高神社
京都府綴喜郡井手町多賀天王山1

鳥居

交通
JR奈良線山城多賀駅南へ 南谷川沿いに600mits-mo

祭神
伊弉册命、菊理姫命、伊弉諾命

緑の参道

由緒
  綴喜郡の式内社高神社(鍬靫)に比定される。創草については欽明天皇元年に綴喜郡兎手玉津岡に神霊が降臨し、そこに社祠を建てて祀っていたが、天平三年(731)橘諸兄が現社地であろう高村の山方の下津磐根に遷座したとし、祭神としての高御産日神、伊弉諾尊、素盞嗚尊を祀ったと記す。

 なお玉津岡神社の創建譚も全くよく似ており、玉津岡神社の場合には神霊は下照比売となっている。一つの山塊に見える山の高神社は北側、玉津岡神社は南側に鎮座、同じ様な創建譚が伝えられたのかも知れない。

 高神社の鎮座のお姿を拝見するに、神霊の留まる雰囲気の場所であり、神々の降臨されるに相応しい聖地のようである。

拝殿

たたずまい
 6月初めの新緑が濃緑に移りつつある時期の参拝となった。鎮座地の手前に南谷川が流れ、蛍の名所として保護されているような土地柄であり、天王山の緑もこんもりと美しい。

 万葉集巻三 二七七 高市連黒人覊旅歌

 早来ても 見てましものを 山背の 高の槻群 散りにけるかも
 はやきても,みてましものを,やましろの,たかのつきむら,ちりにけるかも

 高神社の社叢の多くの槻の木の紅葉をみるに遅かった、残念だとの意

 拝殿は瓦葺き、摂社群の背後の小丘にストーンサークル状に立石などが数多くある。古い聖地のようで”石”と”木”とで構成されている古社。

本殿

社域

磐座
 

お祭り

 10月 16日 例祭

平成祭礼データ

 高神社の由来
 元郷社 式内社高神社

 当神社は多賀集落の東南に位置する天王山に鎮座。本殿は北西に向かい多賀集落を見守るように建てられています。
 創立は人皇第29代欽明天皇の元年(西暦540年)東嶽に御神霊の御降臨により社宮を建ててお祭りした事に始まります。その後集落の発展に伴い、元明天皇の和銅4年(西暦711年)東村宮として多賀明神社が字川辺に建立され、次いで神亀2年(西暦725年)字西畑に久保村宮が、神亀3年(西暦726年)字綾の木に谷村宮が、それぞれ建立されました。聖武天皇の天平3年(西暦731年)勅願により高御産日神の名より「高」の字を採って「多賀神社」を「高神社」に「多賀村」を「高村」と名称が変更されました。元慶2年(西暦878年)8月谷村宮龍神祭の時に死者の出る喧嘩騒動が起こりました。そのためその後相談が重ねられ、仁和元年(西暦885年)現在地の天王山に統合され三村がなか良くお祭りをすることになりました。この間宇多天皇の御真筆による「大梵天王社」の額と称号を頂き永く高村「大梵天王社」と呼ばれて来ました。醍醐天皇の御代には神輿が三基あったと記されています。仲恭天皇の承久三年(西暦1221年)大乱の後「高村」を「多賀」に「高神社」を「多賀神社」に改正されました。寛元3年後嵯峨天皇の時代には霊顕あらたかな神様として「正1位勳1等」の神位と「大明神」の称号が贈られました。明治元年に神社制度の改正により大梵天王社「多賀神社」が現在の「高神社」に改正されました。本殿のご祭神は「伊邪那岐命」「伊邪那美命」「菊々理姫命」摂社14社ご祭神及び神社名は「天照大神」「須佐之男命」「大国主之命」「応仁天皇」「仁徳天皇」「仲哀天皇」「稲荷神社」「愛宕神社」「八幡宮」「春日神社」「恵比寿神社」「八王子神社」「祈雨神社」「聖神社」であります。
 以上

本殿

京都山城寺院神社大事典(平凡社)、式内社調査報告

公式高神社

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