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大和は狗奴国だった。
『魏志倭人伝』からは邪馬台国の場所は確定できない。これは魏使が邪馬台国まで行っていないことにより、伝聞によって報告したからであろうし、さらに邪馬台国は九州から大和へ東征したので場所が変わっていることによる混乱もあったのでしょう。
目的地までの最後の経路を水行10日、陸行20日などと飛躍してしまう書き方はだいたいにしておかしい。普通は近づくに従って細かく書くものだ。
端的に言おう。倭国連合(邪馬台国など)の東征が神武東征の神話として記録された。ターゲットは大和、即ちここが狗奴国の前線であった。
邪馬台国を九州の南にする地図として下記の地図が紹介されるが、これは西を上に書いた日本地図を間違って書き入れたものとの説もある。
『魏志倭人伝』葬儀
棺あるも槨なく土を封じて塚を作る。始め死するや喪を停むること十余日・・・喪主は哭泣し他人は就きて歌舞飲酒す。巳に葬れば家を挙げて水中に詣りて澡浴す。
「棺はあるが槨(棺を納める部屋)がなく、直接棺を土中に埋めた。」これは戦後暫くまでの庶民の土葬の一般的やりかただった。気の遠くなる歴史を刻んでいる。前原市平原遺跡の弥生墳も同じように作られているし、また出雲の西谷三号四隅突出方丘墓も同様である。
2世紀央 平原弥生墳墓からの出土品の特長。
鏡、刀、玉の三種の神器が出土していること。
出土した鏡は42面、その中には最大の直径の46.5cmの内行花文八葉鏡が4面ある。
伊勢神宮の御神体の鏡は、『延喜式』によると、鏡を納めている桶代は一尺六寸三分、『皇太神宮儀式帳』にも御桶代内一尺六寸三分とある。これは約49cm、鏡の大きさが出土品と同じくらいと想像できる。
平原遺跡出土の八頭花崎八葉形銅鏡
平原弥生墳墓の特長。
平原遺跡墳墓は日向峠からの日の出の光が股間にあたるように埋葬されている。また鳥居と思われる柱穴もその方向を示している。被埋葬者は太陽の子を身籠もる巫女王だったと思われる。
『実在した神話』から
古代出雲の墳墓
『魏志倭人伝』倭国乱る
2世紀後半、後漢王朝が黄巾の乱などで衰退し、後漢から威信財の供給を受けていた伊都国王の権威も失墜、更に鉄材の配分にも乱れが生じてきたのを期に群雄割拠の時代となった。戦争にかかわる遺跡・遺物は北部九州から伊勢湾沿岸までの範囲に分布し、環濠集落、矢尻、殺傷人骨、武器などとして出ている。そこで各国は卑弥呼として呪術能力の際立った巫女を共立し、新生倭国連合の発足となった。卑弥呼は邪馬台国を都とした。
九州の夜明地名 邪馬台国の範囲
ヨアケとは屯倉のような防衛の為の出城
巫女王に異議をとなえた北方にルーツを持つ集団(後の物部)の大半は東へ旅立った。物部の遠祖饒速日尊は太陽の男神。彼らは近畿以東を領域とする狗奴国に参加した。物部の一部は東海にも進出した。狗奴国には和珥族も参加していた。
『魏志倭人伝』卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。247年、狗奴国と交戦。
『魏志倭人伝』卑弥呼の死。男王立つも国中服さず。台与二代目卑弥呼になる。
『記紀』神武東征譚
青銅器の分布 畿内と東海は一体
狗奴国との決着を着けるべく、倭国は東征を開始した。この経緯は神武東征譚として神話化されている。
神武天皇は東征に入る。筑紫の岡田宮で大和の物部勢力の懐柔を依頼。また宇佐、安芸の協力を取り付け、狗奴国側であった吉備勢への恫喝と妥協での説得に成功した。これは孝霊天皇が東征を開始し、畿内の狗奴国を制した物語の神話化したものと思われる。事前に物部勢力を懐柔していたので、抵抗は散発的なものであった。これにより東海以東の勢力も概ね帰順した。なお畿内近隣の安定は崇神・垂仁天皇の代にまで持ち越されたようだ。
東征の経路には海人族の協力があった。これが倭国造の祖とされる椎根津彦の道案内の話になっている。
海(和田地名)
『記紀』『平成祭りCD』綏靖天皇から開化天皇まで
各天皇の地域別神社数
瀬北=瀬戸内海北岸 山口、広島、岡山
九 瀬 瀬 奈 近 瀬南=瀬戸内海南岸 愛媛、香川、徳島
州 北 南 良 東 近東=近畿以東
綏靖 20 0 2 0 5 妃 一人 事代主神の娘
安寧 0 0 0 1 2 妃 一人 事代主神の孫娘
懿徳 0 0 0 1 1 妃 一人
孝昭 0 0 0 0 1 妃 一人
孝安 0 0 2 3 4 妃 一人
孝霊 1 17 2 1 1 妃 四人 磯城県主大目の娘細姫など
孝元 1 0 0 1 5 妃 四人 穂積、物部、河内の娘達
開化 0 0 0 1 4 妃 三人 丹波、物部、和珥の娘達
孝霊妃:大倭玖迩阿禮比賣命 台与のことか
0 0 0 1 4
台与の娘 大倭迹迹日百襲比賣命
0 4 6 1 1
欠史八代とされる天皇達、初期の天皇の妃が事代主神の娘などになっている。伝承が失われていたのであろう。初期の天皇は九州の倭国の指導者であったのか、または大和葛城の鴨氏の族長を天皇として『記紀』に持ち込んだのか?
