邪馬台国にようこそ

邪馬台国はヤマト国とよみ、大和にあった国のことである。一時期、女王卑弥呼(ヒミホ)が統治した。

 畏兄大三元先様のHpから、魏志倭人伝の固有名詞の漢字の読みを紹介いたします。
 漢字の読み音は、周秦の時代は上古音、その次の時代は中古音とされております。
 ここでは、邪馬台国と卑弥呼の読みに関係する漢字を氏のHpから抽出しました。

Hpは 魏志倭人伝の固有名詞の漢字-2 です。


西暦      事件       年  表          事件

-400  弥生中期
-221  秦始皇帝 統一
     遠賀川系土器の普及
-202  劉邦 漢王朝を建てる。  北部九州で戦いが頻発、クニへの統合開始。
     遠賀川流域の物部一族の一部、畿内へ移る。
-50   楽浪海中倭人有り。分かれて百余国をなす。 唐古・鍵遺跡
    『漢書地理志』 池上曽根遺跡

0    ツクシ国が楽浪経由で漢と交渉を持つ。
5    東夷王、大海を渡りて国珍を奉る。『漢書王芥伝』
    高地性集落築かれる。。近畿とイズモで青銅器の大量埋納
57   後漢。 「漢委奴国王」の金印を授かる。
    北九州内で紛争、やがてツクシ国としてまとまる。
    出雲地域にはいくつかの勢力があり、中にはツクシ国と関係を持っていた。

107  ツクシ国の使者として倭面土国の首長が落陽に至る。
    ツクシ政権は、西日本の諸勢力に対して優位な立場であった。
    それは後漢王朝と楽浪郡を後ろ盾にしていた。
108  倭国王帥升等生口160人を献ず。
    帥升は吉備の王で、卑弥呼はその末裔かも知れない。
    キビが力を持ってきた。

    畿内にいた物部氏や蝦夷を中心としてヤマト国が建国された。

    神武東征開始。奴国の勢いが強く、他の九州の国が圧迫され、王族の一部が東へ向う。
    東征を開始した神武の後裔がキビ国に入り王となる。孝霊天皇。四国、イズモを統合する。

147  『魏志倭人伝』倭国乱れ相攻伐すること暦年〜188

189  後漢霊帝逝去、後漢滅亡。

    ツクシ国へ対抗するため、キビ国、ヤマト国、タンバ国、ヲハリ国の連合がてきてきた。
    後漢の混乱にあわせツクシ国の勢いも衰える。他の国が半島との交易とツクシ国と戦いを起こす。

210  キビ国、ヤマト国、タンバ゙国と、ツクシ国が女王擁立でまとまる。銅鐸祭祀は禁止。
                                  三河・遠江は銅鐸祭祀を続ける。
   卑弥呼はキビ国王(孝霊)の娘の百襲姫、男弟とは孝元天皇、開化天皇、崇神天皇達である。
   卑弥呼は三輪山山麓の纏向の宮殿で銅鏡を使って祭祀を行った。
   外務相に難升米(奴国の宿禰)を起用。
   邪馬台国の長官は伊支馬、その下に弥馬升・弥馬獲支・奴佳テと云う。
   伊支馬 垂仁天皇は伊久米伊理毘古伊佐知命である。また生駒であれば物部とも。
   弥馬獲支 崇神天皇は御真木入日子印恵命である。皇族が力を付けてきた。
   都市牛利は、都市とは商業大臣=大倭、牛利は丹波県主の由碁理。

   この邪馬台国を都とする倭国を実質支配しているのは、天皇一族と物部一族の呪力・武力である。 
   物部の鬱色雄命と伊迦賀色許雄命が執政し、彼らの妹は開化、崇神の母親となっている。
   鬱色雄命の古墳は外山(トビ)桜井茶臼山古墳、伊迦賀色許雄命はメスリ山古墳。

   三河・遠州の物部・蝦夷は卑弥呼擁立に反対。狗奴国を建国し、邪馬台国と対立。

   役人で、副官の名が卑奴母離となっているのが、対馬、一支、奴国、不弥国。後の二国は九州の国であることは明白。もし邪馬台国が九州内にあれば、近隣の国の副官を卑奴母離というか。大和に都が置かれていた時代、九州の守り(防人)を夷守と言った。
 
238  難升米と都市牛利を帯方郡から魏の都に派遣した。この時、卑弥呼は親魏倭王に册封される。

   184-189 中平銘鉄刀(天理市東大寺古墳) 和邇氏が公孫康から授与されて、宝器として伝えた刀剣である。和邇氏はヤマトとタンゴをつなぐ氏族であった。
   卑弥呼、狗奴国王卑弥弓呼と戦う。狗奴国とは遠江国山名郡久努郷 久努国造は物部系。

240 伊声耆、掖邪狗を派遣。伊声耆は中臣氏で、伊香津臣の子の伊世理命が発音では似ている。

248 この頃、卑弥呼死去。箸墓古墳にはキビの特殊器台。キビの浦間茶臼山古墳は箸墓のちょうど半分の規格
   男王(崇神天皇)立つも国乱れる。神話では、三輪山の大物主神の祟りで民が尽きそうになっ

