静火神社(しずひじんじゃ)
和歌山市和田前山855 ゼンリン

マルヤマ様から頂いた写真 山頂の鳥居



交通案内
阪和線    天王寺→和歌山 (60分820円)
貴志川線   和歌山→竈山 南10分、天霧山(薬師山)頂上、田福寺の西側


祭神
静火大神 または 火結神 または 都麻都比売神 ともされる。

マルヤマ様から頂いた写真 本殿



由緒
  式内名神大社である。かっては竈山神社 より格式は高かった時代があった。 伊達神社志磨神社 と共に紀州三所神と呼ばれ、従って五十猛命、大屋都比売命、都麻都比売命の三神を祀る三神一連の神社との説もあった。
 『住吉大社神代記』「船木等本紀」によれば、神功皇后が日皇子(応神天皇)を帯同して戻ってきた船を武内宿禰が船玉神として祀ったのを紀氏が祀ったのが紀伊三所神とされる。
 それよりも、木の国の神らしく、鎮火の神として山火事から森を護るとの謂われがあったものと考えるのも自然なことである。
 かっては現在地の東の田の中に鎮座していたが、13世紀後半には廃絶していた。1724年現社地に復興、その後、竈山神社境内に遷され、再度現地に祀られた。今は竈山神社の摂社の立場に置かれている。
 この神は「田」の中に祀るのが本来との事で、先代の竈山神社の宮司さんは「早く下へ降ろしたい。」と言っておられたそうである。 元の鎮座地付近に石碑ができたとのこと。

 神社は例え小さくてもボロボロでも、「静火神」を祀っているのであって、基本的に大神社の中の摂社や境内社であるべきではない。地元の人々の崇敬の念次第だが、できれば由緒あるこの神社は独立社として、後世に伝えてほしい。

お姿
 鎮座地の東側にこの山への登り口があり、鳥居もできている。 
 天霧山(薬師山)頂上の森にひっそりと鎮まっている。東側の田福寺からすぐである。



田福寺 真言宗別格本山
 田福寺の御住職の瀧智真さんの宗教論、歴史観には興味の尽きない味わいがある。まっとうな物の見方からの話であるが、それが今日では独特のものの見方からに見える。
 例えば、空海中国密航説である。大師の若き頃の空白の数年間、また中国へ遣唐使の時の文章、会話など語学等併せて考えると留学以前に(密航と言う言葉はふさわしくないかもしれませんが、とにかく)渡航していたと想像できるとの説である。 弘法大師は大天才ではあるが、その人柄は私達により近い人間味のある大師像が描ける。
 もうひとつの例、「神道は宗教か、人の生きる道しるべを示しているのか」との問いには、法然あるいは親鸞の教えの「ナミアグダブツ」、これは、つまり、このアミダ信仰はその時代の背景など考慮に入れる必要があると思うが、基本的には神道ののハライ、ミソギとあまりかわりはないように思う。
 また、神社の歴史は、多くは超自然的なものへの畏敬の念から生じたものと推察できるが、その後の歴史を見てみると霊鎮の神社も多い。例えば「天神」などはタタリを怖れて建立されたものである。
 日光東照宮に祭られているのは徳川家康であるが、同時に豊臣秀吉も祭られていることを鑑みれば、そのタタリを恐れてかもしれない。そう言った意味で日本の歴史は裏切りなどによる怨念の歴史と言えるかも知れません。
 この様なお話を尽きることなく聞かしていただける。是非まとめた物を発信されたい。

マルヤマ様から頂いた写 元の鎮座地にできた碑



お祭り
 例祭 4月16日

紀伊国名所図絵から

紀伊續風土記 巻之十五 名草郡 神宮郷下 和田村から


○靜火[シヅヒ]須社
      境内周百六十四間 禁殺生
  延喜式神名帳名草郡靜火神社
  本國神名帳名草郡正一位靜火大神
天霧山にあり 舊地は是より東一町半許田中字靜火といふ地にあり 今の地に遷坐の年暦詳ならす 當社大に衰癈して殆滅に至りしに享保九年(1724年) 國命ありて其ノ舊地に碑を建て靜火社舊地の五字を鐫[キサ]み又當社
方三尺五寸 を造營ありて神鏡を納ね社地示等を定めらる抑此ノ神の和田郷に鎭り坐せる事國造家舊記等に著明なり 然れとも永仁(1293年)以前既に癈絶せりといふ 國造家記曰境内に草ノ宮といふあり九月十五日草ノ宮の廰にて靜火祭といえる神事あり暦應應永(1394年〜)の神事記に見えたり若は徃古靜火大神草ノ宮へ神幸の時の祭式にて右社退轉ノ後も草ノ宮にては九月十五日の儀式はのこれるにや
祀神或ハ曰火雷[ホノイカツチ]ノ命或ハ曰火結[ホノムスヒ]ノ神又曰常州久慈郡靜[シツ]ノ神社と同神なりといふ(瀬藤注:常陸久慈の靜神社[シツ](名神大)「建葉槌命」倭文[しどり]の縮まった名と伝わる。)
皆神名の文字によりて説をなす 他に稽據なし 按するに古記の國字に書せしはしちゐ或ハシツヰと書けり是古稱なり 是に據るに靜火は地名と思はる 此より東南二十町許に朝日村
五箇荘あり 阿左韋[アサヰ]と稱ふ 靜火は此に對せる名にて志豆韋[シツヰ]と稱ふへし 朝日村より和田村まて平野の中に溝渠を穿ちて南北二所に樋あり 樋地中に入る事淺く露[アラハル]を以て淺樋といふ文字を朝日と書て村名とす 樋地中に在を以て下樋[シツヒ]とするならん 應永(1394年〜)検注帳に樋免[ヒメン]といひ樋ノ提數[ジキ]なといふものあり 今も此邊溝渠を穿ち樋を作る所多し 古の形状[サマ]思ひ合すへし 然して此神伊達[イタテ]志摩[シマ]二神と合せて紀三所ノ神と名く 承和(834年〜)以後位階を授けられるゝことあるに必三神相連る 位階を授けらるゝ事貴志荘園部村伊達神社の條に載せたれは此に贅せす 是を以て考ふるに伊達[イタテ]を一ノ宮とし志摩[シマ]を二ノ宮とし靜火[シツヒ]を三ノ宮とすと見えたり
祀神都摩都比賣ノ命なるへし或は大屋津姫ならんか猶詳に神社考定ノ部に辨す

古代史街道 貴志川線編
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