『紀伊続風土記』 在田郡 宮原荘 道村 から
○八幡宮 境内周十町余 禁殺生
本社 拝殿 廳 御供所
神輿舎 鳥居
末社六社
若宮 高良社 飛鳥社 熊野権現社 稲荷社 水主社
村の東にあり 宮原荘六箇村の産土神なり 本社は 誉田天皇 気長足姫尊 比売大神 を祀る 縁起の畧に当宮八幡大神者
嵯峨天草ノ御宇弘仁七年(816)丙申之歳有草創至歴載経月之久世之治乱相遷物之興廃互変是以宮殿之祭祀之儀亦頗異乎草創之時矣於是至 後宇多帝御宇弘安七年(1284)甲申廻舊興廃面宮殿再新祭奠粛厥后積星霜而嘉吉元年(1441)源常久永十三源順家天文十五萬徳丸源某等尊崇尤深敬仰甚厚乃致修理之力一是以宮社諸殿復無廃闕之忠神領社地再無侵竊禍当宮事跡之詳神社記神宝記年中行事当宮当郷地理之図等各記之無遺漏今似神主藤原政淑之有請拾舊紀之所載以備後鑑者也維昔永録五年(1562)壬戌九月艮辰とあり此縁起并舊記等豊太閤の時没収せられせられ縁起は古き写を伝へたり 叉永正十三年 天文元年 慶弔十三年の棟札あり 八幡宮の額は天和二年右大将定誠の書なり 古は社頭三町ありしに天正中没収せらる 此社舊は両部にして別当もありしならん 今は唯一にして神主宮本氏社家七人あり 古より九月十四日を祭日とす 御旅所南村にあり 正保中?(樗のつくり)祭(雨乞い)して感応ありし事を記載せる文あり 其文に弘安七年 継絶興廃当此時法燈国師再開眼焉すといふ文あり
○山口王子社 境内周三百七十六間
村の北蕪坂の麓にあり 九十九王子の一にて御幸記に見えたり
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