賀茂別雷神社(かもわけいかづち)
上賀茂神社

京都市北区上賀茂本山339 its-mo

一の鳥居から二の鳥居

交通
市バス上賀茂神社


祭神
賀茂別雷神
摂社の内の式内社、論社
片山御子神社「玉依比賣命 事代主神の説もある」式内社片山御子神社
須波神社「阿須波神、波比祇神、生井神、福井神、綱長井神 または建御名方神」式内社須波神社論社
久我神社「賀茂建角身命」式内社久我神社論社
大田神社「天鈿女命」式内社太田神社
賀茂山口神社「御歳神 保食神の説もある」式内社賀茂山口神社
土師尾社「建玉依比古命」式内社賀茂波爾神社論社
山森社「素戔嗚神、奇稻田姫神、田心姫神」式内社鴨岡太神社論社


楼門と本殿(楼門の背後)




注釈
 下鴨神社とあわせて賀茂社とよばれる。祭神は日向曾の峰に天降した賀茂建角身命である。八咫烏神として神倭磐余彦を先導し、大和の葛木山に鎮まり、その地より秦氏賀茂氏の山城への移動とともに遷座した。
山代国岡田の賀茂(相楽郡加茂町北小鴨村44 岡田鴨神社)に遷り、さらに木津川を北上、賀茂川を上り、久我の国の北山基(北区紫竹下竹殿町 久我神社)に鎮座した。鴨神遊行説話である。 遊行と言われるが、実際にはイリ王朝(崇神天皇)の勢力に大和を追われた日子坐王と共に山城に逃れた葛城の鴨族の足跡を語っている。
 さて、そこで賀茂建角身命は丹波国の神野(兵庫県氷上町御油 神野神社)の神伊可古夜比売を娶り、玉依日子、玉依日売が生まれた。 ある日、娘の玉依日売が石川の瀬見の小川で水遊びをしていると、丹塗矢が川上より流れくだり、取って床の辺に置いておくと玉依日売は男の子を産んだ。成人して、祖父の賀茂建角身命が、汝の父と思う人に酒を飲ませよと言ったところ、その子は天に向かって祭りをなし、昇天した。 そこで賀茂建角身命はこれを賀茂別雷神と命名した。彼の父は乙訓郡の雷神であった。そして賀茂建角身命、神伊可古夜比売、玉依日売の三神は三井社に座した。賀茂社の祭神は雷神・水神である事を示す説話である。
 平安遷都にともない、賀茂氏の神社であった当神社は皇城の鎮守社となり、祭祀権も賀茂氏から朝廷に移り、賀茂県主は神官となった。

たたずまい
 加茂川の東、神山(こうやま)・衣笠山を背にし鎮座する。平成6年に世界の文化遺産に登録された。
 本殿は文久三年(1,863年)の建造で、三間社二面の流造である。他の建物も寛永五年(1,628年)の造営である。
 社域は広い。また摂社を始め、建造物は由緒の深さを感じる。

立砂 円錐型の神山を象ったもので神籬である。



片山御子神社 事代主神 式内社である。この地の地主神。




須波神社 式内社論社である。中古諏訪神社と記した。




大田神社 式内社太田神社である。野生のかきつばたで有名である。5月中旬が見頃。上賀茂神社東500m
神山や 大田の沢の かきつばた ふかきたのみは 色にみゆらむ




お祭り
 5月 5日 1日間 競馬会神事
騎射、駆馳の芸能化された姿が競馬である。この様な祭りがなされるのは、賀茂氏の本源が騎馬民族であった事を示している。

 5月12日 夜 御阿礼神事
 加茂川の上流のは貴船神社がある。この神は賀茂社より古い土地神であり奥宮里宮の関係を言う説もある。 丹塗矢は貴船の神とする考え方もあり、この方が素直ではある。 山城国風土記によれば乙訓の神となっているが、これは遷座の順序として岡田と賀茂の間に乙訓をいれる説もある。
 御阿礼神事は上社の北約八町の丸山の山中、御生野の地に一定の地を画し、御生(阿礼)所という神籬[ひもろぎ]を作る。 ここに神を迎える秘儀である。榊に遷された神は摂社棚尾社と遥拝所に迎え、本社には阿礼木(榊)の神幸がない。 社殿はこの祭りが出来てからのものであろう。
 また社殿は前後が開いており、神山を直接遥拝していたようである。後に祭りの日以外には後ろが閉じられるようになり、更には後ろが閉じられたままになった。

 5月15日 1日間 賀茂祭(葵祭)

*1日本の神々5「大和岩雄」(白水社)
京都山城寺院神社大事典(平凡社)

公式上賀茂神社
京都山城の神々


神奈備にようこそにもどる