅四年(西暦710年)初午の日、はじめて此の土に出現されました次第であります。
 其の後幾星霜を経て皇統第五十代桓武帝の在世、弘法大師出世のみぎり、稲を荷える老翁と化現し給はって天尊が所依の本誓願をお宣ペになりました。それは「吾が本地枳尼天尊の真形を模刻し、あまねく衆生を利益、安楽ならしめよ」と大師に告げ給つた次第であります。
 かくして大師は御自身一刀二礼の作法を以て枳尼天の御尊像を彫刻し給ったのであります。故に世人は日本最初の稲荷大明神と尊称し奉り、古来より多年にわたりあがめ祭られて現在に至って参りました。

拝殿

 然るに明治維新の政策によって「神・仏判別の制度と排仏毀釈の風潮の波をかぶり、以来本地仏たる尊号枳尼天と唱え奉った次第であります。
 拝するに、尊天の十九の大誓願のうち、一には諸病を除き、二つには福徳を授け、三つには敬愛威福を与え、 十九には一切の希望を叶えて下さることが、此の天尊の大悲願であると記されています。
 この実例をみまするに、権現さまと呼ばれる徳川家康公は、此の天尊を深く信仰され、天下を治めるにいたり 報恩の為め祭祀料壹百石を供えられました。
 亦当山丈室の先師、公尊上人は厚く此の天尊を尊信し、天堂に参籠(おこもり)され、大般若経六百巻を真読された結果、御結願の暁にこつ然と檀上に白狐が、宝玉を持って来りて端厳微妙の童子に化身して告げることには、 「此れは字賀の宝珠也。上人の信心、誠を感応して是を授ける、常にこの宝珠を護念せられば、影り形にしたがうが如く所求の願い成就しないと云うことはないぞ、夢々疑う事勿れ」と告げ終って消え失せられました。

 上人拝受して御厨子に納め、内殿に安置、崇信されて今も存有し、当堂の神前に白狐手に捧げ持つのは、かか る謂(いわれ)であります。
 又、往昔、刀匠三条小鍛治宗近は、当堂の尊天を深く信仰され、或時宝剣の作製を受け、清浄潔済し庭火を焚 き尊天を祭り「ふいご」にかかったところ、白狐がいづこからか来たって童子に化身し、合槌を打ちつつ、打鍛治術 の奥秘を授け給わった由来あり、以来三条小鍛冶宗近の名誉天下にあらわれ、名工の名おおいにあがった。現在にても鍛冶職の家にて毎歳恒例として霜月八日に「ふいご祭り」と称して庭火を焚き、稲荷大明神を祭るはこのいわれがあるからであります。
 遠き世代より今に至るまで当天尊に依って不思議の御利益を戴いた人々、多大なることは世人、古老の多く知 るところであります。
 御霊験の大略をここに御紹介致し詰す次第であります。
  日本最初稲荷大明神 枳尼天尊略縁記

本殿

たたずまい
 真如堂の山門に鎮座する。真如堂は本尊阿弥陀如来。これは比叡山延暦寺常行堂にあったもので、神楽岡の東の女院離宮に移したのが当寺の創建と言う。正暦三年(992)のことである。後、火災にあったり、寺院の場所を転々としたが、再度当地に落ち着いた。
 紅葉の名所として名高い。

真如堂

真如堂

『京都・山城 寺院神社大事典』平凡社

京都山城の神々

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