試論:淡路島の古代
 

淡路島の地形

atsu@sannet.ne.jp様のホームページ淡路島の探鳥地から







 ご覧の通りの地形です。白地に黒字は伊弉諾神宮以外は地名で、これは神奈備の書き入れです。

 北は明石海峡をはさんで摂津です。現在は明石大橋でつながっています。

 南は鳴門海峡をはさんで阿波です。阿波への道で淡路との説や、沸流(ピリユ)百済の分国のひとつである檐魯を漢字を代えて表現したとの穿った見方もあります。 しかし、それならタンロを万葉仮名にした好字で残っているでしょうから、これは付会でしょう。現在は鳴門大橋でつながり、橋の上から観潮もできます。

 東は紀淡海峡をはさんで紀の国や泉州と近く、西は瀬戸内海に蓋をする壁の役割を果たしています。
 淡路を征えないと、西の勢力の瀬戸内海を通っての東遷は出来なかったのでしょう。あの神武東征伝説の地が太平洋側の高知県に点在していますが、全くのゆえなしではないでしょう。 また、邪馬台国の遣いが大和に入っていくのに日本海側を通っていったとの説も、淡路島を比定している訳ではありませんが、時の狗奴国との争いの中では十分考えられるルートです。
 
 

淡路島での遺跡出土

 本格的な発掘は行われていないようです。学校の建設現場を通りかかった考古学者がたまたま見つけたと言うような場合が殆どのようです。 従って表面の薄い層のみが対象となっています。

 銅鐸の出土記録は多く、全てが初期の小型銅鐸のようです。最古とされる菱環紐式の銅鐸さえ洲本市から出土しています。後半期の大型化した見せる銅鐸は出ていません。 小型銅鐸が出ていると言う事は少なくとも早い時期に、大和や摂津・河内との交流があったと言えるでしょう。

 他には石器も出ています。旧石器時代、縄文時代と連綿と人々が生活をしていた土地であったと言えます。この人々はどこからこの島にやってきたのでしょうか。

 安住寺付近からも石器や縄文土器が出ています。なおこの近くまでかっては海だったそうです。

 兵庫県や淡路の各市町村の行政の貧困を永久に歴史に示す「記録保存」と言う名目で、ロマンに満ちた、いや我が国の建国を語るに足るこの淡路島の遺跡は取り返しのつかない破壊がなされています。
 
 

古事記に見る淡路島

古事記中巻二安寧天皇
 師木津日子の命の御子二王ます。一の子孫は、伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置が祖なり。 一の子の和知都美の命は、淡道の御井の宮にましき。かれこの王、女二ましき。兄の名は蠅伊呂泥。またの名は意富夜麻登久邇阿礼比売の命、弟の名は蠅伊呂杼なり。

 意富夜麻登久邇阿礼比売は「おほやまとくにあれひめ」と読みます。大和大国魂神社と関係する名前でしょうか。
 

古事記中巻六仲哀天皇の条 后妃と皇子女
 帯中つ日子の天皇、・・、淡道に屯家を定めたまひき。

 御原郡(三原郡)の幡多に屯倉があったのではと推定されています。三原町大榎列に屯倉神社跡があります。今は石碑と小祠があるだけです。淡路の御原海人が息長帯比売や武内宿禰に協力したのでしょう。
 

古事記下巻一仁徳天皇の条 黒日売
 仁徳天皇の大后石の日売の命の嫉妬により吉備の海部の黒日売を徒歩で追い去った後、ここに天皇、その黒日売に恋ひたまひて、大后を欺かして、のりたまはく、「淡道島見たまはむとす」とのりたまひて、幸行でます時に、淡道島にいまして、遙に望けまして、歌よみしたましく、
   おしてるや、難波の埼よ
   出で立ちて わが国見れば、
   粟島 淤能碁呂島(おのごろしま)、
   檳榔(あじまさ)の 島も見ゆ。
   佐気都島見ゆ。
 すなわちその島より伝ひて、吉備の国に幸行でましき。

