竈山神社(かまやま)
和歌山市和田438 its-mo

鳥居

大阪からの案内
阪和線 天王寺→和歌山(60分830円)
和歌山電鐵 貴志川線 和歌山→竈山 ( 8分220円)
竈山下車南へ10分歩く。途中川沿いに大きい鳥居がある。



祭神

御祭神
本殿  彦五瀬命

左脇殿 神日本磐余彦命、御毛入沼命、稲飯命(弟の命達)
右脇殿 高倉下命、可美眞手命、天日方奇日方命、天種子命、天富命、道臣命、大久米命、椎根津彦命、頭八咫烏命 神武東征に功ありと伝えられている命七柱


合祀神社 宇賀廼御魂命、彦五瀬命 合 名草彦命、名草姫命 ほか
末社第一殿 高皇産靈命、神皇産靈命、天兒屋根命
末社第二殿 息長足姫命

境外摂社 静火神社 火結神 本来のこの地の神とされる。
境外摂社 青葉神社

由来その1天孫降臨

 天照大神と高木の神が「今、葦原の中つ国の平定は終わった。申しつけた様に降りていってお治めるがよい」と天照大神の太子天の忍穂耳に申された。
 そこで忍穂耳の命が申されるのに、「支度をしている間に子が生まれましたので、その子邇邇芸の命を降ろしたいと思います。」と申された。 このような訳で、邇邇芸の命に「この葦原の水穂の国はあなたの治べき国であると命令する。よって降りなさい。」と仰せられた。天孫降臨の神話である。

 生まれたての子を降臨させる話は応神天皇を連想させるが、これは別にして、日本書記ではこの神話が「宝祚(あまつひつぎ)の栄えることは、天地とともに窮りないであろう。」と天照大神が申されたことになっている。 天譲無窮の言い伝えである。持統天皇の思いと言うか藤原不比等の思惑が伝わってくる。

本殿



由来その2神武東遷と五瀬の命の非業の死


 邇邇芸の命と木の花の佐久夜比売との子が海幸彦、山幸彦。山幸彦の子が鵜葺草葺不合の命、その長男に五瀬の命、四男に神倭伊波礼毘古がおられた。
 二柱の命は天下を泰平にするためにもっと東の方に行こうと相談され、日向の国をお出になって、瀬戸内をたどり、難波の湾を経て河内に至り、ここで大和の登美の那賀須泥毘古の軍と戦い、五瀬の命が負傷 された。
 迂回作戦で軍は南に転戦し、紀の国の男の水門に至り、ここで五瀬の命の傷が悪化され、「賤しい奴のために手傷を負って死ぬのは残念」と言われて崩御された。

異説はあるが、竈山神社の背後の古墳が御陵とされている。

御陵



なぜ皇兄の墓がここに?

一方、五瀬命の墓は東西100m、南北200m、守戸3軒と記載されており、これに匹敵する古墳は名草郡では井辺(いんべ)八幡山古墳を大きさと出土品が隼人と関連することから候補にあげる人もいる。*1

 吉野は大和の王権の聖地である。ここの制圧は、権力奪取作戦の真珠湾である。皇軍は紀ノ川をさかのぼり吉野へ進入したのではないかとの説が地元にはある。 それは熊野に迂回し、かつそこで必要もないのに船に乗り、別の皇兄を死なせるような事を起こす事は考えにくく、かつ吉野まで果無山脈の峻険な山道を越していくはずがないとの観点からである。
 一方、南九州の神武天皇と熊野とは同族的連帯観があり、熊野の衆の後押しを受けて吉野を襲ったとの見方もある。
 いずれにしても、大和で権力機構を維持するのには、紀の川の水運の重要性から見て、紀の国の協力は必須である。 その証として、五瀬命の墓を名草の地に残したのもとも推測できるが、平安時代になるとそれが薄れるので、式内大社に列していない。 また、神武天皇が大和で権力を確立したのなら、五瀬命の墓は本来は大和へ遷すべきなのであろう。



たたずまい

 お社は立派である。五瀬命の古墳とされている森は大きく深い。境内東には幼稚園、西側には運動場がある。近所の子供たちが野球の練習場に使っている。 練習前に拝殿前に整列し、挨拶をしていたのがほほえましい。

七五三で賑わう拝殿





お祭り

 
6月30日 夏越大祓式(茅ノ輪くぐり)
10月13日 例祭(秋祭)


