伊居太神社(いけだ)
穴織神社(あやは)
大阪府池田市綾羽2丁目4−5


交通案内
阪急宝塚線池田駅 北へ1.5km its-mo



祭神
穴織大明神、応神天皇、仁徳天皇

鳥居





由緒
 『応神紀三十七年』阿知使主・都加使主(東漢氏の祖とされる父子)を呉に遣わして、縫工女を求めさせた。阿知使主らは高麗国に渡って、呉に行こうと思った。さて高麗に着いたが道が分からず、道を知っている者を高麗に求めた。高麗王は久礼波(クレハ)・久礼志(クレシ)の二人をつけて道案内をさせた。これによって呉に行くことができた。呉の王は縫女の兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人を与えた。
 との記載がある。
 もとよりこの地にやってきたとは書かれていない。平安時代に西漢氏の子孫とする坂上氏の子孫の土師氏が当地を治めるようになって、この伝承を流布させたようだ。(池田市教育委員会『まんが池田の歴史』による)

 呉織媛と穴織媛は秦氏の織姫であったのかも知れない。秦氏景には服部もある。

 呉服神社(クレハ)が池田駅南側に鎮座しており、秦下社と称しており、穴織神社を秦上社とよんでいた事、また『和名抄』には当地に摂津国豊嶋郡秦上郷・秦下郷であったので、土師氏以前には秦氏が住んでおり開拓に従事していたのであろう。後期古墳は渡来系文化の痕跡をとどめているとされる。

 伊居太神社の名は延喜式に見えるが摂津国河辺郡の神社となっている。 穴織神社から川辺郡塚口村への神幸祭が重視されていたようで、本来の式内社の立地は塚口であったと推定されているが、場所を特定する資料は残っていない。 尼崎市下坂部に鎮座する伊居太神社は明治末期までは春日神社だったのを改名したもの。


拝殿と本殿



本殿



お姿
  本殿は慶長九年(1604年)に造営されたもの。由緒と威厳を感じる名刹である。 五月山の西側の長居石段を登れば社域となる。五月山の東側にも穴織神社が鎮座している。


東側の穴織り神社全景 its-mo



伊居太神社摂社の為那都比古神社

為那都比古とは阿知使主のこととし、偶然に発見放置された古人骨を埋めて当神社を造営(再建)したと言う。 これをまた摂津国豊嶋郡の式内社の為那都比古神社と称している。

お祭り

 例祭

<


神奈備にようこそ