再び、女王として台与を共立した。豊鍬入日売である。

265 この頃、台与死去。西殿塚古墳。        魏滅亡、晋王朝起こる。

  崇神天皇即位。四道将軍派遣。

524 磐井の乱 物部麁鹿火を大将軍として磐井を滅ぼす。九州の仕置きを任される。
587 蘇我物部の戦いで、物部守屋敗北。本家滅亡、一族逃亡。



邪馬台国 大和説、狗奴国 三河、遠江説

 『魏志倭人伝』からは邪馬台国の場所は確定できない。これは魏使が邪馬台国まで行っていないことにより、伝聞によって報告したからか、魏国と呉国の対立関係から、魏国に近い倭国女王のいる邪馬台国を呉国の東側にあると言う錯覚を生じさせようとする記述がそのまま記されたからか、15世紀の李氏朝鮮の地図のように、列島の位置の認識の誤解があったからかとと思われる。

 また、文明を受け入れる玄関口九州からの政治勢力の東への移動は、幾たびもあった。特に神武東征が記憶に残ったのであろう。神武天皇の移動のターゲットは大和・宇陀の水銀、大和にいた勢力が東に逃れて後に狗奴国に参加することになる。

 狗奴国を邪馬台国の南にあると記述されているが、下記の地図のように、大和を呉の東に持ってくるための記述といえよう。



『魏志倭人伝』倭国乱る。



 2世紀後半、後漢王朝が黄巾の乱などで衰退し、後漢から威信財の供給を受けていた倭国王師升等の後裔の権威も失墜、更に鉄材の配分にも乱れが生じてきたのを期に群雄割拠の時代となった。戦争にかかわる遺跡・遺物は北部九州から伊勢湾沿岸までの範囲に分布し、環濠集落、矢尻、殺傷人骨、武器などとして出ている。そこで各国は卑弥呼として呪術能力の際立った巫女を共立し、新生倭国連合の発足となった。
 卑弥呼は吉備の巫女王であった。ヤマト国は吉備と連合するべく、吉備の王女を倭女王として推戴した。この頃、タンゴやイズモもヤマト・キビサイドに立った。ツクシ国も合流し、西日本はまとまってきた。

黥面の土器は東海と吉備・安芸に集中的に分布
『魏志倭人伝の考古学』佐原真から。


 卑弥呼は邪馬台国を都とした。古代の日本で山と言えば三輪山、その麓の高臺をヤマトと読んだ。大和神社の鎮座地であり、物部と同族の穂積氏の居住地であった。大王家の孝霊天皇と物部氏の連合であった。


 巫女王に異議をとなえた集団の大半は東へ旅立った。彼らは狗奴国にくみすることになる。


『魏志倭人伝』卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。「素より」とは卑弥呼の擁立に反対だったということであろう。老醜の卑弥呼は247年、狗奴国と交戦したようだ。


 倭国は狗奴国との敵対関係の中、魏国に救援を求めている。邪馬台国は三十国の盟主でありながら武力によって成立した政権ではなく、武力としては狗奴国は相当強かったようだ。三十国全部が卑弥呼の為に一肌脱ぐと云う雰囲気ではなかったのだろう。
『魏志倭人伝』卑弥呼の死。男王立つも国中服さず。台与が二代目卑弥呼になる。

 

青銅器の分布 畿内と東海は一体


 卑弥呼は六〇年近く女王の座に居た。その間に狗奴国の王だった卑弥弓呼は何代か交替している。そこへ若い台与が巫女女王として登場、魏の仲介もあったのだろう、一挙に和解へと進んだ。

 邪馬台国と狗奴国の物語りはこのようにして歴史の中へ溶け込んでいった。



付録 神武東征

   東征の経路には海人族の協力があった。これが倭国造の祖とされる椎根津彦の道案内の話になっている。

海(和田地名)

『記紀』『平成祭りCD』綏靖天皇から開化天皇まで


 

 各天皇の地域別神社数
                 瀬北=瀬戸内海北岸 山口、広島、岡山
     九 瀬 瀬 奈 近   瀬南=瀬戸内海南岸 愛媛、香川、徳島
     州 北 南 良 東   近東=近畿以東
 綏靖  20 0 2 0 5  妃 一人 事代主神の娘
 安寧   0 0 0 1 2  妃 一人 事代主神の孫娘
 懿徳   0 0 0 1 1  妃 一人
 孝昭   0 0 0 0 1  妃 一人
 孝安   0 0 2 3 4  妃 一人
 孝霊  1 17 2 1 1  妃 四人  磯城県主大目の娘細姫など
 孝元   1 0 0 1 5  妃 四人  穂積、物部、河内の娘達
 開化   0 0 0 1 4  妃 三人  丹波、物部、和珥の娘達

 孝霊妃:大倭玖迩阿禮比賣命
     0 0 0 1 4
 台与の娘 大倭迹迹日百襲比賣命 
     0 4 6 1 1

 欠史八代とされる天皇達、初期の天皇の妃が事代主神の娘などになっている。伝承が失われていたのであろう。孝霊天皇の妃は四人記録されている。また瀬戸内海北部の神社に多く祭られている。彼の伝承は残っていたのだろう。

