阿智神社
岡山県倉敷市本町1


交通案内
倉敷駅南側すぐの小山の上 its-mo



祭神
 多紀理毘賣命、多岐津毘賣命、市杵嶋比賣命
配祀 應神天皇
合祀 八意思兼神、素盞嗚命、大己貴命、宇迦之御魂命、神大市比賣命、吉備津彦命、少彦名命、伊邪那岐命、伊邪那美命、稻田姫命、久那斗神、墨吉三前大神、天照大神、八十禍津日神、大直日神、神直日神
摂社
荒神社「素盞嗚命」
菅原神社「菅原道眞」
恵毘寿神社「事代主命」
稲荷神社「倉稻魂命」

本殿



由緒
 『日本書紀』に「阿知使主・・・」の項があり、欽明記にも阿知、東漢の項があるが、この阿知が地名発祥の源とされる。 阿智使主の一族の一部がここに留まり、この神社を祀ったと考えるのが自然である。

『紀伊続風土記』には 「(丹生都比売と空海を結びつけるキイマンの狩場明神とされる)犬甘蔵吉は阿智使主の後蔵人と見ゆえたる人にて応神天皇廿年阿智使主と共に帰化せしむを同二十二年の事当社へ寄せるたまへるなるへし 文治 建久頃当社人の連署に坂上氏の多きの此縁によれるなるへし 三野国は備前国三野郡なり 牟毛津は氏なり 記紀姓氏録等に見えたり」とある。

 「坂上田村麻呂伝記 『群書類従』」には、大納言坂上大宿禰田邑麻呂者。出自前漢高祖皇帝。廿八代至 後漢光武皇帝。十九代孫考霊皇帝。十三代阿智王。率一縣同姓百人。出 漢朝入本朝。応神天皇二十六年也。 (習志野のてつさんの提供 H12.10)とあり、坂上氏もまた丹生都比売神社に関わる。

 延喜式内社で信濃国に阿智神社の名前がみえる。大和の飛鳥の檜前(ひのくま)には阿智使主神夫妻二柱を祭神とする於美阿志神社が鎮座している。このヒノクマは紀の川河口に鎮座する日前国懸神宮の名につながり、 紀氏ー丹生氏の関係も注意する必要がある。

 また社記に神功皇后三韓外征の途次、闇夜に航路を見失い、宗像三神に祈願された。時に三神の剣輝き、この知に下ったと言う。 これを祀り、明剣宮と称すと伝わる。神社の通称は妙剣様。

お姿
  
 古来、この一帯は吉備の穴海と称され、内界深く湾入し、当地は小島で円亀島と呼ばれていた。 その海辺に住む漁民の奉祀していたのを社殿の創祀となすようだ。 一枚岩の御影石の階段、磐座・磐境とおぼしき岩や岩組などがあるし、また多くあったようだ。

鶴石



お祭り
 例祭 5月 第3土曜日と翌日、秋季例祭 10月 第3土曜日と翌日



『平成祭礼データ』阿智神社から

日本書紀応仁記に「阿知使主・・・・・・」の項あり、舒明記にも阿知、漢の項ありこれを地名発祥の源とし、また社記に神功皇后三韓外征の途次、暗夜に航路を見失ない給い宗像三神に祈願さる。時に三振の剣輝きてこの地に下る。よってこれを祀り明剣宮と称すと伝う。
経緯 古来、この一帯は吉備の穴海と称され、内海深く湾入し、当地は一小島(内亀島)で、その海浜に住む漁民の奉祀したのを社殿の創建となす。
室町末期、慶長、元和の頃に至り祭祀も当地草分け(木綿欅組)が交代執行し、当屋制度定着す。江戸中期、観竜寺の別当管理となり、神仏混淆し明治に至る。同二年神仏分離令により阿智神社を復号、明治四二年町内十二社を合祀、この年忠魂碑建立す(銅製剣型、昭和一九年供出)
昭和二七年宗教法人となり、三二年境内の一部を市公園用地として貸与。昭和三三年倉敷護国神社創建さる。
以上

公式阿智神社
神奈備にようこそ