穴師神社
三重県松阪市立田町550 ゼンリン

交通案内
近鉄山田線櫛田駅 北西2km

祭神

建速須佐之男命 配 穴織神、天忍穂耳命、大山祇命



二の鳥居



由緒

 創始不詳。『勢国見聞集』に「飯南郡穴師神社式内立田村に坐す、神名帳多気郡なり、祭神天多奈波大姫命、俗に杉社と称す杉一株あり」とある。 『勢国五鈴遺響』には「祭神穴織神」と記されている。 『朝見村沿革史』には「素盞嗚尊ヲ祀ル。御社ハ延喜年間以前ノ創建ニシテ古来ノ鎮座地ハ三本杉トアリ、何時カ之ヲ村内ニ遷社。 大和国城上郡兵主神社及同郡大兵主神社共ニ穴師村ニ鎮座、而シテ祭神ハ素盞嗚尊ナリ。当社祭神モ固ヨリ素盞嗚尊ナレバ其村名を取リテ当社ノ社号トセシ」とある。 『式内神社旧社地発見上申書』には「穴師神社古址、多気郡佐奈村大字神坂字北山、金剛座寺所在地ニアリ (現在)穴師神社トシテ今飯南郡朝見村大字立田里ニ配置セラレシハ中世所在ヲ失ヒシヨリ、 学者流考証ニ依テ祀祭スル所ナリ 佐奈村大字神坂字北山ノ山頂ニ天台宗摩尼山金剛座寺ト号ス古刹アリ 該寺ハ此穴師神社ノ所在地ニ別当寺院ヲ建立シテ穴師寺又ハ穴師子寺トモ云ヒシナリ」 と述べられている。
 祭神の素盞嗚尊は、穴師=兵主から素盞嗚尊への発想と思われる。

 多気郡佐奈村大字神坂とは現在の多気町神坂で紀勢本線佐奈駅の西1km付近である。ここから更に西へ2km程の所に丹生大師が鎮座、古代からの丹砂の産地である。 丹生と佐奈の近くに創始された穴師神社、水銀・銅鐸銅鏡に深く関わる氏族により祀られたものと思われる。

 それで、神社社頭の掲示には以下の様に記されている。
 古代金属鉱採取に従事した穴師族の社。穴師族の移住は大和からか、或いは水銀採掘で栄えた丹生地域からか。
 また穴師は穴織に通じ、機織技術に長じた集団で、この地方で機織が盛んだった名残の社。
 また強い西北の風を神風と崇め、豊作を祈願した社である。古来当地は米稲作の豊かな農村である。
 元々当社は西北の字杉社(一本杉とも云う)広さ約一町にあったと云う。
 当地は参宮古道が通っていた村邑で、歴史の謎を秘めた由緒ある神社である。
 まさに穴師神社の由緒をよく伝える由緒書きであり、一行一字を解いていくと古代の謎が浮かび上がってくる思いである。

 さて、『伊勢国風土記』逸文に下記の様に記されている。『風土記』吉野裕訳平凡社から
 伊勢というのは、伊賀の安志[あなし]の社においでになる神は、出雲の神の子、出雲建子命、またの名は伊勢津彦の神、またの名は天の櫛玉命である。 この神は、昔、石をもって城を造ってここにおいでになった。 ここに阿倍志彦の神が来襲してきたけれども、勝ことができずに還り去った。それによって名とした。云々。

 伊賀の安志の社とは、式内の伊賀国阿拝郡の穴石神社(論社は阿山郡阿山町の穴石神社、阿山郡伊賀町の都美恵神社)の事である。 伊勢津彦の神に対して伊賀国阿拝郡の土地神らしき阿倍志彦の神は勝つことができなかったと云うことを云っている。
 土地の神が侵入して来た穴師の神に勝てなかったようである。伊賀から伊勢への穴師の神の進出は秦氏の進出と見ることが出来る。

 穴師神社の立地は、旧社地は櫛田川中流の伊勢街道に近く、現在の社地は櫛田川の下流域の参宮街道に近い。 秦氏が日の神を伊勢に祭るに当たってその要所要所に居たことを示しているのではなかろうか。

 また『伊勢国風土記』逸文の国号の由来には、伊勢津彦は神武天皇の命でやって来た天日別命の兵を恐れて、東に去ったと出ている。 国の主は、阿倍志彦の神、伊勢津彦の神、天津神と変遷しているのが伺われる。阿倍志彦の神とは敢国神社の祭神の敢国津神であったと想定できる。国津、葛神である。

お姿

  周辺は所々に森が残っている農村地帯である。家々には木々が多く植えられている。おそらくは穴師の風が強いのだろう。 神社は一の鳥居を入って左側に鎮座、広場はゲートボール場になっている。
 比較的小振りの神社である。

本殿



お祭り
 2月11日 例祭
12月15日 新嘗祭(秋祭り)


兵主神・邪馬台国と天日槍命・赤留比賣命

神奈備にようこそ