天道神社
京都市下京区仏光寺通猪熊西入西田町615

鳥居


交通
阪急四条大宮駅 東へ200m、南へ400m mapfan

祭神
天照皇大神、八幡大神、春日大明神
摂社
 約束稲荷神社
 天道天満神社
 厳島社
 八坂社

明治天皇皇后(昭憲皇太后) 御胞衣埋納所

拝殿

由緒
 延暦十三年(794)桓武天皇が平安遷都されたとき国家安寧子孫長久万民豊穣を祈願して長岡京より当時の三条坊門東洞院(現在の東洞院通御池上る付近)に勧請された。その後たびたびの兵火にあうが天正二年(1574)織田信長公より五条坊門猪熊の此の地を授かり遷座して今日に至る。

たたずまい
 下町風の景色の中に京の町屋らしく縦長の敷地に鎮座、窮屈さの中に、天満神社や稲荷社が押し合いへし合い鎮座している。

本殿

お祭り 11月 3日 例祭

昭憲皇太后 御胞衣埋納所の碑

天道天満神社     八坂社、約束稲荷神社、厳島社
 

『平成祭礼データ』天道宮の由緒

 当天道宮は伊勢皇大神宮の天照皇大神を主神とし正八幡大神と春日大明神を左右に、この3柱の神々を御祀りいたしてあります。昔より日、月の神。天地開びゃくの祖神であり人間は申すまでもなく鳥畜、草木この世に生を受けているすべてのものに成長の恵みを授けられて山城の國長岡(現在の府下乙訓郡長岡)に鎮座されたのであります。
 そうして紀元1454年延暦13年人皇第50代桓武天皇が都を平安の京(現在の京都)に移されたときに国家安寧、子孫長久、萬民豊饒を祈願するため当時の銅駝坊(どうだぼう)の南方、三条坊門東洞院(現在の東洞院通御池上ル付近)に勧請されたのであります。
 それより以前、紀元1452年延暦11年に山城の國長岡を初め附近7郷の村(現在梅津以南の村々)に悪疫流行し家畜が全滅に瀕したので、村人の皆が天道宮に祈願したところ、1頭の犠牲もなくたちまちに全治したと傳へられ、郷人の信仰は非常に厚く、天道宮が京都に勧請されたときは郷の人々初め家畜にいたるまで沿道にならび見送りをなし、其の後今日に至るまで御神徳に帰依信仰され五穀成就。家畜悪疫除けの御祈祷御札を授与しております。
 天道宮が平安の京に勧請された当時境内は一町四方におよぶ広大なもので四季の風景は実によいながめで人皇第59代宇多天皇の皇子行明親王(ゆきあきしんのう)の御母君が伊勢御遊宴の亭を境内に御造りになって親王御息所(しんのうみやすどころ)側近達がしばしば御車をつらねて御成りになり数日の御遊宴なされ京の人々は常々多数群集し信仰されたとあります。後には御殿を御造営になり御手ずから松楓を植林され伊勢の御社とむすび幾年久しく残っていた事が清輔朝臣の「袋草紙」に書きあらわし今に傳えられて居ります。
 かように荘厳な宮でありますが惜しい事に元弘、建武の年間に度々の兵火にかゝり、焼失し其の後造営の願い主も絶え星霜積り200余年の年月を此の地の民家にて勿体なくも流座されたのであります。
 紀元2234年天正2年人皇第107代正親町院の御代にいたり、織田信長公から五条坊門猪熊(現在の地)に替地を授けられ再興になりましたが紀元2448年天明8年の大火で神殿も炎上したので再建され且数度にわたり修繕され今日に至っております。
   以上

『平成祭礼データ』神社本庁

京都山城の神々

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H17.12.16