 淡路島へ渡っての歌とも難波の海辺での歌とも両方のの見方があります。 吉備に詣でる目的なら淡路島まで行ったのでしょう。淡路島へ行く事は自然な事と思われていたのでしょう。例えば祖先の墓参りとか親戚がいるとか、どうも出自に関連していたのかな、と思わせます。

 

古事記下巻一仁徳天皇の条 枯野船
 この御世に、寸(トノキ、ウキ、トキ)河の西の方に、一高樹あり。その樹の影、旦日に当れば、淡道島に逮び、夕日に当れば、高安山を越えき。けれこの樹を切りて、船に作れるに、いと捷く行く船なりけり。時にその船に号づけて枯野といふ。かれこの船を以ちて、旦夕に淡道島の寒泉を酌みて、大御水献る。この船破壊れたるもちて、塩に焼き、その焼け遺りの木を取りて、琴に作るに、その音七里に響む。

高石市取石に式内小社の等乃伎神社が鎮座しています。和泉国大鳥郡富木村でした。ここにはJR阪和線富木駅があります。ここからは夏至の日に高安山頂から日が昇ります。また、冬至の日に高安山頂から日が昇る位置に坐摩神社が鎮座していました。 双方とも太陽祭祀の場だったのでしょう。
 高安山は信貴山の南端に辺り、八尾の東にあたります。八尾は物部氏の河内での拠点で、恩智神社や天照大神高御座神社(岩戸神社)が古社として著明です。
 南西へどんどん行きますと、関空を経由して、淡路島の由良に至ります。由良湊神社が鎮座しています。少し南へ行くと生石鼻と呼ばれる岬があり、ここには天日矛を祭神とする出石神社が鎮座しています。 由良の北の洲本には物部と言う地名が残っています。古事記の応神紀の最後に突然、天日槍の来訪譚と天日槍から息長帯比売までの系譜が記されています。

これは、物部氏と息長氏の連合体の上に応神・仁徳王朝が統治を行っている事を伝えているのでしょう。
 

古事記上巻一伊耶那岐の命と伊耶那美の命の条
 かれ二柱の神、天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴して、引き上げたまひし時に、その矛の末より垂りおつる塩の累積りて成れる島は、これ淤能碁呂島なり。その島に天降りまして、天の御柱を見立て八尋殿を見立てたまひき。
 中略
 ここに伊耶那岐の命、まづ「あなにやし、えをとめを」とのりたまひ、後に妹伊耶那美の命、「あなにやし、えをとこを」とのりたまひき。かくのりたまひ竟へて、御合ひまして、子淡道の穂の狭別の島を生みたまひき。
 中略
 速須佐の男を神逐ひに逐ひたまひき。かれその伊耶那岐の大神は、淡路の多賀にまします。

 淤能碁呂島のモデルとされた島を淡路島と紀州の間の島に比定する説があります。淡路の海人が聖なる島としていたひとつは、沼島であり、島内は岩が多いと言う。もとより、何らモデルであったとする証拠はありません。ほかに岩屋絵島、友ガ島、鳴門海峡の飛島、淡路全体との説があります。九州では博多湾の能古島とする説があります。
 記紀神話が先か神社が先かはわかりませんが、自凝島神社が三原町榎列下幡多に鎮座しています。

 国生み神話で示された範囲は雄略天皇の時代の王権が支配した地域と同じだとの指摘があります。この王権の時代には国生み神話がある程度は形成されて来ていたのでしょう。 淡路島が最初に生まれた島であると記紀に書かれている事は、王権の祖先の発祥の地と思われていたからでしょう。

 伊耶那岐の命の終焉の地としては淡路島と淡海の多賀の説があります。
 淡路市一宮町多賀に伊弉諾神宮が鎮座しています。延喜式に淡路伊佐奈伎神社(名神大)があります。
 滋賀県犬上郡多賀町の多何神社が式内社となっています。現在の多賀大社です。
 琵琶湖と淡路島の形はよく似ています。180度回転させると殆ど重なります。名前も「淡」がついています。双方に諾冊二神を祀る大社があり、銅鐸の出土も多く、物部の地名が残り、天日鉾を祀る神社もあります。

