産田神社
三重県熊野市有馬町814 its-mo


交通案内
紀勢線 有本 北西へ1km



祭神
伊弉諾尊、伊弉冉尊、軻遇突智命
合 天照皇大神、大山祇命、木華開耶姫命、神武天皇

鳥居



由緒 『三重県神社誌』
 天正の兵火で古記録宝物等焼失ゆえ詳ならす。崇神天皇の御代創建と伝わる。産田は産処の義にして、伊弉册尊がこの地で火の神軻遇突智尊をお産みになったが故に産田と名付けられたという。一説に伊弉冉尊が神退りました地ともいわれる。また、永正十八(1521)年十一月十四日の棟札に「奉棟上産土神社二所大明神」と見え、『紀伊続風土記』によるとこの二所大明神とは伊弉册尊と軻遇突智尊二神を指し、後に伊弉諾尊が併せ祀られるようになったと説く。以上『三重県神社誌』から

 地元に伝わる口伝には「崇神天皇の夢見により、ここにお祭りされていた神様を熊野に遷したのが、熊野本宮大社の始まりだという。」 確かに、江戸時代までは、産田神社と熊野本宮大社では、同じ巫女舞が伝承されていたという。
 昭和34年の伊勢湾台風で境内の古杉が根こそぎ倒れ、そこから弥生中期の土器片が出土している。また付近の津の森遺跡からは、独特の形の弥生後期の甕や土師器が出土している。 熊野は辺境の地であるが、海を通路として多くの渡来人が入ってきて、造船や金属精錬を行い、交易がなされていたのであろう。
 大和王権への服属も遅かったのではないかと思われる。そのような土地こそ天皇家の祖神が持ち込まれている。熊襲や熊野である。
 実務的には、伊弉册尊信仰は淡路島辺りから淡路海人、紀州海人などが、熊野灘へ持ち込んだものであろう。




お姿

 遠目からも四角い濃く木々の生えた社叢がよく見える。2480坪の境内だそうだ。鳥居からも荘厳な雰囲気がひしひしと伝わってくる。

産田神社の本殿(神明造)



お祭り

 1月10日 例大祭 烏帽子、布衣、帯刀の男子二人による御弓の神事を斎行
 2月10日 春祭 直会の際、「ホウハン(汁かけ飯一碗、骨付きのさんまずし、赤和え、神酒)」と称される膳を頂くと厄落としができる。ある いは左利きが治るといわれる。
11月23日 秋祭 

紀伊續風土記 巻之八十九 牟婁郡 有馬荘 奥有馬村

口有馬村の戌の方九町半にあり

○産土神社   境内周三町半 禁殺生
       伊弉冉尊社 方六尺
本社二社   軻遇突智命社 伊弉諾尊社 方六尺

村中にあり 口奥有馬山崎三箇村の産土神なり 土人伝へいふ 伊弉冉尊此地にで軻遇突智神を産み給ふ故に産 田と名つくといふ

神功皇后 応神天皇を産み給へる地を宇彌(ウミ)といふか如し後其地を標する為に此地に社を建てて伊弉冉尊 と軻遇突智神とを祭れるならむ 伊弉諾尊は夫神なれは後に并へて祭れるなり 天正年中の棟札に産田 二社として祭れるなるへし 上古は榎本氏代々神官にて社領の地を掌りしに中世以来別に神主を置き神 事を掌らし 天正の頃榎本氏断絶し宮社も盡兵火に罹りて古記等伝はらさる事情むへし 社領はは堀内氏の時ま ては猶田地五町ありしに浅野氏の時収公せらる 其頃浅野右近に愁訴して高五石を免さる 元和封初旧にに因り て寄付せらる 叉寛文年中花ノ窟ともに殺生禁札を給へり 享保十七年 公より燈籠を寄附し給ひ御修復所ぎな る 祭日は毎年正月十日隣郷の貴賤群衆して参詣す 今伝ふる所の棟札永正十八年慶長六年以下存せり 又二王 門の棟札あり 以下略

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