北野天満宮
京都市上京区馬喰町 its-mo

神門

交通
京福電鉄白梅町下車北東へ10分 
バスも多い。


祭神
菅原道眞 配祀 中將殿、吉祥女

摂社
火之御子社「火雷神」
地主神社「天神地祇」「天穗日命、敦實親王、齋世親王」

由緒
 菅原道真略年譜(『天神さまの美術』展示会資料) 2001年大阪
 一歳 承和十二年六月二十五日 誕生
十一歳 初めて詩を詠む
十八歳 式部省試に及第、文章生となる
    応天門の変、藤原良房摂政となる
二三歳 文章得業生となる
    正六位下、下野権少掾に任じられる
二六歳 対策に合格し、正六位上になる
二七歳 玄蕃助及び少内記に任じられる
二八歳 母の喪により解官する
    本官に復し、渤海国王にい答える勅書を草す
三十歳 従五位下となり、ついで兵部少輔に任じられる
三三歳 式部少輔に任じられる
    文章博士となる
三五歳 従五位上となる
    藤原基経ら『文徳実録』を撰進、道真その序を草す
三六歳 藤原基経関白となる
三九歳 加賀権守を兼ねる
四二歳 讃岐守に任じられ、讃岐国に赴任する
四三歳 宇多天皇即位
    阿衡の紛議起こる
四四歳 阿衡事件につき関白藤原基経に書を上呈する
四五歳 春、国司の任を終えて帰京する
四七歳 蔵人頭に補され、式部少輔に任じられる
    左中弁を兼ねる
四八歳 従四位下となる
    『三代実録』の撰修にあたる
    左京大夫を兼ねる
    この頃『類聚国史』を完成
四九歳 参議に任じられ式部大輔を兼ねる。左大弁に転じる
    勘解由長官を兼ねる 春宮亮を兼ねる
五十歳 遣唐大使に任じられる
    遣唐使派遣中止を進言する 侍従を兼ねる
五一歳 近江守を兼ねる
    紀長谷雄と渤海客使を鴻臚館に応接し、詩を賦す
    従三位に叙され、中納言に任じられる
    春宮権大夫を兼ねる
五二歳 民部郷を兼ねる
五三歳 権大納言に任じられ、右近衛大将を兼ねる
    正三位となる 醍醐天皇践祖祚
五五歳 右大臣に任じられる 藤原時平左大臣となる
五六歳 『管家文章』『管相公集』『管家集』を献上する
五七歳 従二位となる
    一月二五日 太宰権帥に左遷される」
    『去年今秋』の詩を詠む
    『三代実録』完成奏上 『延喜格』撰進
五九歳 『管家後集』を紀長谷雄に贈る
    延喜三年二月二五日 道真太宰府にて薨去 (903年)
905年 延喜 五年 味酒安行 菅原道真の祠廟を建てる
919年 延喜一九年 藤原仲平の奉行により太宰府天満宮の社殿を造営する
923年 延喜二三年 皇太子保明親王の急逝(21歳)
930年 延長八 年 清涼殿落雷事件 
947年 比良宮の神官の子太郎丸に神託、北野天満宮を創建する

拝殿

本殿


 菅原家の祖は土師氏で曽祖父の代に菅原に改姓。
 道真の右大臣任命は奈良時代、吉備真備以来の異例の出世と言われる。家柄と学者と言う事である。 藤原時平等による権力確立の策謀によっての左遷、失意と窮乏の内に配所で死去している。
 また道真は占いも長けており、当代の呪術師としても尊敬を受けていたのではなかったかと想定する方がおれれる。 神によく仕える人は神に近いわけで、死後の事件は道真の祟りとの声を加速したのかも知れない。

松崎天神絵巻 太宰府


北野天神絵巻 雷神


北野と言う地名は平安京の北部の野原であって、先にさまざまな神々が跋扈していた地であった。 当社の鎮座地には地主の神と雷神がすでに鎮座していた。雷神に引っ張られて当地をして道真を祀ったのかも知れない。

   地主神社     火之御子社
 




たたずまい
 丁度梅の花の美しい季節に参拝することが出来た。 社殿の華美さと梅の落ち着いた色彩とがうまく調和しており、初春の一日の散策にはうってつけ。

お祭り

 8月 4日 例祭

 3月25日 梅花祭 [通称]天神さん(御縁日)
 6月25日 御誕辰祭 [通称]夏越天神

北野天満宮 略記(平成祭礼データ)神社本庁

当宮は、贈太政大臣正一位菅原道真公をお祀した神社の総本社で、今から約千余年前村上天皇の天暦元年御神託により皇城鎮護の神として、当所に御鎮座。臣下として初めて官幣社に列せられ、一条天皇は始めて行幸されたが御一生を通じ、廿数度に及んだ。後代々の天皇の行幸せられるなど、皇室の御崇敬をはじめ、国民の尊崇も亦厚く、特に江戸時代に及んで幕府は庶民のために、全国に初等教育機関として、「寺子屋」を設立せしめると同時に、その精神的中心として菅公の分霊を当宮に求め、津々浦々に至るまで、神霊は「天神様」として庶民に奉斎され、また和魂漢才の精神は「学神」としての信仰を国民の間に確立せしめ、今日に及んだのである。

社殿は昔から朝廷及び将軍家が造営修繕に当られたので、現在の御殿は、豊太閤の遺命によって豊臣秀頼公が片桐且元を奉行として慶長十二年に造営せられた。三光門、絵馬所、神楽殿、東門、校倉等も皆其の時の建物で、本殿は八棟造と称せられ国家より国宝、重要文化財の指定をうけ、桃山建築の代表であり、その絢爛豪華さは謂うまでもないが、特に多数の現存桃山建築中でその創建当時の規模そのままに保存されているのは当宮が唯一のもので、神社建築史上でも、伊勢神宮、春日大社の如く、祭典の際庭上で執行されたのであるが、当宮現社殿の出現によって、初めて壮大な拝殿内でこれが執行されるに至ったことは、神社祭典史の上でも画期的のもので、後世の権現造の原型ともなり、本殿が八棟造と称せられ、以下諸建物の豪壮華麗なる姿とともに本邦国宝中第一級たるにはじない。

宝物には文道の大祖として古来朝野の崇敬一方ならぬ社のこととて、歴代の御宸翰、御寄進物、御物を初め、武将名家の献備品の内には国宝宝物が甚だ多い。中にも藤原信実画の北野根本縁起絵巻物の如きは、絵巻物の随一として世界的の名作で、其他行光行信光起画の各縁起も重要文化財である。古写日本書記(重要文化財)は校本として貴重なもので、北野本又は兼永本と謂われて名高い。刀剣中には源家重代の宝刀として名高い安綱作の鬼切丸(重要文化財)を始め名刀が少なくない。又、加藤清正奉納の日本地図大鏡は造鏡術並本邦古図の一として貴重なものである。
以上


日本の神々5(白水社)、京都山城寺院神社大事典(平凡社)、天神さまの美術

公式北野天満宮
京都山城の神々


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