白山神社
京都市中京区麸屋町押小路 its-mo

鳥居

交通
河原町御池の京都市役所西200m


祭神
菊理媛命 配祀 伊邪那岐命、伊邪那美命

摂社
白菊稲荷大明神「白菊稻荷大明神」
 

由緒
 『京都伝説散歩』(京都新聞社編)から
 白山といえば、石川県と岐阜県にまたがる白山火山帯の主峰。標高二千七首二メートル。古くから、聖地とし て信仰され、白山禅定と呼ばれた白衣の道老が登り下り、いまも登山者は多いが、この聖山の名を持った神社が、 意外に京都には多い。麸屋町押小路、白川、乙訓郡大山崎、相楽郡加茂町、綴喜郡和束町の、各白山神社がそ れ。
 それぞれに″菊理比売″らを祭神とし、縁結びの神として親しまれている。
 なかでも、京都市役所北、麸屋町押小路下ルの白山神社は町なかに位置していたせいか、中世から栄えた。 いまでこそ、町家の軒がギッツリ並んだ通りに、石の鳥居が小さな参道への入り口を、わずかに示しているだけ だが、かつて社地は、北は押小路通、南は御地通に及んだとか。創建は高倉天皇の平安末期、こんな話が伝わっ ている。社伝によればー。
 「では、どうしても、だめだとおっしゃるのだな・・・」
 折りから内裏へ白山の僧たちが無理難題。加賀国石川郷白山権現″加賀一の宮″の神輿を三基もかつぎ込み、 それをバックにしての強訴である。
 「・・・なんといわれましても帝は、首をタテにお振りにはなりませぬ」
 取り次ぎの公卿も、いまはガンとして、僧にいい切った。
 もはや、これまで −ー 屈強の、山の僧たちも引き揚げるしか手はない。三基の、重たい神輿を、また肩にかつ ぐと、内裏をスゴスゴあとにした。
 ちょうど、いまの麸屋町押小路までやってきた時である。
 強訴が不成功だったせいか、神輿が肩に食い込み、前に進まない。
「・・・面倒なり。このまま打ち捨てて、帰山しては・・・」
 僧たちは、神輿を打っ散らかし、一目散に逃げてしまった。
 さて、僧たちはそれでもよかったが、困ったのは近くの人たち。ありがたい神輿を雨ざらしというわけにもい くまい。人々ほ仕方なく、社をつくり、おまつりしたのだった。

社殿

 いまの白山神社の社はそのときの一基をまつった跡。
 他の一基は民家に、残りの一基も付近にあったそうだが、のち八坂神社に移された。
 祭神の菊理比売は″くくりひめ″と読み、くくるが結びにつながるところから、縁結びの神と親しまれるが、 この神様、歯痛治療にも霊験がある。
 その昔、後桜町天皇(1737−74)が歯痛で苦しまれたが、この神社で箸と神塩をうけ、たちどころになおったと記録にあって、歯痛祈願に、遠くからのおまいりもある。


本殿

たたずまい
 京都の下町風の一画に鳥居は西を向き、社殿は南面して鎮座。
 社務所があってお婆さんが座っておられたというか、参拝者が来るとさりげなく座られるようだ。境内には白菊稲荷社の他にも天満宮社、猿田彦社が狭苦しく鎮座。
 往古は北は押小路から南は坊門(御池通り)に致一町に余り、社殿も整っていたが、天明・元治再度の大火によって、建物、古文書類をも焼失してしまったという。



お祭り

 9月 19日  例祭

白山神社略記(平成祭礼データ)

 菊理媛の命〈又の御名白山媛(しらやまひめ)の命と申す〉伊邪那岐、伊邪那美2柱の神を併せ奉斎す。
 御祭神菊理媛命は、ククリヒメ命と申し奉り伊邪那岐、伊邪那美の2柱の神、泉平坂(よもつひらさか)にて御争ひ給いし時其の中に立たれ両者の御言葉を取伝へ調和して双方の主張を聞入れしめ給うた神に坐す〈日本書紀にあり〉。
 往古皇室、公卿始めて鉄漿(かね)〈おはぐろ〉を染められ給う時は当社の神楊枝、神塩を献上したり。
 後桜町天皇御歯痛にて悩ませ給ひし時或女官当社の神箸と神塩を献りしに御歯痛御平癒あらせられ御紋附き提灯御奉献有りこの提灯箱元治元年の兵火に焼失せり。
以上


京都・伝説散歩(京都新聞)、境内由緒書き

京都山城の神々

神奈備にようこそにもどる