孝霊天皇の妃は四人記録されている。また瀬戸内海北部の神社に多く祭られている。彼の伝承は残っていたのだろう。
九州から大和への移動
九州の弥生後期遺跡の鏡の持ち方と大和纏向北方の天神山古墳の持ち方は一緒(梅原末治)
纏向遺跡は継続性を持たず、異質な政治的再編を受けている。
纏向遺跡からは東海・関東・西瀬戸内等の土器が出土しているが、北九州の土器はでていない。これは支配・祭祀・武装の階級が主に東征し、土器を作る女性達の移動は少なく、それらは民衆の動員として吉備などから、古墳の造営には畿内・東海・北陸などの民衆が動員されたと考えていい。(大和岩雄)
纏向遺跡から掘っ建て柱の建物跡が出土している。宮殿と見なされている。箸墓の真北。
建物跡からの復元図
古墳の形状から見る倭国と狗奴国。
260年頃から巻向型前方後円墳が出現する。邪馬台国らどが構成する倭国連合が各地の祭祀を取り入れて首長霊を祀り、継承儀礼を行う施設として前方後円墳を考案した。
一方、狗奴国であった地域には主に前方後方墳が出現、濃尾平野以東では古墳時代前期前半は殆どがこれ。春日井 束之宮古墳、犬山 青塚古墳。
また、伊勢・尾張の狗奴国領域からも大和へ多くの人々がやって来た。かれらは大和でも前方後方墳を造営した。フサギ塚古墳・波多子塚古墳・下池山古墳(天理市)、山城では元稲荷古墳(向日市)が初期の古墳である。
大和以西では前方後円墳が圧倒的に多い。この様式の違いこそ倭国と狗奴国の墓制の差の特長と思われる。
大和の大和古墳群には前方後方墳が散見される。
吉備では3世紀後半に前方後方墳(都月坂一号墳)が出現している。
建国神話の相似。
百済の建国神話
兄沸流と弟温祚が建国の地を求めて旅に出る。
沸流は海浜に都を設置した。仁川付近と思われる。
温祚は陸地に都を設置した。ソウルの南側と思われる。
海浜では地が湿っており、建国は出来なかった。
陸地の方は豊かな国になっていた。
沸流は自殺し、住民は陸地に移転した。
日本の建国神話
兄五瀬と弟神武が大和の地に建国するべく旅に出た。
瀬戸内海の航行を主導した五瀬命は生駒で矢傷を負い死亡。
神武天皇は熊野から大和へと陸地を進軍した。
神武天皇は大和での抵抗をうち破って建国した。
共通点
兄弟で新しい国を求める
海の代表の兄は死ぬ
陸地の代表が建国する
『記紀』に記述されるまで約400年が経過しており、東征の事実は記憶されていたが詳細は百済建国神話なども参照して構成されたのかも知れない。
参考書籍 『邪馬台国論争』(岡本健一)講談社、『倭国』(岡田英弘)中公新書、『日本の古代』海人の伝統(中央公論社)、『卑弥呼の正体』(遠山美都男)、『王権誕生』(寺沢薫)、『邪馬台国は二ヵ所あった』(大和岩雄)、『実在した神話』(原田大六)、『古代学入門』(黛弘道)
神奈備にようこそ
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