東寺の鎮守
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宗派など
東寺真言宗総本山

講堂 骨董市の日

由緒 『寺院神社大事典』平凡社から
 東寺は正式には教王護国寺という。東寺真言宗総山。本尊薬師如来。平安京遷都に伴い、西寺ともに造営された二大官寺の一つ。境内は国指定史跡。平成六年(1994)世界の文化遺産(古都京都の文化財)に登録された。

 【草創と発展】 東寺の造営着工に関しては、延暦二三年(604)四月八日に従五位下多治比真人家継が造東寺次官に任ぜられたというのが(日本後紀)、史料上に確認される最初のものである。しかし「類衆国史」には同一六年四月四日 に「造西寺次官信濃守笠朝臣江人」の名がみえ、東・西両寺の造営が同時期に並行して着手されたという考え方からすれば、造東寺司も同一六年にはすでに設置されていたとみることができる。「東宝記」は「或記云」として延暦五年に大納言伊勢人が造東寺長官に任命されたとしるが、「帝王編年記」も同年藤原伊勢人が東西領事の造寺長官に任命されたとしており、これを裏付ける。また「伊呂波字類抄」は西寺の創立を延暦六年としている。平安遷都以前に東・西両寺が存在していたことを示す史料が見いだせない以上、この記事も確証をもって裏付けることはできないが、平安遷都とほほ同時期に西寺 と並ぷ東寺の造営が着工されたと考えることは可能である。

 東・西南寺の造営は、その規模の大きさゆえになかなかはかどらなかったようである。造営に要する長大用材に関して、国家に収公された伊賀国山林において「巨樹直木」の伐採が許可されたのは、延暦一九年四月九日のことであった (顆衆国史)。また弘仁三年(812)一〇月二八日には、東大寺諸仏寺料としてあった封戸二千戸が造東西二寺とその関係諸司に造営費用の財源として配転支給され、また二月二七日には、桓武天皇の皇女布勢内親王の墾田七七二町が両寺に施入された(「日本後紀」など)。このうち伊勢国大国荘・摂津国垂水荘・越前国高輿荘・同蒜島荘が東寺に施入されている(弘仁三年三月一九日「民部省符案」林康員氏所蔵文書)。これら封戸・墾田の確保によって、たとえば「伊呂波字類抄」が、弘仁九年二月に西寺講堂の竣工供養が行われたと伝えるように、東寺においても同様に造営事が以前にもまして活発化したであろうことは想像にかたくない。そうした状況のなかで弘仁一四年、空海に東寺が勅賜されることになり、この寺は新しく飛躍的な発展をみせることになった。
 顕教に重点をおく最澄と密教最勝を主張する空海との立場の違いは、国家宗教としての天台真言の対立となって表面化する。その将来を懸念した嵯峨天皇は、最澄が要望する天台宗修行のための山修山学を公認する一方、空海の要望をいれて真言僧五〇人の住寺を公認した(弘仁一四年一〇月一〇日「大政官符」類衆三代格)。以後官寺東寺は、真言一宗の僧侶によって独占されことになる。この空海に対する弘仁一四年の→寺勅賜は日本仏教史上の画期的な出来事として評価されている。以後空海によって五重塔・講堂の建設が着工されるなど伽藍が次々と整備された(東宝記)。承和二年(835)空海没後は、その遺影を中心にして厚い信仰帰依を得、真言教の一大霊場としての展開をみた。