 伊耶那岐の命の身の成り余れる処(陽の元)が淡路島、伊耶那美の命の身の成り合ぬ処(陰の元)が淡海とは言えないでしょうか。



この二つの「淡」の真ん中は摂津の東部に当たります。吹田に式内社の伊射奈岐神社二座(並大。月次新甞。)がやはり鎮座しています。また銅鐸の産地でもあります。
 近江に天高原があって、ここから淡路へ降臨したなんて夢がありますね。
 
 

日本書紀に見える淡路島

巻第二神代下
 一書第二 天照大神は・・また勅して「わが高天原にある齋庭の穂をわが子(天忍穂耳尊)に与えなさい」と。
 この一文が何故淡路島に関係するのでしょうか。これは天孫の食べるものは高天原の米です。民草の食べるものとは違います。と言っているのです。 古事記の所で、枯野船で旦夕に淡道島の寒泉を酌みて、大御水献る。とあります。米と水との違いはありますが、淡路島高天原説の一つの根拠にはなるでしょう。
 

巻第六垂仁天皇
 (垂仁)天皇は天日槍に詔して「播磨国の穴粟邑と、淡路島の出浅邑の二つに、汝の心のままに住みなさい」と言われた。
 垂仁天皇は天日槍の持ってきた神宝を見たいと言われ天日槍の曽孫の清彦に詔された。清彦が差出した神宝の内出石の刀子は、ひとりでに淡路島に行った。その島の人はそれを神だと思って、刀子のために祠を立て、今(日本書紀編集時)でも祀られている。
 生石鼻に出石神社が鎮座しています。この由緒を語ったと言うよりはむしろ淡路島には天日槍の一族の勢いが強かった事を示しているのでしょう。神功皇后の拠点であったと言う事かも知れません。
 

巻第九神功皇后
 坂王・忍熊王は、播磨へ行き山陵を明石に立てることとし、船団をつくって淡路島にわたし、その島の石を運んだ。 人毎に武器を取らせて(神功)皇后を待った。
 結果的にはこの試みは失敗に終わります。 淡路島の戦略上の重要性と、淡路島の人々が両王子には協力しなかった事を示しているのでしょう。

 想像をたくましくすれば、東遷する勢力が淡路島の南北で行方を遮られていた所を、天日槍一族や物部の一族で構成される御原の人々が水路を開き、淡路島すり抜け大作戦を敢行したのではないでしょうか。今の洲本に軍団が出てきたのでしょう。 不意を突かれた両王子の軍はこの時を境に崩れ去っていったのでしょう。
 

巻第十応神天皇
 妃の皇后の妹の弟姫は、阿部皇女・淡路御原皇女・紀之莵野皇女・を生んだ。

 秋、九月六日、天皇は淡路島に狩りをされた。この島は難波の西にあり、巖や岸が入りまじり、陵や谷が続いている。芳草が盛んに茂り、水は勢よく流れている。大鹿・鳧・雁など沢山いる。それで天皇は度々遊びにおいでになった。
 

巻第十二履中天皇・反正天皇
 住吉仲皇子が去来穂別(履中)天皇(ここでは太子)を殺そうとした物語で、太子が竜田山を越えた。その時数十人、武器を持って追いかけてくる者があった。太子は一人を遣わして尋ねられた。 「だれが、どこへ行くのか」と。答えて「淡路の野島の漁師です。阿曇連浜子の命で仲皇子のために太子を追っているのです」という。
 淡路の北側を拠点とする野島海人は住吉の海人と組んで履中天皇の即位に抵抗したと言う事でしょうか。 履中天皇が王権の簒奪者なのでしょう。

 秋、九月十八日、天皇(履中)は淡路島に狩りをされた。この日に河内の飼部らがおともをして、馬の轡を取った。これより先に行われた飼部の目さきの傷が治らず、島においでになった伊弉諾神は、祝部に神憑りして、「血の匂いに堪えられない」といわれた。それで占ってきくと「飼部らの目さきの傷の匂いをにくむ」といわれた。
 