 『魏志倭人伝』に、「国々に市場が開かれ、それぞれの地方の物産の交易が行われていて、大倭が命ぜられてその監督の任に当たっている。」とある。大倭とは執行王のことかもしれない。欠史八代の天皇の中に「大倭」の冠がついている者がいる。
懿徳天皇 大倭日子鋤友命
孝安天皇 大倭帶日子國押人命
孝霊天皇 大倭根子賦斗迩命
孝元天皇 大倭根子日子國玖琉命

 他に、邪馬台国の長官に伊支馬がいる。垂仁天皇は伊久米伊理毘古伊佐知命と言い、似ている。

 その下に、弥馬升がいる。孝昭天皇は御真津日子訶恵志泥命と言う。

 伊都国の長官は、爾支と言い、師木津日子玉手見命か。

 ここにはいろんな説がある。


 九州から大和への移動


 九州の弥生後期遺跡の鏡の持ち方と大和纏向北方の天神山古墳の持ち方は一緒(梅原末治)
 纏向遺跡は継続性を持たず、異質な政治的再編を受けている。
 纏向遺跡からは東海・関東・西瀬戸内等の土器が出土しているが、北九州の土器はでていない。これは支配・祭祀・武装の階級が主に東征し、土器を作る女性達の移動は少なく、それらは民衆の動員として吉備などから、古墳の造営には畿内・東海・北陸などの民衆が動員されたと考えていい。(大和岩雄)
 纏向遺跡から掘っ建て柱の建物跡が出土している。宮殿と見なされている。箸墓の真北。卑弥呼の宮殿とか崇神天皇の宮との説が出ている。

建物跡からの復元図




魏志倭人伝』葬儀


 棺あるも槨なく土を封じて塚を作る。始め死するや喪を停むること十余日・・・喪主は哭泣し他人は就きて歌舞飲酒す。巳に葬れば家を挙げて水中に詣りて澡浴す。
 「棺はあるが槨(棺を納める部屋)がなく、直接棺を土中に埋めた。」これは戦後暫くまでの庶民の土葬の一般的やりかただった。気の遠くなる歴史を刻んでいる。前原市平原遺跡の弥生墳も同じように作られているし、また出雲の西谷三号四隅突出方丘墓も同様である。

 2世紀央 平原弥生墳墓からの出土品の特長。
  鏡、刀、玉の三種の神器が出土していること。
  出土した鏡は42面、その中には最大の直径の46.5cmの内行花文八葉鏡が4面ある。
 伊勢神宮の御神体の鏡は、『延喜式』によると、鏡を納めている桶代は一尺六寸三分、『皇太神宮儀式帳』にも御桶代内一尺六寸三分とある。これは約49cm、鏡の大きさが出土品と同じくらいと想像できる

平原遺跡出土の八頭花崎八葉形銅鏡


 平原弥生墳墓の特長。


 平原遺跡墳墓は日向峠からの日の出の光が股間にあたるように埋葬されている。また鳥居と思われる柱穴もその方向を示している。被埋葬者は太陽の子を身籠もる巫女王だったと思われる。

『実在した神話』から

古代出雲の墳墓



 古墳の形状から見る倭国と狗奴国。

 260年頃から巻向型前方後円墳が出現する。邪馬台国などが構成する倭国連合が各地の祭祀を取り入れて首長霊を祀り、継承儀礼を行う施設として前方後円墳を考案した。
 一方、狗奴国であった地域には主に前方後方墳が出現した。

九州の夜明地名 邪馬台国九州説の場合

ヨアケとは屯倉のような防衛の為の出城



 建国神話の相似。

 百済の建国神話
 兄沸流と弟温祚が建国の地を求めて旅に出る。
 沸流は海浜に都を設置した。仁川付近と思われる。
 温祚は陸地に都を設置した。ソウルの南側と思われる。
 海浜では地が湿っており、建国は出来なかった。
 陸地の方は豊かな国になっていた。
 沸流は自殺し、住民は陸地に移転した。

 
日本の建国神話
 兄五瀬と弟神武が大和の地に建国するべく旅に出た。
 瀬戸内海の航行を主導した五瀬命は生駒で矢傷を負い死亡。
 神武天皇は熊野から大和へと陸地を進軍した。
 神武天皇は大和での抵抗をうち破って建国した。

 
共通点
 兄弟で新しい国を求める
 海の代表の兄は死ぬ
 陸地の代表が建国する



 『記紀』に記述されるまで約400年が経過しており、東征の事実は記憶されていたが詳細は百済建国神話なども参照して構成されたのかも知れない。

  参考書籍 『邪馬台国論争』(岡本健一)講談社、『倭国』(岡田英弘)中公新書、『日本の古代』海人の伝統(中央公論社)、『卑弥呼の正体』(遠山美都男)、『王権誕生』(寺沢薫)、『邪馬台国は二ヵ所あった』(大和岩雄)、『実在した神話』(原田大六)、『古代学入門』(黛弘道)


神奈備にようこそ