石園座多久虫玉神社
(いそのにますたくむしたまじんじゃ)

奈良県大和高田市片塩町15-33 ゼンリン

鳥居と拝殿


交通案内
近鉄南大阪線大和高田駅下車 北へ50m



祭神
建玉依比古命、建玉依比賣命
配祀 豐玉比古命、豐玉比賣命

摂社 稲荷神社、戎神社

 当社の祭神についての考察が田中昭三編著『大和の神祭祀』にふれられている。 なお、この書物は昭和十五年、おそらくは皇紀二千六百年を記念して出版された「大和国神社神名帳」の概説紹介にその値打ちがあるのだが、
 田中氏は石園座多久虫玉神社の祭神の推移を、当麻葛城の繊維技術氏族に関わるもの、また祭祀氏族に賀茂氏秦氏の関わりを指摘され、以下のように推理される。
当初 多久都玉命、下照姫命
「記紀」神話以後 味鋤高彦根命=賀茂建角身命、下照姫命
安寧天皇片塩、浮孔宮跡に比定された後 園神、韓神
古学神道以後 建玉依比古命、建玉依比賣命



由緒
 「いわそのに・・」とも訓がある。第三代安寧天皇片塩浮穴宮跡とされる浄池に鎮座する式内大社。 建玉依比古命とは鴨玉依比古命のことで、京都市北区の賀茂別雷神社(上賀茂神社)摂社の土師尾社の祭神、また日吉大社摂社樹下若宮の祭神となっている。

 神社前を高田川が流れていたが、現在は道路、水神として信仰されていたと言う。それが別名の竜王社と呼ばれた由縁であろう。 当麻町の長尾神社は東面、当社は西向きに鎮座し、竜の頭とされ、ナーガ(蛇)の尾の長尾神社は竜の尾をあらわしていると伝えられてる。 なお、長尾神社はやはり巳さんの尾、三輪明神さんを巳さんの頭としうる伝承もある。三輪明神も西向き。

 石園座多久虫玉神社を射園神(いそのかみ)とも称したと言う。

 対馬国の式内社に天神多久頭多麻命神社[アマノタクツタマ・]が記載されており、多久頭は多久豆との記され、虫は豆の誤記ではないかとの指摘もあるようだ。久豆玉は葛魂葛神に通じ、後に竜王となっている例は大和に多く見られ、 理解はできるが、延喜式神名帳に誤って記載されるまたは転記ミスがあって、完全に廃絶していり、近世に再建されたのならともかく、存続して来た神社名にフィードバックされる事などありうるのだろうか。

再建された社殿




お姿
  平成二年、放火によって全焼し、その後再建された。
 古書に「ゆけば高田村なり。此の里は商人多くていとよき所なり。此の里の東のはづれに近く南みみえる森は磯野村竜王の社といふ。 木立物ふりてよくしげり、西の方にあけの鳥居のこうこうたるぞいとたうとかりき。」とあるのだが、今日にはその面影はなく、 華やかな朱色の社殿が陽光のなかにきらめいていた。造営当初もこのようであったのかも知れない。


お祭り

例大祭 10月 9日

『平成祭礼データCD』石園座多久虫玉神社
 当神社は、第三代安寧天皇片塩浮穴宮跡といわれる浄池に祭祀され、第十代崇神天皇の御勅祭に預り給い、延喜の制には大社に列し、並大・月次・新嘗案上の官幣に預り、神護元年神戸を領し、貞観元年神階従五位上に叙せられ従一位は園の大暦にみえ、享保ニ年正一位に進み給ふ。
元和ニ年迄は、葛下郡八十六ヶ村総社(郷宮)でありました。
明治二四年内務省より古社保存資金下賜、昭和四年には宮内省より大礼建造物の一部下賜、次いで昭和五年の営繕に際し、同年八月伊勢内宮御正殿の御梁・御桁、其の他古殿舎材の御下賜があり、昭和七年天皇陛下より幣帛料の御奉納あり、往昔より皇室の御崇敬、国家の待遇厚く、地方の霊社として氏子崇敬者の尊信浅からず、昭和六年県社に列せられ、昭和四十一年には、神社本庁の別表に掲げる神社に加列されました。
以上
 

参考 神社本庁cd、『日本の神々4』、『寺院神社大辞典』、『大和の神祭祀』

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