 瑞歯別(反正)天皇は履中天皇の同母弟である。履中天皇二年、立って皇太子となられた。天皇は淡路島でお生まれになった。生まれながら歯が一本の骨のようであり、容姿うるわしかった。瑞井という井戸があった。その水を汲んで太子を洗われた。その時多遅の花が井戸の中にあったので、よって太子の名とした。多遅の花は今の虎杖の花である。それで瑞歯別皇子とたたえ申したのである。
 淡路島生まれの天皇と明確に記されています。履中天皇に簒奪されていた皇統が元へ戻ったのでしょう。

巻第十三允恭天皇
 十四年秋、九月十二日、天皇は淡路島に猟においでになった。そのとき大鹿・猿・猪などが沢山に山谷に入り乱れており、炎のようにまた蠅のようであったが、一日中一匹の獲物も得られなかった。狩りをやめて占いをされると、島の神が祟っていわれるのに、「獣がとれないのは私の心によるのだ。明石の海の底に真珠がある。その珠を私に供えて祀れば、獲物はすべて得られよう」と。 (中略)阿波国長邑の男狭磯という海人が深く潜って大あわびを抱いて浮き上がった。男狭磯は死んでしまったが、桃の実ほどの真珠を得て、これを供えて島の神のお祀りを行った。
 前の履中天皇の狩りと同じく、この頃は未だ伊弉諾命は皇室の祖神とは位置づけられていなかったのでしょう。 淡路島や阿波の海人が奉ずる地元の神だったのでしょう。
 
 

淡路の神々抄

 石屋神社 淡路市淡路町岩屋明神 崇神天皇の時三対山に絵島明神の鎮座を起源とします。絵島は岩肌が波に削り取られて神々しい島で、淤能碁呂島とする説があります。

 伊勢久留麻神社 淡路市東浦町久留麻 伊勢の森と呼ばれる森に鎮座。敏達天皇の時代に伊勢国庵芸郡の久留麻神社から勧請されたと言う。箸墓古墳を中心に東に伊勢神宮斉宮跡、西に当神社と日神祭祀の観点から注目された。

 石上神社 淡路市北淡町任井舟木 現在も女人禁制の掟を守っています。日神祭祀の線上に鎮座しています。磐境信仰の跡があります。船木は住吉大社神代記によりますと「大八嶋の天の下に日神を出し奉る」とでています。

 産土神社 南あわじ市西淡町松帆 反正天皇の誕生の淡路宮跡ともされる。  

 大和大国魂神社 南あわじ市三原町榎列上幡多 大和国山辺郡に鎮座する大和坐大国魂神社を分祀したとの説があります。元社の大和神社は倭直の祖の市磯長尾市(いちしのながおち)を最初の祭主として大和の諸氏族を統制するために創建されたと言います。市磯長尾市の磯長は息長と同じ意味があります。 神武天皇の東征に水先案内として功のあった国津神の槁根津彦が初代の倭直であり、淡路の大和大国魂神社は、槁根津彦の出自に絡んだ神社とするのが自然です。槁根津彦は御原海人であったのでしょう。   

 諭鶴羽神社 南あわじ市南淡町灘黒岩 淡路島最高峰(608米)の諭鶴羽山上に鎮座しています。後世修験道の社として繁栄しました。
   
 
 

淡路の始源性

 山地は比較的平坦でなだらかです。その割には山崩れが多い島です。こう言った所は焼き畑農耕に適しているそうです。穏やかな気候で現在でも二毛作三毛作が行われている農業地帯です。
 縄文海進時には三原平野の大半は海ではなかったか。現に平野の奥の安住寺の周辺までは海であったとされています。
 三原平野から洲本平野へ船のまま抜けるような運河があったのではと、生田淳一郎氏は述べておられます。 氏は境に当たると思われる場所の発掘を行えば、運河用の杭等が出土するのではないか、と推定されています。傾聴すべき意見だと思います。

 照葉樹林地帯からの人々が阿波、紀伊、淡路等に流れ着き、ここで焼き畑農耕を行っており、その後三原平野が広がってきて、本格的な水耕稲作の時代に入りました。 この地の海人は力を蓄え、東西の交流に干渉し、航行に大いに活躍をし、やがては大和に王権を築くに至ったと考えられないでしょうか。

 


 

参考書 日本の神々 3 谷川健一氏 白水社、兵庫県の歴史散歩 山川出版社
 

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