車折神社(くるまざき)
京都市右京区嵯峨朝日町

南側の二の鳥居

交通
嵐電車折駅南側 its-mo

祭神
清原頼業(平安末期の儒者・明経博士)

摂社
八百萬神社「八百萬神」
芸能神社「天宇受賣命」 例祭 4月10日
葵忠社「福田理兵衞」
祖霊社
水神社「罔象女命」 5月14日
愛宕神社「愛宕大神」
辰巳稲荷神社「倉稻魂命」
堀派祖霊社「小唄堀派の祖靈」
地主神社「嵯峨天皇」
滄海神社「市杵嶋姫命」
清めの社「祓戸神」
神明神社「天照大神」
大国主神社「大國主神」
清少納言霊社「清少納言」

拝殿・本殿風景

由緒
  祭神は平安末期の儒者で高倉天皇につかえた明経博士の清原頼業で、文治五年没(1189)。本殿は頼業の墓所と言う。 明経博士とは経書(毛詩、尚書、礼記、周易、春秋三伝、周礼、儀礼、論語、孝経等)を教授する職。

 経書の中では特に、大學、中庸の重んじられることを予言、学問を民衆に広げる契機としたようで、広く民衆に慕われたようだ。

 清原頼業は怨霊ではない。それでも祭神となったのは何故だろうか?民衆に慕われたからか?
 源平の争いから武家の世に移行する契機となった保元の乱は、後白河天皇側の平清盛・源義朝らが、崇徳上皇側の源為義・源為朝・平忠正塔を征した戦いであり、崇徳上皇は讃岐に流され、帰京かなわずに亡くなり、怨霊となる。 それまでは讃岐院との呼称だったが、清原頼業が崇徳院とおくり名を奉った。

 鎌倉時代にはいって間もなく、後嵯峨天皇が大堰川に行幸の時、清原頼業の墓の入り口で車の轅が折れたので「車折大明神」の称号を与えられたと言う。崇徳院の怨霊が清原頼業の墓の扱いを鄭重にせよと命令しているように思われたのであろう。

本殿

たたずまい
 北側から神社に入った。嵯峨天皇を祭神とする地主神社が鎮座。

地主神社

 本殿前には石を積み上げている。願いが叶うと倍返しするのだそうだ。
 芸能神社が鎮座している。周囲には芸人の名前がずらりと並んでいる。時々、記憶にある名前が見える。京都には狸谷不動尊があり、ここも芸人の石柱が多い。こちらは歌舞伎などが多いようだ。

芸能神社
 

お祭り

 5月14日  例祭

京都山城寺院神社大事典(平凡社)

公式車折神社
京都山城の神々

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H16.10.6