厳島神社
広島県廿日市市宮島町1-1 its-mo
大鳥居
大鳥居
交通案内
JR宮島口から船に乗る。
祭神
市杵嶋姫命、田心姫命、湍津姫命主神
配祀 多数
摂社 客神社「五男神」、門客神社「櫛石窗神、豐石窗神」、大元神社 等多数
東の回廊
由緒
当社の発祥は古代人の山岳信仰にあり、自然界の森羅万象には特別の想いがあったはず。厳島は島ではあるが、弥山の秀麗な山容をして聖地と見なす「神の坐す島」として信仰の対象であった。
厳島に対する観念は「物忌み」の習俗として、島には墓所はない。葬送、出産、農耕も今日まで禁じられている。厳島は伊都伎嶋であり、神霊を齋き祀る島の意とされる。
当社の古い由緒は不明であるが、推古天皇の即位元年(592)厳島の住人佐伯鞍職が神託によって宮殿の創立を朝廷に奏聞し、勅許を得て三笠の浜に創建したと云う。延喜式神名帳では一座であり、本来は一座であった。祭神は伊都伎島神であるが、この神は宗像三女神の市杵島姫とは本来違ったはず。
後世、平家一門と結びつき、特に清盛の篤い信仰があった。安芸国の知行国主として瀬戸内海の富と水軍を擁しており、内海一体の政治的基盤を固めるべく、厳島明神の加護を求めたのであろう。
門客神社 左殿 右殿
西の回廊と本殿
西の回廊と能舞台
お姿
桟橋から海沿いに歩く。300円を払って境内に入る。早速朱の回廊が現れる。拝殿や本殿が一体どこなのか、よく判らない構造。あまりにも平面的なのだ。
舞台から大鳥居が見える。その両側に門客神社が鎮座。
海の浅瀬に社殿が建てられている。台風などで大きい波が来て、社殿が破壊されることが問題だが、先ず、一番外側の平舞台は、すのこの形状で縦方向に置かれている。これは波と共に上下に浮き沈みし、波の幅より大きいので、波を押さえる働きがあると共に、波の一部が舞台の上にはみ出て波の勢いを削ぐようだ。
次の高舞台は思い大きい板で出来ており、やはり柱に支えられながら波の動きで上下して波を押さえつけるようで、ここでも波の憩いを削いでいるようだ。
本殿にまで波が到達する時には、波の勢いは減衰されており、本殿を破壊することはないと云う。逆に平舞台などは破壊されても修理がし易い構造になっているとされ、日本人の叡知が生きている。
通りぬけてしまい、西へ歩くと大元神社がある公園に着く。その前に梯子を登るような石段があり、経塚がある。中世には神仏混淆となり、修験の影響も受けている。
厳島神社遠景
背後からの社殿
大元神社「大山祇神、保食神、國常立尊」
客神社
創建は本社と同時、往古より厳島両宮と称へ、
祭祀等総て本社同様で、当社を先祭をする。
お祭り
6月 17日 例祭
日本の神々2(田淵実夫)白水社
平成祭礼データ
厳島神社は市杵島姫命を主祭神とする本社と、主祭神と同時にお生まれになった五男神を祀る摂社客(まとうど)神社とを中心にして、海上に壮麗な社殿が建ち並び、日本三景の誉れ高い。当神社は推古天皇元年(五九三)、当島の住人、佐伯鞍職(さえきのくらもと)が神託によって、宮殿創立の事を奏聞し、勅許を得て御笠浜に創建し、同年十一月初申日に新宮に鎮座し奉ったと伝える。厳島神社が正史に初見するのは『日本後紀』の弘仁二年(八一一)七月に伊都岐島神が名神例に預かったことであり、貞観元年(八五九)正月に神階を従四位下に進められてより後、次々と昇叙されて正一位に達している。また、延長五年(九二七)の『延喜式』の神名帳では、名神大社に列せられており、安芸国一宮として名高い。降って平清盛は、当社を平家の守護神として崇敬し、仁安三年(一一六八)現在の規模の社殿を造営している。承安四年(一一七四)には平清盛は後白河法皇と建春門院に伴って社参し、治承元年(一一七七)には中宮徳子、三月と九月には高倉上皇が御幸されている。また、平家一門の人々が平家納経をはじめ数々の美術工芸品を奉納している。平家の後も鎌倉将軍家や足利尊氏、大内義隆、毛利元就などの崇敬を受け、また、厳島神社は全国に亘って奉斎されて広く国民一般の尊崇が篤い。平清盛の造営の後、建永二年(一二〇七)と貞応二年(一二二三)に火災に罹り、現在の主要社殿は仁治二年(一二四一)までに再建されたものであり、本社本殿はさらに元亀二年(一五七一)に毛利元就が造替している。
以上
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