飛行神社
八幡市八幡土井四四番地

鳥居


交通
京阪八幡市駅下車東南へ5分 ゼンリン

祭神
饒速日尊

ギリシャ神殿風拝殿

由緒
 御祭神
 饒速日尊は古代の空の神といわれ、天津神のみことのりをうけて「天璽瑞宝十種」を奉じお供の神三十二神を従えて天磐船という飛行船に乗って、河内国河上の哮峯に天降られた。
 そこから再び天磐船に乗り大空を翔行き大倭国島見白庭山に遷り坐した神様です。
 命が天降られた哮峯には、磐船神社(大阪府交野市私市)があり、ご神体は天磐船といわれる大石でその形が大船に似ているところから信仰の対象となっています。
 飛行神社は、饒速日尊と磐船神社のご分霊を正面社殿に祭神として鎮座、右の社殿には航空殉難者の霊を合祀、左の社殿には薬業に関係の深い薬租神を祀っています。別社として、福徳をもたらす常磐稲荷社がある。

社伝
 飛行神社を創建したのは、明治二十四年四月二十九日香川県丸亀の歩兵第十二聯隊練兵場に於いて、日本人として最初のゴム動力によるカラス型飛行機の飛行に成功した愛媛県八幡浜出身の二宮忠八です。慶応二年(1866)六月、海産物を商う二宮家の四男として出生。少年時代忠八はおとな並の考えを持つ変りものとみられていた。
 忠八 十二歳のとき、父がこの世を去り、働くこととなる。明治十三年伯父の薬種商の手伝いをするうち、物理や化学に深い興味を持ち、また測量技師の手伝いをするなど働きながら独学で得た知識をいかして、独走的で奇抜な凧を作り人々の関心をよび「忠八凧」と呼ばれた。
 明治二十年(1887)十二月、丸亀の歩兵第十二聯隊付の看護卒として入隊、明治二十ニ年十一月四国山岳地帯で行なわれた秋季機動演習中現在の香川県仲南町樅ノ木峠で昼食をとっていると、烏が四〜五十羽残飯を求めて谷を横切り、翼を広げ固定翼で滑空しているその婆に興味をしめし観察する。それが忠八の空を飛ぶ機会発明の大ヒント(飛行原理の発見)となる。
 以後研究を重ねて「カラス型飛行器」を完成し飛行に成功。次に人の乗れる玉虫型飛行器を考案、明治二十六年設計を完了し試作実験に入る矢先日清戦争が起り出兵。戦場の様子をみて、自分のの考えている飛行器を軍に供用すれば、便利であろうと考え軍用機として軍によって研究開発してもらうべく、飛行器の設計図を上申書に添えて願い出たが、却下される。
 忠八は、独カで作るしかないと決意し軍を除隊、日頃より信仰の強かった讃岐の金刀比羅官に参詣して、飛行機の独力完成を祈願する。明治三十一年忠八 三十三歳のときである。
 大志を持つ忠八は大日本製薬株式会社に入社、職工として活躍し品質のよい葵品の製造に心を注ぎ功績を上げて会社の発展に尽力した。
 ようやく自カで飛行機開発の条件が整い、資金も貯えられた明治三十三年忠八の出身地とよく似た地名の京都府八幡町に土地を求め、完成に向けて努力していた。ところが明治三十六年(1903)十二月十七日アメリカのライト兄弟が飛行機を完成し、飛行に成功した情報に接し、忠八こぶしを握りしめ無念の涙を流し、今飛行横を作ったとしても「欧米追従の飛行機」ライト兄弟の真似をしたという評価しか受けないだろうと製作を断念したのです。
 日清戦争の戦場で開発を上申して却下されたが、大正八年(1919)おもわぬことからその功績が認められる。世界はいよいよ飛行機の時代へと動き、飛行機による犠牲者が多くみられるようになる。それを知った忠八は、同じ飛行機を志した人間としてこれを見すごすことはできないと、その霊を慰めるために大正四年に八幡(現在地)の自邸ないに資財を投じて飛行神社を創建し、航空安全と航空事業の発展を祈願したのが当神社の起こりである。
 現在の社殿、拝殿、資料館は、平成元年飛行原理発見百周年を記念して、忠八翁の次男二宮顕次郎によって建てかえられた。

本殿と資料館

お姿
 住宅街の一角に東面して鎮座している。ジェットエンジンや零式戦闘機の機首部などが展示されている。
 矢田坐久志玉比古神社にも戦闘機のプロペラが鳥居に着けられている。

零式艦上戦闘機のプロペラ(大阪湾から引き上げ)

お祭り  4月 29日 例祭

『飛行神社由緒略記』

京都山城の神々

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