吉祥院天満宮 

京都市南区吉祥院政所町3  nifty

南側の鳥居


交通
JR西大路駅 南へ800m


祭神
菅原道眞

由緒
 菅原氏の氏寺吉祥院に道真の霊を祀って造営されたもの。洛陽天満宮二五社の一つで旧村社。
 所伝によれば吉祥院は元慶四年(880)道真の父是善追福のために開創されたものという。一説には道真の祖父清公が建立したものともいう。また是善が遣唐使として渡航の途次、風浪に遭ったが吉祥天女の霊験によって難を逃れ、のちにこの吉祥天を安置するために建立したとの由来もあり、創建の年代や経緯は定かではない。
 『扶桑略記』に、治暦二年(1066)三月二八日吉祥院に新たに天神堂が造営され、道真の霊を祀った尊廟が移されたとみえている。この天神堂は、天神信仰と御霊信仰の流行によって多くの崇敬を集めた。往時は歴代天皇の厚信を得て盛んに勅祭が行われたというが、天正期(1573−92)に至ってこれも衰退した。なお寛元元年(1243)七月桂川の氾濫により、菅氏長者の大蔵郷菅原為長が吉祥院を他所へ移転させようとしたが、一夜にして小松が簇生して流失の難を免れたとして、菅氏一門をはじめ多くの人々の参詣を得たという。

拝殿

たたずまい
 広々とした境内であり、木々も豊であった。
 東側の鳥居から入ると、右側に吉祥院が鎮座している。
 さらに進むと、天神社の拝殿前に出る。東面していることになる。

本殿

吉祥院


菅公胞衣塚

お祭り

 10月 13日に近い日曜日 例祭

『平成祭りCD』 吉祥院天満宮略

 当宮は朱雀天皇が承平4年(菅公薨去後31年目)に菅家の領地であり菅原道具公が御誕生御成長された縁も深い当所に、我が国最初の天満宮として勅祀されたのに始まり、既に千四十余年を経ている所です。即ち此の地は恒武天皇が都を京都に遷された時、菅公の曽祖父古人卿、祖父清公卿供奉され帝より領地として十数町四方の土地(当時白井の庄ー石原の庄ー現在吉祥院)を賜り、その中央部に本邸を構え以来菅家の定住地とされたところで、仁明天皇承和12年6月25日に是善卿の子として生まれられたのが道真公であります。菅公は御幼名を梅園丸或いは吉祥丸と称し、生れながらにして御聡明で人に優れ神童の誉れがあり、日々たゆまぬ御勉強と御修養を重ねられ、遂に後世に永く崇められる大人格者、大学者、大政治家と成られたのであります。公は平和を愛し、神仏を信じ、崇高な人格と徳をもって人に接し、常に国を思われる誠の心を本として強い意志と堅い信念により旧弊を打破し革新の大業を着々と実行していかれたことは、当時の歴史を繙き数々の御事蹟を見るとき良く窮い知られ、時の帝宇多天皇より厚い御信任を戴かれ、又民衆からも高い信望を得られたこともよく諾ける処であります。醍醐天皇の御代藤原氏の讒奏により太宰府に左遷された公は、苦境にあっても騒がず恨まず、世を憂い国を思うの一心のみで、当時の詩歌或いは御言動によりその御精神の御様子が窺えるのであります。世の人々公を尊敬し思慕する念は御不遇への同情と共に強くなり、薨去後は益々拡まり、朱雀天皇は神勅により菅公の御幼少の尊像を御宸刻になり、菅神の霊として此の地に勅祀され、天満大自在天神と尊称されて年々勅祭をおこなうこととされました。よって当宮は、国家鎮護の祈願社とされた外、平和安全を祈る者、幼児・子供・青年の守護神として菅公にあやかり御加護を願う者、学問を志し又各種試験の合格を祈る者、雷その他の災厄を除かんと祈る者など遠近を問わず参詣し、御神威の高く尊いことは遠く全国に広まったのでありました。菅公薨去後千有余年を経た今日、全国各地に天満宮として祀られ天神様として尊崇する人々日毎に増しその社数の多いことは、是れ菅公の御遺徳の有り難いあらわれであります。世の諸賢此の由緒高き当宮に御参詣の上、天神様の広き厚き御神徳を欽仰され御加護御導きを戴かれますようお勧めいたします。
 以上

京都山城寺院神社大事典(平凡社)、平成祭礼データ(神社庁)

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