菱妻神社
京都市伏見区久我石原町3-274

鳥居

交通
京阪中書島からバス22号線神社前下車北側名神高速をくぐるits-mo


祭神
天兒屋根命

摂社
八幡宮「應神天皇」
具平宮「具平親王」
住吉神社「底筒男神、中筒男神、上筒男神」
粟島神社「少彦名命」
虫八幡宮「應神天皇」

拝殿

由緒
  元久元年(1113)久我家の祖、内大臣雅実が春日大明神を勧請したものと伝える。 社名は当所は「火止津目大明神」(火鎮)であった。

たたずまい
 名神高速のおかげなのか、社域が狭い。 かってはこの一円産土神であったと云うが、もっと頑張って欲しい気のする神社。

お祭り

 
 9月 中旬  例祭


平成祭礼データ 菱妻神社略史

 当神社は平安時代後期十二世紀の初め、第七十四代鳥羽天皇の永久元年(一一一三年)二月に右大臣源雅実公(後の太政大臣で久我家の祖)が、奈良の春日大明神から天児屋根命を勧請して、火止津目大明神と崇め奉ったことに始まる。藤原氏、源氏の氏神であると共に火止津目の名の如く、久我の郷の発展と郷人達の平和と幸福を守り給う鎮守の神として、お鎮まりになった御神徳高く、由緒の深い神社である。 御遷宮の時には、判官代、右衞門大尉竹内宿称家澄(当社神主渕田家の祖)が奉行し、源具仁親王はじめ、源氏(久我氏)、藤原氏の一族が、牛車三両、手輿数十丁をつらねて社参されたと、旧記に記されている。 その当時の歌「千種の花を手につみいれて、御所へ参らせ、御所へ参らせ。」この歌の通りに、華やかな遷宮当時の祭事をしのぶことができる。

 この歌は、近年まで、五月還幸祭の時に、男の児が、五色の造花(花まきといって、今も厄除とされている)で飾った古風牛車にのって、これをうたい、神輿のお供をする、華やかな、郷をあげての、いかにも氏子祭らしい風習が残されていた。一時は種々の事情で、神輿の渡御ができにくい状況にあったが、昭和五十三年四月に、御旅所が改新築されたのを機として牛車のお供はないが、還幸祭に神輿渡御が復活され、又、平成元年からは、樽に替り立派な子ども神輿がお供することとなった。

 中世の祭礼には、猿楽や競馬などの芸能もさかんに行われ、久我の住民はもちろん、近郷の者も集まり盛大をきわめたという。

 当社の神輿渡御の神幸祭を「御出」と言っているが、これは、夜行われ、社司に続いて神楽の神子たちが馬にのってともをし、いよいよ神輿の着御の時には松明を持った村中の善男善女老婦にいたるまでが、はちまき、たすきがけで、「セジョロヤ、マジョロ。」とはやしたてたという。 これは千歳、万歳の意味であって、今日もなお、御出の時「センジョロ。」といって、緋縮緬の襷をかけて着かざった女の児が、手に手に松明を持って神輿の先行をつとめるやさしい姿として残されていた。 御鎮座当時の本社は、桂川の西、地境方三十九間、本社、拝殿、神楽殿、御垣の御門に続いて東西に回廊、南に一の鳥居、東に具平宮(村上源氏の祖、久我家の大祖、具平親王をまつる)一、二の鳥居の間には、祭殿、御供殿、並びに久我公の成殿があり、又、高殿の東に遥拝所、及び御垣、又、御祭道の巽に惣門があり、祭殿に並んで、社司の宅があって、久我家との関わりが極めて深い。

 神領として本地の近辺五千坪の地があって田中に桧があり、数十丈の藤がかかっていた。この事からも当時の広大さがしのばれる。第七十五代崇徳天皇の長承三年(一一三四年)桂川の大洪水によって、社地をおかされ社領三百歩が渕となった。第七十六代近衛天皇の久寿元年(一一五四年)火止津目の字を改めて菱妻大明神として祀る。この頃には、親王宣下の時に奉幣使が社参される例であったという。又、本社より巽に惣門があり、奏聞口といい、辰の上刻まで人の通行を禁じていた。これは、南都より毎朝白い鹿が来てこの中を通り卯の刻に南都に帰ったといわれたことによる。

以上

『平成祭礼データ』『寺院神社大事典』山城 平凡社

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