青草掲示板ログ平十八年 四月 2006.5
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草掲示板

[2154] Re[2153][2151]: 三井寺と韓国神?  nick [Url] 2006/05/31(Wed) 22:53 [Reply]
早速のご教示ありがとうございます。

> これですね。
> http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/index.htm

どうも失礼しました。リンクを忘れていました。

> 三井寺を創建した智証大師がお世話になったので祀ったとされています。
> 参考にしてください
> http://kamnavi.jp/it/kinki/onjou.htm

>後に源頼義の新羅明神への祈願から、源氏と園城寺の深い関係ができた。

そうすると「八幡神」ということになるのでしょうか?

[2153] Re[2151]: 三井寺と韓国神?  神奈備 2006/05/31(Wed) 21:01 [Reply]
> 琵琶湖にある天台寺門宗の総本山である三井寺
> のサイトの連載で「新羅神社考」なるシリーズが
> あるようです。

これですね。
http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/index.htm

三井寺を創建した智証大師がお世話になったので祀ったとされています。
参考にしてください
http://kamnavi.jp/it/kinki/onjou.htm

[2152] Re[2150][2149]: 無題 ガジマル  nick [Url] 2006/05/31(Wed) 20:07 [Reply]
隼人が出たついでに参加。

飼い犬としてはここが現在の所最古です。

柊原貝塚 kunugibaru 貝塚 垂水市 3500前 縄文後期 縄文犬
http://www.city.tarumizu.kagoshima.jp/kirara-net/about/bunka/maizou/kunugi/kunugi.htm
http://www.jomon-no-mori.jp/japanese/index.asp

[2151] 三井寺と韓国神?  nick [Url] 2006/05/31(Wed) 19:15 [Reply]
琵琶湖にある天台寺門宗の総本山である三井寺
のサイトの連載で「新羅神社考」なるシリーズが
あるようです。

この古刹は、韓国神と所縁があるのでしょうか。

[2150] Re[2149]: 無題 ガジマル  神奈備 2006/05/31(Wed) 17:34 [Reply]
ガジマルさん、こんにちは。
一体何をお尋ねなのかよく分かりませんが、人間と犬との関わりは他のどの動物よりも早く友人となったそうです。

> 犬飼部は番犬で商売をする族なのか?。

犬飼は鉱山師のことと云われていますが、一方では宮や倉庫の番をさせるのにも犬を使ったと云われています。
隼人は宮の番をして、犬のような声を出したと云いますが、このことが隼人の犬祖伝説とどうつながっているのかは興味のあるところです。


[2149] 無題  ガジマル 2006/05/31(Wed) 10:29 [Reply]
犬のことが書いてあるのでちょっと書き込みたくなりました。これまでの流れを、わかりたいのだが内容が詳しすぎるので、飛ばし読みできた者ですから、とんちんかんであったらお許しください。
犬 に思いを深くし、トーテムにする部族がいた。この場合ペット番犬といった以上の何かがあったから犬族と言われたのだろう。犬飼部は番犬で商売をする族なの か?。狩をするのに犬を使うのなら生活に密着しています。猪狩に利用することは聞いた。愛情をかければ、訓練の仕方いかんによってはふさわしい対応をして くれるのが犬だ。麻薬犬もいるように嗅覚にほれ込んだのなら、狩人の誉は仲間から犬のような人といわれることでしょう。犬と交わってできた人はここからき ているのか?「聖」となると視点は違う。中国の少数民族のヤオ族の話は沖縄本島の読谷の民話にもある。強敵の大将の首を犬がくわえてきたので、王の娘を犬 に嫁がせるという話である。子供ができるらしい。犬を崇めて女が犬祖を産む。敵将の首は天の判断があったから犬が首をもってきたとすると聖なる犬なので聖 と交わる女の話である。この話と勾玉がどうつながるのかという興味があった。宮古、与那国にも犬と女の話があるので南中国の犬としておきたい。吟遊詩人、 三味線の赤犬子「アカインク」の名前も犬の字をつかっている。大にチョンと右上に書く形は何を意味しているのか?
犬、狗 ケン、ク と倭のイン、イヌ ミカソと犬?誰か教えていただきたい。


[2148] Re[2146]: Re[2145] 狩場明神  かまど  神奈備 2006/05/30(Tue) 20:09 [Reply]
> 過去に私は類型伝説でない妙にリアルな神功皇后伝説を梶ヶ島住吉神社の板切れに書いただけの由来を見つけなんじゃこりゃとおもったんですが。。。

尼崎市梶ケ島の住吉神社は ↓
http://kamnavi.jp/en/settu/amasumi.htm


> 住吉大社と田村麿の末裔が関係あるの御存じ?これにも新羅神が関係するんだなあ。。。。

 住吉大社の神宮寺は新羅寺だったそうですが、田村麿さんとの関係ですか、清水寺に話がとぶわけではないでしょうが、よくわかりませんね。
 ひとつ解説をしてやってくださいな。

[2147] Re[2146]: Re[2145] 狩場明神  かまど  かまど [Url] 2006/05/28(Sun) 02:16 [Reply]
MADOKA様

> かまどさんの説をとりいれれば、狩り場明神とされる族(豊田丸?犬飼?)が本来祭っていた地霊?祖霊?が高野明神では? 

