揖夜神社(いや)
島根県松江市東出雲町揖屋2229 its-mo

鳥居

交通案内
JR 揖屋駅下車 北側を東に1km

祭神
伊弉冉命、大己貴命、少彦名命、事代主命
摂社
韓國伊太神社「素盞嗚命」五十猛命である。
三穂津姫神社「三穗津姫命」
恵比須神社「事代主命」
稲荷神社「倉稻魂命」

社域

由緒
風土記の意宇郡の条に、伊布夜社が二座あり、一つが後に記す同社坐韓国伊太氏神社であるが、もう一つが『日本書紀』斉明天皇五年の条に出てくる言屋社とされるのが当社である。 また『古事記』に「今、出雲国の伊賦夜坂と謂う」とある、死者の国との境である黄泉比良坂、を云う。 「イフヤ」と云う言葉があって、後に「イヤ」「ユヤ」に変わる。阿波の山奥の祖谷、紀州熊野については、御坊市に熊野神社と書いて「イヤ」と読む神社が鎮座する。 この熊野神社の由緒は、往古出雲民族が紀伊に植民する際にその祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の新熊野に勧請する途中、「当社に熊野神が一時留まりませる」ということが創祀説話になっている。 この「イヤ」「イフヤ」と云う言葉には死者の国を意味する言葉だったかも知れない。根の国である。そうして記紀神話との関係で、伊弉冉命と「イヤ」との関連が生じたのであるか。

 延喜式神名帳に揖夜神社[イフヤ]同社坐韓國伊太神社[・・カラクニイタテ]と記載されている。
出雲には「同社坐韓国伊太神」と言う名の神社が式内社で六座ある。
意宇郡 玉作湯神社同社坐韓国伊太神社
意宇郡 揖夜神社同社坐韓国伊太神社
意宇郡 佐久多神社同社坐韓国伊太神社
出雲郡 阿須伎神社同社韓国伊太神社
出雲郡 出雲神社同社韓国伊太神社
出雲郡 曾枳能夜神社同社韓国伊太奉神社

韓国伊太神社の祭神について
天保十四(1843)年、千家俊信の考証で、伊太神をして五十猛神、伊太祁曽神とされ、大方の支持を得た定説となっている。 定説に従えば、揖夜神社の同社の祭神が素盞嗚尊となっているが、五十猛命として差し支えはない。

揖夜神社本殿、手前は同社坐韓国伊太神社

 『日本の神々7『(白水社)に石塚尊俊氏の別稿「韓国伊太神社について」が掲載されている。ここに無断転載する。

韓国伊太神社について

「韓国伊太」を名のる神社は『延喜式』神名帳の出雲国にのみ六座もあって、そのうちの三座は意宇郡の「玉作湯神社」「揖屋神社」「佐久多神社」の次にそれぞれ「同社坐韓国伊太神社」と記され、 他の三座は出雲郡の「阿須伎神社」「出雲神社」「曾枳能夜神社」の次にそれぞれ「同社韓国伊太神社」と記されている。
「同社坐」は文字とおり右の社に合祀されているという意味にちがいないが、「同社」はただ右と同じ名の 神社という意味にすざないはずだから(『神道史学』所収拙稿「同社坐と同社について」)、このほうは当時まだ独立社 として鎮座していたことになる。それが今日ではいずれも合祀あるいは所在不明の状態となって、結局はっきり確認できるのは揖屋神社(八束郡東出雲町)・曾枳能夜神社(簸川郡斐川町)境内の二社にすぎない。 しかもこの二社も、実は中絶していたのを明治以後再興したものであるから、本当に古代以来一貫した韓国伊太神社は現存しないとすペきである。
 『延喜式』神名帳には、「韓国」の語を冠する神社が他にもう一座ある。すなわち大隅国囎唹郡の条に記す「韓国宇豆峯神社」である。 一方、「伊太」のほうは、出雲の韓国伊太神社以外にも、「伊達神社」「伊太和気命神社」「射楯兵主神社」「中臣印達神社」といった名で、 陸奥、伊豆、紀伊、播磨、丹波の五ヶ国に合計六座が記されており、出雲の韓国伊太神社を加えれば十二座に達する。 つまり「韓国」にしても「伊太」にしても、決して出雲だけの神社でなかった。 しかし集中的に多かったのは、やはり出雲であったことになる。
 韓国伊太の意味については、天保十四年(一八四三)の奥書のある千家俊信の『出雲国式社考』が、 「五十猛命を拝祭る。韓国といふ語を冠せられしよしは」として、五十猛命が韓国と往来されたという紀の一書の話を引き、「は気とかよひて五十猛と同じ」と説いている。 つまリイタテはイタケルの転で、この神が韓国と往来されたことから頭に「韓国」という語を冠するようになったというわけてある。 これに対して先年志賀剛氏は、イタテはユタテすなわち湯立であり、要するにト占の神てあって、その頭に「韓国の語を冠するのは、遠来の神に新鮮な霊力ありとした古代の信仰からくるであらう」(「『神道学』十所収「伊達神社新考」)という説を出された。
 一つの着眼点は、播磨国飾磨郡の射楯兵主神社二座の場合である。 これはその名が示すように、射楯神と兵主神とを併せ祀るものてあるが、この射楯神についてはすでに『播磨国風土記』因達里の条にその由来譚が載っている。すなわち「因達」というのは「息長帯姫命、韓国を平らげむと欲して渡り坐しし時に、御船の前に坐しし伊太之神、此の処に在しき、故、神の名に因りて里の名と為す」というもので、 ここでも「韓国」が絡んでいる。つまり「韓国を冠記しないイタテの神にも、やはり韓国がかかわっていたのである。
 射立兵主神社のいま一方の祭神である兵主神については『延喜式』に例が多く、大和・和泉・三河・近江・丹波・但馬・因幡・播磨。壱岐の各国にわたって十九社・二十一座の多きを数える。 その多くは大己貴命・素盞嗚尊・を祭神としているが、元来この「兵主」という語は古代中国に起因し、『史記』封禅書に記す天主・地主・兵主・陰主・陽主・月主・日主・四時主の八神中の一つであるとされている。 したがって、この神もまた渡来人すなわち「韓国」との関連を想定せぎるをえない。
 由来、中国・朝鮮半島の神を迎え祀る例は多く、『古事記』にも「韓神」「曽富理神」という明瞭な例がある。 つとに喜田貞吉・折口信夫・三品彰英・西田長男の諸氏が明らかにされたように、ソホリは今日の「京城」と同根のソフル、すなわち王城の意で、原義的には神霊の来臨する聖域の意味であった(西田長男『日本神道史研究』十)。 つまり、韓神はもちろん曾富理神も、やはり渡来人が将来した「今来の神」であったが、その今来の神たる韓神をつとに宮廷では園神とともに宮内省に奉斉し、園韓神祭として春秋ににこれを祭り、またその名は御神楽の曲目にもなっている。 一方、曽富理神は、さきにも触れた韓国宇豆峯神社に玉祭神として祀られている。
 こう考えると、出雲の韓国伊太神社も、やはりこの今来の神の信仰と無縁のものであるとは思えない。 つまり「韓国」はやはり韓国そのものを意味し、そしてこれを冠する伊太神の原義は、あるいは「射立」神、すなわちかの八幡神が八旒の幡によって降臨されたというように矢となって降臨された神ということではなかったか。
 出雲と韓国との交流は深い。紀の一書には素盞嗚尊・五十猛命が往来されたとあり、『出雲国風土記』には新羅の一部を引いたという国引きの話がある。 こうした話にはやはりそれなりの史的背景があったであろうし、その痕跡が神社の場合はこの韓国伊太神社であると見ることもできる。 しかしそうした彼の地との交流も、時がたち、国家の基礎が定るころになると、もっぱら北九州・瀬戸内・大和のラインを通して行 なわれるようになり、出雲はおのずからその本通りではなくなっていった。 かくして出雲における韓国系要素もやがてはその存立の基盤を失うことになる。 けだし、風土記のころにはまだすべて独立社であった伊太神社が、それから二百年後の『延喜式』のころにはその半数が合祀社となり、やがてそれも消滅していく背景には、そうした歴史的な動きがあったにちがいない。

