平成祭礼データ
本殿祭神〈吉備聖霊(きびのしょうりょう)・崇道天皇[早良親王]・伊豫親王・ 藤原大夫人[藤原吉子]・藤大夫[藤原広嗣]・橘大夫[橘逸勢]・文大夫[文屋宮田麻呂]・火雷天神(からいのてんじん)〉は、何れも国家の為に御尽しになった方々でありますが、事に坐して冤罪を御受けになり遂に薨逝せられたのであります。しかるに朝廷においては、後に至って之を念わせられ、或は尊号を御追称になり、或は位階を御追贈になり、更に清和天皇貞観5年(873)には、勅して大に御霊会を行わしめられました。この時は吉備聖霊、火雷天神以外の6座であって、これが当社の祭神であると伝えられております。当社は神祇拾遺などによれば、伊豫親王を奉祀したのが本で後に八坐即八所御霊として奉祀することとなったようであります。かくて朝廷御守護、都民擁護の神として、朝野となく一般に崇敬されているのであります。祭神の中、橘逸勢朝臣が才学に優れて橘秀才と称せられ、又三筆の一として書道の名家でありましたことは、著名なことであります。
相殿霊元天皇は、最も当社を御崇敬になって両度御参詣あらせられ、御遺勅により、享保十七年(1732)11月25日、神主摂津守出雲路直元が命を奉じて謹みて奉祀したので、天中柱皇神と奉称しております。
又当社は下御霊神社と称しておりますが、或は御霊社とも記されているので、維新前の遷宮日時の宣旨には何れも単に御霊社と記してあります。
社地は、最初は京都の北郊出雲路(御苑内の東北方の辺)でありましたが、後に新町出水の西に移り、天正18年(1590)今の地に鎮座し給うこととなりました。
上古の制は明らかではありませんが、近古時代には神殿は賢所御仮殿を御寄附あらせられる御例でありまして、近く年代の明であるのは、宝永7年と寛政2年(1790)とであります。現在の寛政度の御殿で、現存する賢所御殿としては最古のものであります。また表門は仮皇居建礼門を下賜されたものであります。
貞観5年5月20日の御霊会は特に勅して行わせられたのでありますが、その後には毎年8月18日に行なわれ、祇園御霊会(八坂神社)、紫野御霊会(今宮神社)などと共に、都下の著名な祭礼であって、鎌倉時代にも風流渡物など盛んに行なわれ、上皇も桟敷殿にて御覧あらせられたことが諸記に見えております。又神輿迎(御出祭=神幸祭)は7月18日でありました。
明治維新前は7月の神幸、8月の還幸両度とともに、寺町御門より御所外郭内(今の御苑内)に参入し、仙洞、大宮両御所門前に神輿を奉安し御門内より御拝覧あらせられ、白銀御奉納神主奉幣の儀を行い、次いで堺町御門を出で一般氏子各町巡行の例でありました。
今の神輿奉造に際しては、東山天皇及び仙洞女院各御所より多くの白銀を御寄付あらせられ、猿田彦神輿は後桜町天皇の御寄附であり、その他の祭具にも皇室の御寄附のもの多く、指鉾は後花園天皇、後土御門天皇、東山天皇、中御門天皇等の御寄附であって、その吹散も歴朝の御寄附であります。
明治9年より神幸祭を5月1日に、還幸祭を同18日に執行することとなり、古来の祭日なる8月18日は例祭として社頭の儀を行い、供進使参向して神饌幣帛を献られ、東遊を奏しております。また8月17日夜には賢所大前における御神楽人長の舞を奉奏しております。
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