関帝廟
大阪市天王寺区勝山二丁目 ゼンリン

交通案内
四天王寺東 久保神社北側の清寿院

祭神
 関羽

関帝廟

由緒
 小説『三国志演義』や吉川英治の『三国志』では、桃園で3人が義兄弟の契りを結んだ劉備(りゆうび)、関羽(かんう)、張飛(ちようひ)はともに英雄として、あまりにも有名である。 関羽は美しい髯(ひげ)の持ち主で、美髯公とよばれた。武勇に優れ、孔子の『春秋左氏伝』を読んだとされる。 しかしながら人を見下すことがあったり、人の恨みを買うこともあったようである。
 死後、祟りをなしたと言われ、怨霊とされた。人々はその怨霊を鎮めるために廟を建てた。 唐・宋以後の王室は関羽の義勇をたたえ、関寿亭侯(かんじゆていこう)、忠恵公、壮繆義勇武安英済王(そうびゆうぎゆうぶあんえいせいおう)、 1614年に明朝があたえた三界伏魔大帝神威遠鎮天尊関帝聖君(さんがいふくまたいていしんいえんちんてんそんかんていせいくん)としだいに称号が加わった。 また、関羽は山西夫子(さんせいふし)とも協天(きようてん)大帝ともよばれる。のちに神格化され武神、伏魔神、財神(商業神)となり、結社、会館の守護神ともなった。 湖北省当陽県玉泉山では仏法を守る伽藍(がらん)神となっている。
 清朝に入ってからは軍神、財神として関帝廟は関羽の出生地の山西省解県をはじめとして、中国各地に祀っていない村はなかったという。 財神となったのは金銭に淡泊、かつ金銭出納簿、算盤をつくったともされるのが由縁である。中国人は他国へ行って、料理屋、散髪屋、洋服屋を営むとされたが、特に料理屋の経営者には信仰されている。脱税の周富徳さんはどうだったのだろうか。 こんな卑怯な男を護らなかったのはやはり「義」の人である。
 また台湾、東南アジア、日本その他の華僑の居住地にも関帝廟が存在する。日本では横浜、神戸の関帝廟が著名である。

 京都は宇治の黄檗山萬福寺の伽藍堂には「関聖大帝菩薩」ということで、赤い顔、黒くて長いひげの姿で、観音像の膝元に祀られています。 黄檗山万福寺の末寺の東大阪の長楽寺を遷したのが神戸の関帝廟となったとされています。
 大阪の関帝廟は清寿院関帝廟と称し、約200年の歴史を持っています。黄檗宗禅寺で、観世音菩薩と関聖帝君を祀っています。

表の廟内の像

お姿
 久保神社と道一つ離れたお寺の一角に鎮座する。墓や寄附した人名は台湾や大陸の人の名前が多い。台湾では民族の英雄神である。


奥の廟内の像

 参考文献 『道教の神々』窪徳忠著 (講談社学術文庫)

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