私 は、狩場明神は丹生都比売神社の総神主職であった丹生家信説を支持しています。丹生氏の家系図で書かれていることは、空海が高野山に狩場明神を祭ったかど うかは不明ですが、丹生家信が亡くなった時、空海が彼を狩場明神と名づけられたとされています。このあたりは高野山の日野西真定先生の論文や大正時代の田 中法寿先生の論文に引用されています。これをいつ高野に祭られている高野明神に結び付けられたのか、何故結びつけたのかは分かりません。しかし、高野明神 =狩場明神として今は祭られています。確かに、丹生家信も死ねば高野に骨のぼりして祖霊になりますから、高野明神に含まれる事にはなるのですが・・・。
丹生家信=狩場明神=高野明神を連想させる事象はいくつかあります。二つ鳥居であったり、かつらぎ修験の葛城回峰行のコースであったり、高野山における明神法楽のための問答がそれです。
な ら丹生がどうして犬飼の神なの?と思われるでしょう。それは丹生氏の古文書で、紀氏とともに天皇に犬を献上したとか、丹生家信が犬山師(犬山とは犬を使っ て狩をする事)であると書かれている事。また紀氏古文書には紀氏が国造に新任され、それを受けるため都に上り、その帰りに、丹生氏の住んでいる丹生酒殿神 社に丹生氏同席で白犬を供える事が慣例であったと書かれている事です。そんな様に丹生氏は犬と関係が深いのです。
そして、丹生家信を通して丹生氏が鉱山師であった事が見えてきます。例えば、家信が丹治氏よりの養子で、丹治氏は秩父(銅山で有名)と関係の深い氏族です。また、狩場明神の狩場とは狩猟の意味もありますが、銅山を表します。他にもそれにつながるものがいくつかあります。

しかし、これらはそうかなと思わせるものとして考えられても、丹生家信が狩場明神であったと言う確実な証拠にはなりません。なぜなら、空海がそう書いてないからです。ですから、坂上豊田麿も狩場明神の可能性もあるわけですし、他の説も今後出てくるかも知れません。


>高野て本来どう言う意味なんでしょね?考えたことなかったけど。。。。
色んな説はあると思うのですが、私が知っているのは、
@もともと姑射山という山があって空海が高野と名づけた。
A高天野原から「高野」と「天野」と言う地名ができた。
ってところでしょうか。空海が高野と名づけたのか、もともと高野と言う名があったのかは永遠に分からないでしょうね。


> 神野々と言う地名。廃寺跡。空海の水。でここはかなりの豪族が支配したであろうと思い。由来にも信ぴょう性を感じたわけです。
橋本市には空海の時代よりもっと前からかなりな豪族がいます。それは坂上氏です。坂上苅田麿から田村麿、豊田丸が出てきたわけです。
900 年代には坂上氏は更に勢力を伸ばし、丹生都姫神社あたりにも住むようになります。そして、丹生都姫神社の氏長者(資金源)となり、神馬役として社人の中に 入ってきます。しかし、1200年代に、東寺、高野山(仁和寺荘園)、仁和寺(真言宗本山)、坂上氏の四者が争いを起こし、天野から追放されます。
しかし、坂上氏が追放されたと言っても、坂上氏の本体が追放されただけです。ご存知武士はたくさんの子孫を作って家を増やして行きますので、本体以外にも坂上氏はたくさんいましたので、そのまま残った坂上氏もいました。
このように、古くから坂上氏は橋本市を本拠とし、伊都まで勢力を伸ばし大武士団を形成していたのです。ですから橋本市には、かなりな豪族どころか、坂上田村麿をも輩出した超有名な豪族がいたのです。


> 高野山の古代風習に目をつけたのは鋭い!
いえいえ、私がこう思ったのも日野西先生の文書に書いてあるからで、日野西先生を筆頭にいろいろな人が気づかれていると思います。
前述した話も、もともとあった事実に対し、日野西先生、五来先生、若尾先生などの書物から、それらをつなぎ合わせただけで、いづれどなたかが書かれるでしょう。


> >7月9日 13:30〜16:30 和歌山県立図書館
>  テーマは「補陀落浄土を目指した人々」講師は松原右樹さんで、熊野古道や和歌山の伝承では第一人者の方です。神奈備掲示板(7473)参照
> かまどさん是非いってください!
一 度講演聴いてみたいですよね。平成14年に県立図書館で「天野の民俗伝承」の講演があったのですが、その時の資料を見たことがあります。資料の内容は若尾 先生などの文献からの抜粋でそこにはオリジナルティはなかったのでやや残念に感じた記憶はありますが、講演ではそこから他に発展したオリジナルの見解がな かったのだろうかという思いもあり聞いてみたかったなあと思いました。
なかなか和歌山に行く機会がないので、遠い事もあり難しそうです。


