志賀海神社
福岡市東区志賀島字勝山877 its-mo

港の近くの鳥居と二の鳥居
 

交通案内
市営の船 志賀島行き(650円) または西鉄バス(500円)

祭神
 底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神 配祀 玉依姫命、神功皇后、應神天皇
摂社 今宮神社 穂高見神、安曇磯良神

神門

由緒

 延喜式神名帳の名神大社。
 安曇磯良は『八幡大菩薩愚童訓』によれば、神功皇后の乗船の舵取りをつとめた人物として、筑前国では志賀大明神、常陸国では鹿島大明神、大和国では春日大明神と記している。また長く海中に住んでいたために牡蠣などが顔面に付着して、磯良の容貌は醜怪であったと述べている。
 安曇磯良なる海底のもののけが鹿島明神として祀られ、それが大和の春日明神、筑前の志賀明神と同体異名であるとは意表をつく伝説ではあるが、これらは古代の海人の信仰に由来するのである。志賀は鹿に通じる。
 安曇海人はこの国の最古の組織化された海人で、河川から奥地へと開拓を進めたまじめな連中であったようだ。全国に安曇とその変化地名が残されている。対馬にも多くの足跡を残しており、おそらくはその先の朝鮮半島にまでおよんでおり、海運業者の役割を果たしていたものと推測される。

 ちはやぶる 鐘の岬を すぎぬとも われは忘れじ 志賀の皇神
 これは万葉集の歌であるが、この鐘の岬とは金印の埋まっている岬を指していると云う見解がある。

拝殿

お姿
 一の鳥居から300mで二の鳥居、石段を登るのであるが、いかにも海辺の神社らしい木々の垣がなされている。
 社殿は普通の神社で、別段海人の祖神を祀っている雰囲気はなかった。ただ神主さんが毎朝海水で禊ぎをするとのこと、これは一年三百六十五日のことと云う。また祭礼の前には総代さん方も海水での禊ぎをするとのこと。

社殿

お祭り
 10月 9日 御神幸祭 10月10日 国士祭

平成祭礼データ 志賀海神社略記

 古事記上巻に「此三柱綿津見神者阿曇連等之祖神以伊都久神也阿曇連者其綿津見神子宇都志日金拆命之子孫也」旧事記に「底津少童命・仲津少童命・表津少童命(綿津見神の別号)此三神者阿曇連等所祭筑紫斯香神也」即ち神代の昔伊弉奈岐大神筑紫の日向の橘の小戸の檍原に禊祓ひ給ひ身心の清浄に帰り給ひし時生れ給ひし御神にして海神の総本社として鴻大無辺の神護を垂れ給ひ諸々の海の幸を知食し給ふ故に神功皇后御征韓に際しては神裔阿曇連磯良丸命をして舟師を導かしめ給ひ又元寇の役その他国家非常に際し赫々たる御神威を顕はし給へり、さればしばしば勅使の奉幣あり延喜の御代には名神大社に列せられ或は封戸奉り神階を賜ふ等上下の尊崇深厚を極め神領等も頗る多く、中津宮、沖津宮と共に三社別々に鎮祭せられ結構壮麗を極めたりしが其後久しく兵乱打続き神領等も次第に失せびて漸次衰微するに到れり然るに豊臣秀吉九州出陣に際し朱印地の寄進ありたる外、大内義隆、小早川隆景、小早川秀秋、黒田長政等諸将相についで社殿の造営神領の寄進等ありて凡そ面目を改めるも尚到底昔日の比にあらず、明治五年僅かに村社に指定せられたる状態なりしが大正十五年官幣小社に昇格仰出されたり。
以上

 

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