木幡神社
京都府宇治市木幡東中1番地

二の鳥居


交通
木幡神社 JR木幡駅 東200m ゼンリン 

祭神
天忍穂耳尊

由緒
 この両社はともに、『廷書式』神名帳の宇治郡十座のなかの「許波多神社三座並名神大、月次新嘗」と認定されているが、明治以前にはいずれも「柳大明神」と呼ばれていた。『山城国風土記』逸文に「宇治郡、木幡社 祇社、名天忍穂長根命」とみえ、『三代実録』貞観元年(八五九)正月二十七日条に従五位上を授けられたとある。
 木幡東中の木幡神社は天忍穂耳尊を祭神として旧奈良街道の東側に西面して鎮座する。旧郷社で、社伝は応保年間(1161〜63)に五ケ庄の柳山より分祀したと伝えるが、承和十四牢(八四七)六月二十七日付の「山城国字治郡司解」(『東大寺東南院文書』)には、現社地の東南万七〇〇〜八〇〇メートルの地宇治郡五条七里上提田外里 十七坪・十八坪)に「社」が所在したことがみえている。もしこの「社」が当社の前身であるとすれは、すでに平安時代初期には木幡東部の丘陵端に鎮座していたことになる。『御堂関自記』長保六年(一〇〇四)二月十九日条の、藤原道長が木幡三昧堂(浄妙寺)の寺地を求めてこの地に釆た折の記事に「到山辺、従鳥居北方河出」とあるが、この鳥居は前述の「社」の鳥居であったと思われる。

 例祭は十一月一日。木幡の北部にあった田中神社(祭神天雲神・天津日子根命)が明治四十一年に合祀され、相殿に祀られている。

拝殿

お姿
 社殿は西向き。二神殿。その背後をJRが通る。
 一の鳥居から50mの参道。二の鳥居は南にずれている。古社の面影が残る。楠、桜、杉などは多く生えている。宇治陵と言う円墳のようなものがある。

本殿

お祭り  11月 1日 例祭

摂社 手前か春日、天照皇大神、八幡宮、愛宕・稲荷・市杵島姫

境内由緒書きから

 皇極天皇はお夢の中で「吾れ天神故に下土に神陵なし吾が霊を祭祀し給へ」との大神の御告げに恐懼され藤原鎌足公に詔して木幡荘に神殿を造営し大化元年9月16日(645)奉遷し式内木幡(許波多神社)と尊称さる。
 天智10年10月大海人王子(後に天武天皇)は天智天皇と意見の相違が生じて大津の宮より吉野に向かわれる途中、当神社前で龍馬が進まず、御鞭に柳枝を奉りしに親王は御自らその柳枝を瑞垣の側土中に挿しこみ神明の冥助を祈願し賜いし処、不思議や龍馬が急に進みて無事に吉野に到着さる。
 大海人王子は「壬申の乱」に御戦勝後、白鳳2年1月飛鳥浄見原宮で即位し給う。兵草の患なく天下よく治まると共に彼の柳枝も大きく繁茂す、是偏に神明の御加護と叡感あり、神柳に正一位官幣を寄進さる。
 よって柳大明神と奉称する。以後代々の天皇より勅使参内、奉幣、官幣の寄進等度々ありその間社殿の造営、修理等数度に渉りなされている。
 追記、明治42年1月 田中神社を合祀して今日に至る。
  以上

『日本の神々 山城』 白水社

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