久我神社
京都市伏見区久我森の宮町8-1

鳥居と社叢


交通
京阪中書島からバス22号線 久我小学校前下車  its-mo



祭神
建角身命、玉依比賣命、別雷神
摂社 歯神社(はがみやしろ)「天神立命」など

由緒
 創建年代不詳。久何神社、鴨森大明神と称する。式内社。
 『久我神社舊記』(著作年代不詳)によれば、長岡京の艮角(うしとらのすみ)の守護神として鎮座とある。 また『三代実録』によれば、興我萬代継神の名が見え、当社のことかもと『式内社調査報告』は述べている。

 境内の由緒書きによれば、賀茂市の北上の際、久我の国に居を定め祖神を祀ったと『山城国風土記逸文』あるのを当社に比定する説もあり、別雷神誕生の里との伝承もあるようだ。

本殿



たたずまい
 
 朱の鳥居をくぐり、照葉樹の社叢の参道を行く。大井手川の森乃そり橋をわたる。 社殿背後は竹藪になっている。森の深い鎮守らしい神社。
 本殿横に、「お唐臼」の二個の石がおかれている。御旅所近くで発見されたもちつきの石とのこと。
 また本殿の向こうの横に、木を垣で囲って祀っている。WHAT?

お祭り
例祭   4月第一日曜日

石と木
 


久我神社略史
由緒
神社の旧記によれば、八世紀末、平安遷都に先立ち、桓武天皇が山背長岡に遷都され た延暦三年(七八四)頃、王城の艮角の守護神として御鎮座になった(秘伝神書抄) と伝えられ、以来千二百年の星霜を経た延喜式内社であり、久何神社とも号する。
一説には当社は往古、山背久我国造として、北山城一帯に蟠踞した久我氏の祖神、興 我萬代継神(三代実録)を祀った、本市における最も古い神社の一つであり、久我氏 の衰頽後、賀茂氏がこれに代わってその始神を祀ったのではないか。また、他の説で は、起源は古く、平安・長岡遷都以前に遡り、「山城国風土記」逸文に云う賀茂氏が 大和から木津川を経て、この久我国(葛野乙訓にわたる地方の古称)の伏見地方に居 をすえ、祖神を祀ったのが、当久我神社であり、更に賀茂川を北上して今の賀茂の地 に鎮まったと考えられる。と。
これらの事から、いずれにしても、歴史的に頗る深い由緒と信仰の跡を偲ぶことがで きるのである。尚、興味あることとして当地方の西の方(乙訓座火雷神)から丹塗矢 が当社(玉依比売命)にとんできて、やがて別雷神が生まれられたとも、此の里では 伝承されている。

式内社調査報告

京都山城の神々

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