阿須賀神社(あすか)
新宮市阿須賀町



鳥居と蓬莱山





交通案内
紀勢線  天王寺→新宮 東へ徒歩10分 its-mo



祭神
事解男之命

配祀神 熊野夫須美大神、家都御子大神、熊野速玉大神

合祀神 黄泉道守命、建角美命 明治後期に合祀した宮戸社と八咫烏神社の祭神

境内社 阿須賀稲荷神社、徐福宮


徐福宮



徐福公園の像と背後の墓



由緒
 熊野川の河ロを1.3キロほど遡った西岸に、半身を水流にさらす円錐形の孤丘〈標高約40m〉がある。この南麓に鎮座。
 当地には、秦の徐福が始皇帝の命により、不老長寿の薬を求めて東海へ船出し、ここに漂着したとする伝承がある。近世、それにちなみ孤丘は「蓬莱山」と名づけられた。 古木の鬱蒼うと繁る神奈備型のこの丘は、往古は熊野川の河ロ近くに浮かぶ小島であった。
熊野灘の他には帯世国があるとの信仰がある。かっての島は、帯世国の神霊が寄りつく所と信じられていた。 徐福伝承と結びつく起源もそこにあった。
神武天皇熊野神邑顕彰碑が大正時代に建立されている。


 当社の域内には、社殿背後の蓬莱山中を含めて弥生時代から室町時代に至る遺跡があり、戦後になって、数次に渡って発掘調査が行なわれて来た。
昭和29年 境内から弥生時代の竪穴式住居跡、土師器、須恵器、祭祀用土器
昭和34年 子安石付近の洞穴から藤原時代から鎌倉時代の御正体(懸け仏)、経塚、石室 
 御正体は本地仏の大威徳明王、薬師如来、十一面観音、阿弥陀如来 等、熊野信仰に関わる諸仏。
昭和39年 本殿向かって左脇(上オンビと呼ばれる) 石組み機構、礫石、銅板御正体  鎌倉初期
昭和50年代 竪穴式住居跡、掘っ建て柱住居跡、溝状遺稿

 弥生時代は人が住んでおり、この蓬莱山と宮戸社があった熊野川に面した小丘との組み合わせで、宮戸で水葬した魂が熊野灘のかなたの常世国で再生して蓬莱山に神霊として蘇る信仰が想定されている。*1 また王子社跡があるように、後年、熊野信仰の影響を大きく受けている。
 阿須賀神社を頂点とした2等辺三角形のそれぞれの角に速玉大社と神倉神社が鎮座する。




 当社は中古、火災のために古文書、旧紀をことごとく失ったが、天仁二年(1109)に白河上皇の参詣があったという由緒にふさわしい多くの神宝を有している。 うち国宝指定のもの十五点に及び、現在すペてが国立京都博物館に保管されている。また境内発堀物は境内の新宮市立民俗資料館に保管きれている。



神社で頂いた熊野阿須賀神社について


  当社は古事記・日本書紀にしるされている熊野村、熊野神邑でありまして遠く第五代孝昭天皇御世の創立と申されます。
御承知の通り伊邪那岐伊邪那美さま熊野に参られ御生みになつた神々をお祭りし、従つて熊野は黄泉の国常世の国と読まれ初め家津美御子さまは貴袮[のぎへん]谷、結速玉はアスカの森に二宇の社、第十代崇神朝には熊野川上流の音無ノ里、結速玉には第十二代景行朝、今の新宮に遷座、当社は熊野の発祥地と云われています。(長寛勘文1162年)(熊野山略記)
阿須賀とは阿は接頭辞、祭祀生活を営む好適条件を備えた霊場とか或は浅州処と名づけられる地名で此の地方の国魂神(在来神)であつたものが、中世以後熊野隆盛なりし頃御幸日記を見ましても当社奉弊参向、三山に習合準ぜられるようになりました。(中右記1109年)今国宝の多いのをみても朝野の尊崇が察せられます。
社後の森即ち蓬莱山は、第七代孝霊朝、素人徐福始皇帝の苛政を遁れ不老不死の仙薬を採り、童男女三千を卒い五穀百工を携え東海に船を浮べ当山に参つて帰らず子孫繁昌したと伝えられる徐福之宮がございます。尚之らの歴史を裏付けるかのように近年数々の考古学的遺跡と遺物は共の痕跡を証明し中央学界の話題になりました。 平安朝の昔から上下貴賤競って不老長寿神仙境にあこがれ、霊薬ありときいて蓬莱島を捜し求めて熊野に詣でたのであります。
然して熊野路が持っ魅力は観光の魅力、山や川、岩や温泉だけの魅力ではありません。路のすみずみに遺されている歴史と宗教的なものであると申されます。産業国土開発の威によつて之らの遺産が消え去り行く中に熊野のみが持つ美しさが云い知れない魅力だと申されております。
神仙説と結ばれた秀麗な蓬莱山の容相、古典的な、たたずまい、熊野阿須賀神社は幾多の記録伝説や考古学の見地から其の古き歴史と信仰生活のあとが偲ばれる蓬山[常世]にございます。
御祭神 事解男命、家津美御子大神、夫須美大神、速玉大神
配 神 黄泉道守神 建角美神
例大祭 毎年十月十五日に行います。
社殿造営 徳川幕府歴朝の聖慮を奉体し昔時の尊厳を保持し造営維持の方法を設け、嘉永七年に将軍家定紀伊国主をして社殿の再建を成し、其の結構宏壮偉魔でしたが戦災の為悉々烏有に帰しましたが昭和五一年に銅板葺社殿が復興いたしました。
蓬莱山 史蹟飛鳥の森は古来禁足地となつていた聖域にございまして権現御創祀の神蹟、即ち最初は孤立した斉島(神の森)原始期の磐座であつて其の麓には上・下・両古代祭祀遺跡と、後世両部信仰に関係深い熊野諸尊御正体埋納所(経塚)を営み、熊野信仰の一霊所であつたことがわかるのでございます。
今に至るも蓬莱山に対する信仰には変りありません。

境内三光社 熊野三毛津神と尊称され又夫須美神の荒御魂、熊野党の母神ともいわれるなど共の創祀は並宮として更に古代にさかのぽるものと思われます。
徐福の宮 弟七代皇霊天皇の頃、秦の徐福が始皇帝の命を受けて不老長寿の神薬を求めてこの熊野に来り、蓬莱山の麓に住み、捕鯨、製紙、造船等を導き里人の敬慕するところとなり、この地に奉祀されたといわれています。
神宝(国宝)と考古遺物 神宝は古来遷宮の都度朝廷貴族より御寄進ございまして稀世の宝器、紀伊風土記に記載された神宝の数、三十三種六十九点に及んでこざいます。  今は当社伝来として国立京都博物館に保存され、此の外近年発見された数多くの弥生須恵、土師器の外、祭杷遣物を初め和鏡八点、銅板毛彫鏡七九点(藤原時代)御正体諸尊像二百数十点(鎌倉、南北朝時代)は、それぞれ御由緒深い御社歴を証するものでございます。



お姿
  蓬莱山は神奈備山の典型である。その昔には島であった。境内に竪穴式住居跡の遺跡や民俗博物館があり、生きた歴史を学べるようになっている。


本殿





お祭り
 2月 6日  神倉祭他神社と合同
10月15日  例祭  他神社と合同



*1 日本の神々6 阿須賀神社 二河良英氏

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