紀伊国名所図絵から





紀伊續風土記 巻之十五 名草郡 神宮郷下 和田村から


○竃山[カマヤマ]神社  境内 
東西一町半餘 南北二町  禁殺生
  本 社  祀神彦五瀬尊
   廳         御祈祷所
   瑞 籬       鳥 居
  延喜式神名帳名草郡竃山神社
  本國神名帳名草郡従四位上竃山神
○竃山墓
  延喜 諸陵寮式 竃山墓彦五瀬命在紀伊國名草郡一兆    
稲飯野命 三毛入野命社   天児屋根命 結  神社  
南和田の西二町許にあり 自然の岩山にて樹木鬱蒼たり 古事記二本紀に載する所彦五瀬命を葬り奉りし地にて直に其所に御社を建て斎祭れり故に竃山の墓といひ又竃山神社といふ 其實は一所なり 寛文九[1,669]年區域を定め殺生を禁せらる 古の兆域は式に見えたり 今の兆域周二百間餘 平坦なる處はいつとなくて田畠となりて區域狭りしなり 朝野群載諸陵寮康和二[1,100]年觧を閲るに中世以降守戸の制衰廢して兆域垣溝修造する者なく樹を伐り地を侵すもの多く出来りしと見ゆ
ー注は略すー
然れとも天正の頃[1,573-]mて神田猶八町八段有しに
ー注は略すー天正十三[1,585]年皆没収せらる 今社地の近邊御陵田[ゴレウタ]といへる田四町餘あり 即古の神田ならん 又五所工田といへる田あり 國造舊記に五節供田と書す 古竃山神社を五節供に祭る料の田なるへし 或説に陵墓の上に直に御社を建て其神を斎き奉ること他に見及はす 陵墓或は近き邊にあるならんといへり 河内國志紀郡長野山 應神天皇の陵あり 欽明天皇二十年御陵の前に始て八幡三所の神社を御創立あり 誉田八幡宮是なり 此等の制と合はさるを以て疑をなすなり 按するに上古此地入海なりし故 神武天皇雄水門より御船にて直に此所に至り給ふ 今の如く平野の出来りしはいと後の世の事なれば近き邊りに外に求むへき地なし 今御墓と神社と同所に混したる様なるはやヽ後に神社を同所へうつしなとしてかくの如くなれるにて陵墓は則元来の處なるへくおほゆ 竃山は國造舊記釜山と書す 古は毎年正月初午竃山より天霧山へ神輿渡御あり 今は絶えたり 後其神幸所に静火[シヅヰ]神を遷す 村中七瀬祓所あり 一曰幸ノ神竃山の寅ノ方にあり 古の鳥居跡といす 二曰天霧山 三曰大井村の東にあり 四曰化野村の乾にあり 五曰辻野天霧山にあり 六曰羽多村の西にあり 七曰神佐村の北にあり 各表岩あり
○末社舊は若宮大国主命伊弉諾尊伊弉册尊天照太神椎根津彦等の社あり 國造家寛永記に見ゆ 今社廢して本社に合祭す
○神主鵜飼氏奕世當社に承仕す 永徳元[1,381]年國造家より神職を補任する案今國造家に残れり

ー古事記、日本紀、万葉集のこの五瀬命、竃山神社についての記事は略すー

『平成祭礼データ』竃山神社
参拝のしおり 御由緒


 御祭神の彦五瀬命は大一代神武天皇の皇兄に坐し、大和平定の途中、孔舎衛坂で長髄彦の軍と戦い、流れ矢に当たり給いて戦傷、雄水門に至りて遂に崩御遊ばされ、竃山の地に葬られ給う。
 今の社地は即ちその遺跡で、延喜式の神名帳に「紀伊国名草郡、竃山神社」と記され、古くから官幣に与る皇室御崇敬の大社であり、天正年間まで社領八町八段を有したと伝えられている。 往古は社殿も宏大にして現社地遥か東南山麓に鎮座し給うたが、戦乱の世を経て社頭衰微し、徳川氏の入国後、社殿を再興した。
 明治十八年官幣中社に列せられ、大正四年官幣大社に昇格、昭和十三年には国費及び崇敬者の献資を以って社殿を造営し、境内を拡張して現在に至っている。
 寛政六年冬、国学者 本居宣長はこの社に詣でて、
をたけびの かみよのみこゑ 
おもほへて あらしはげしき  
かまやまのまつ、
と詠んだが、竃山の岩根に鎮ります神霊は、日本の国の行手を永久に護り給い、導き給うことと拝し奉る。
以上



*1 日本神話の考古学(森浩一)朝日新聞社
*2 日本の中の朝鮮文化(金達寿)講談社文庫[泉佐野市の文化財」から


関連する神社
境外摂社 静火神社     本来の竈山の地の神、山の鎮火の神
志摩神社  市杵島姫命    伊達神社 、静火神社をあわせ、紀州三所神と呼ばれた。
水門・吹上(みなとふきあげ)神社   蛭子神、大己貴神 (雄橋南400m) 五瀬命御崩御の旧跡との説あり 。
日根(ひね)神社    鵜茅葺不合尊・玉依り姫命(南海泉佐野バス犬鳴山行東上)
一説には古くに移住してきた新羅国王の億斯富使主(おしふのおみ)を祀った 。*2
男(おの)神社    彦五十瀬命・神武天皇(南海樽井駅南2Km)

古代史街道貴志川線
神武東征の地を歩く
神奈備にようこそ