平成祭礼データCD(神社庁)の由緒


 揖夜神社御由緒略記
謹みて按ずるに當社は
 伊弉冉命  大巳貴命
 少彦名命  事代主命
の四柱大神を齊き祀る。その御鎮座の由緒はえい沓遠にして詳悉すべからずと云へど も、既に古事記神代巻には伊賦夜坂に就いて記され、降って日本紀齊明天皇御紀五年 (紀元1319年1275年前)是歳の絛に言屋社言屋此云伊浮耶出雲風土記に伊布 夜社延喜式神名帳に揖夜神社と載せられたり、古来朝廷の御崇敬厚く、三代實録に清 和天皇の貞観九年五月二日(紀元1527年1617年前)揖屋神従五位上、同十三 年十一月十日(紀元1531年1613年前)揖屋神正五位下御神階の御事見え特に 出雲國造奉仕の神社として仄くより別火の職を定めらる。固より歴代武将の崇敬も他 に異なるものあり、天文十二年三月廿七日(紀元2203年391年前)大内義隆は 太刀神馬を進獻し、同廿四年二月廿八日(紀元2215年379年前)尼子晴久は出 東郡氷室庄の内百貫を寄進し、天正十一年十一月廿四日(紀元2243年151年前 )毛利元秋は社殿を造立し、慶長六年卯月廿六日(紀元2261年333年前)堀尾 吉晴は社領四十石を寄せ、元和元年十一月廿七日(紀元2275年319年前)同忠 晴は社殿を再建し、寛永十一年九月廿六日(紀元2294年299年前)京極忠高は 舊領を安堵し次いで社殿の修造を行ひしが、更らに松平氏に迄っては、寛永十五年十 二年六日(紀元2298年296年前)初代直政社領五十三石を定めて年中の祭事を 執行はしめ爾来歴代の藩主咸この例によれり、而して社殿の營繕は所謂御修覆社とし て同藩作事方の手に成り、御遷宮には藩主の代参立ち、又古例によりて出雲國造の奉 仕ありき。明治五年二月郷社に列し、同四十年四月廿八日勅令による神饌幣帛供進神 社の指定を受け、大正十五年十一月廿二日縣社に昇列す。

當社は意宇六社(熊野神社・神魂神社・八重垣神社・六所神社・真名井神社・揖夜神社)の一として広く知られ、六社参りと唱へ参拝者が甚だ多い。

お姿

揖夜神社拝殿

 よく整備されている荘厳な神社。揖屋の町、東の丘の麓に鎮座、本殿に向かって左が韓国伊太神社、右が三穂津姫神社である。 ペンネーム泊瀬女さんの神社参拝記に、拝殿の左右の階段を登って行けば、直接本殿や摂社の鎮座する場所に出られることが記されていた。 事前にこのような予備知識を得て神社参詣を出来るのはありがたいもの。

 拝殿前の摂社群の所にカンジョ縄が幾つか祀られている。

お祭り

大祭  例祭  十月十九日
 祈年祭 四月十九日
 新嘗祭 十一月二十五日
古傳祭 田打祭 一月三日
    田植祭 六月
穂掛祭 八月二十八日
一ツ石神幸祭 同日

韓國伊太神社
    秋季例大祭 10月19日


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