 【衰退と文覚による復興】 しかし空海以後平安時代の終末にかけての東寺は、寺僧に傑出しものが出なかったこともあって寺運は徐々に衰え、金堂・講堂・食堂・灌頂院などの主要な建物も創建以来数百年を経過するなかで、全般にわたって破損が進行していた。このような東寺に起死回生の転機を与えたのが源頼朝の外護であり、後白河法皇の意を得た僧文覚の活躍であった。
 空海の遺跡に対する文覚の強い崇敬の念と深い愛情は、まず後白河法皇の心を強くとらえた。神護寺(現京都市右京区)再興を軌道にのせた文覚は、後白河法皇に働きかけて東寺の根本的な修造に着手した。文治五年(1189)一二月二四日法皇は知行国播磨国を東寺修理の財源にあて(「玉葉」同月九日条)、修理事始めの儀を執り行った(「東寺長者補任」続々群書類従)。この文覚による東寺復興が本格化するのは後白河法皇が没した建久三年(1192)以後のことになるが、それには源頼朝が法皇に対する最大の追善供養として、この東寺の修造をとらえたことによるところが大きい。東寺修理を継続するために、法皇の遺領播磨国を与えられた文覚は(「玉菓」文治五年一二月九日条)、精力的にこの修理事業に取組み、それは南大門・金堂・講堂諸仏像・経蔵・灌頂院・五重塔・鎮守八幡宮に及んでいる。ところが建久一〇年頼朝が急死すると文覚も失脚、東寺復興の事業は中断された。東寺はその復興事業の継続を朝廷に訴えたが、それが認められた のは嘉禎元年(1235)二月のことで、同月二一日修造料所とLて肥後国があてられた(東寺長者補任)。またこの三年後の暦仁元年(1238)一二月には丹後国が東寺に寄進されている東宝記)。
 一方これより前の天福元年(1233)一〇月一五日には、新たに仏師康勝の手によって空海の木像が製作され西院不動堂に安置された(東宝記)。七年後の延応二年(1240)三月二一日の空海忌日には、この木像はさらに不動堂北面に移された(同書)。これを機会に従来は後堂にすぎなかった北面が改造され、御影堂として不動堂から独立し、以後の空海信仰の核となった。また後白河天皇皇女の宣陽門院觀子内親王は、伊予国弓削島荘などの荘園を東寺に寄進し(延応元年一二月日「宣陽門院庁下文」東寺文書など)、ここに東寺の経済規模が一挙に拡大した。



鎮守社など


八幡社 僧形八幡神、女神

 796年創建。平安京と東寺を守護する為まつられたが、明治元年(1868)焼失、平成三年に123年ぶりに再建、本尊は檜材の一木造りで一本の巨木から弘法大師作と伝えられる。僧形八幡神座像と女神座像二躯が安置されている。足利尊氏が東寺を本陣としていた時、鎮守八幡宮の神殿から流鏑が新田勢に向かって飛び、勝利を収めた故事は余りにも有名である。

八幡社
 
 



八島社 地主神 または 大己貴神

 八島社と言うのはわが国を大八洲瑞穂国と言うところから起こった社号である。それゆえこの社は東寺以前より鎮座されており、弘法大師はこの神の夢想を被ってここに伽藍建立に先立ち、この神へ寺門造立成就、方位安全、法道繁昌の祈願をされ、地主神とあがめられたと伝えられる。

八島社
 
 



夜叉神堂 東 雄夜叉 本地文殊菩薩  西 雌夜叉 本地虚空蔵菩薩

 最初は南大門の左右に安置されていたが、旅人が拝まないで通ると忽ちその罰があたったとされた。慶弔元年(1596)中門倒壊の後、現在の小堂を建立して安置した。
 夜叉神造は弘法大師の御作とされ霊験甚だあらたかで、仏法守護を本誓となすとあり、歯痛を治して下さると親しまれている。

東 夜叉神堂 西
 
 

 『異神』上 山本ひろ子 ちくま学芸文庫 p185から
 大師御入定後、於西御堂授檜尾僧都給条々有之。摩多羅神其一也。大師云。此寺有奇神名夜叉神。摩多羅神則是也。持者告吉凶神也。其形三面六臂。云云。
 彼三面者三天也。中面金色。左面白色。右面赤色也。中聖天。左吒吉尼。右弁才也。
 毎日十五日可供之。此神具。大慈悲不生怨害。除災与福。
 天長御記曰。東寺有守護天等。稲荷明神使者也。名大菩提心使者神。云々。
    (『北院御室拾葉集』)

 延暦十五年(796)に創建された東寺(教王護国寺)を空海が賜り、初代長者となたのは承和元年(834)。翌年没したため、長者は檜尾僧都実慧が引き継いだ。右の記事は、その際に譲渡された夜叉神にまつわる所伝である。この寺には「夜叉神」と呼ばれる「三面六臂」の「奇神」が安置されている。それは「摩多羅神」で「吉凶ヲ告ル神」であると空海が語ったという。
 摩多羅神は夜叉神にしてダキニ天なり。かかる東寺の「奇神」観は、東密系にあってダキニ天が経軌(閻魔天供)にいう夜叉神の像容を保存しているからと言えよう。「引用終わり」

 よくわからない神としての摩多羅神は広隆寺の祭礼に登場する神として知られている。絵は笑い顔の神であり、秦河勝を思わせる雰囲気。稲荷の守護神でもあり、常行堂の後戸の神としての猛烈な神気を発揮するとされている。怨霊の都、平安京に相応しい神であったようだ。

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