>私の名前をだしてもらってかまいませんよく御存じです。お茶でも御一緒すれば全開!まあ私も行くつもりですが。。
そんなに親しいのですか!私はなかなか有名な先生方と直接お話した事がないので、すごいなあと感じています。
それとご好意ありがとうございます。
た だ、今の私の立場上、私が話すると、いろいろな所にご迷惑がかかる事も考えられ、また私にも困ったことがおきてくる事もあるので、あと2〜3年は研究者の 方とはお会いしたくないと言うのが実情です。しばらくは静かに講演という形でお話を聞きたいと思っています。急がずとも御縁があればお会いする事があるの ではと思っています。
余談ですが、多分松原先生は私のハンドルネームを聞かれたら興味を示すと思いますよ。

ちなみに、講演の資料の感じでは松原先生は確か狩場明神=丹生氏説を支持されていたと記憶しています。

あっ、そうそう、高野山が姑射山からって話も松原先生は知っていると思いますよ。聞いてみてはいかがでしょうか。

>松原右樹
しかし、「右樹」で「まれき」って誰も読めないですよね。今度お会いしたときにこの名前の由来聞いてみて下さい。よろしくお願いします。


追伸  ブログのアドレス入れときました。狩場明神の物語連載中なのでもしご興味があれば覗いて見て下さい。

[2146] Re[2145] 狩場明神  かまど      MADOKA 2006/05/27(Sat) 22:59 [Reply]
KAMADO(かまど)さん
>ゆの里をご存知とは地元の方ですか?

いーえ 橋本は先祖の地で墓があるんで、年4回ゆの里の宿泊施設『このの』が常宿。道の向うが光三宝荒神。土地感はまったくないんです。
お湯もいいし、食事もおいしいし。リーズナブルなんでお勧めなんですが。。難をいえば。。リラクゼーション効果が高いんでこの場所から動きたくなくなる。それで調査が進まない(笑)

>空海が来る以前、高野山に死者のつめや遺髪を葬る風習があったことが伺えます。つまり高野山はもともとこの地域の人々の祖霊が眠る場所だったようです。

露天風呂や食事をしながらみると。確かにこの地の祖霊の山というのうは頷ける。
かまどさんの説をとりいれれば、狩り場明神とされる族(豊田丸?犬飼?)が本来祭っていた地霊?祖霊?が高野明神では? 高野て本来どう言う意味なんでしょね?考えたことなかったけど。。。。

>神野野にあった寺院を高野山にもって言ったという話は、光三宝荒神社の由緒書きで見ましたが、

人 的援助というのはこのことです。皆さん由来書は検索されるだろうと自分の言葉でかいたのですが少々筆が走った感じですね。私は光三宝荒神の由来と萩原弘道 著『空海の水』でしか情報はありません。狩り場明神。丹生都姫。に関しては私は情報不足。逆に情報が欲しくて投稿したんです。。。
場所は離れていますが、橋本駅の裏。紀の国風土紀の丘にある護国神社の古墳が県下最大の古墳とあり
(ほんと?)また先祖の墓もここなんで、墓参りの度にここは。古代人の集落地には絶好の場所だなあと。
神野々と言う地名。廃寺跡。空海の水。でここはかなりの豪族が支配したであろうと思い。由来にも信ぴょう性を感じたわけです。
調 査不足はいなめませんが、過去に私は類型伝説でない妙にリアルな神功皇后伝説を梶ヶ島住吉神社の板切れに書いただけの由来を見つけなんじゃこりゃとおもっ たんですが。。。調査を進めるうち神功皇后は伝説でなく実在にいきついたので。こういう類型のないリアルな伝説は大事にしているのです。

>昭和か大正?の時代に、巫女か何かに坂上田村麿が神がかりして、「この地は狩場明神の領地である」とかなんとか言ったってやつですか?これも根拠としてはどうかと思うんですよね。

おっしやるとおり!!私もまるっぽ信じているわけではないんですが。。坂上田村麿の系図と豊田丸の系図をたどると一致するか関係性がでる可能性はある
坂上田村麿というのは実在の人物ですがなにかある人ではある。。。由来に結構でてくる人なんだなあ
住吉大社と田村麿の末裔が関係あるの御存じ?これにも新羅神が関係するんだなあ。。。。
(年代が新しい奇瑞も古い奇瑞も同時代の人にとってはこんなかんじでないかい?)
私 はもともと 伝承?奇瑞?へん!意味なし!祭神?書き換え!と否定派だったんですが、違う角度から調べると現祭神と前祭神が同じ族か関連性があったり、必 死でしらべあげて、ふと伝承や奇瑞を読み返すとそのとおりのことが書いてある!ガーン!こんときのショックはでかい!(私はこの時、古代人の笑い声を聞 く)こういう手痛い目に数々あって、研究テーマが文献の乏しい古代祭祀のため、伝承。奇瑞は丸っぽ信じはしないが。検索ワードデータとしては残しておく姿 勢をとっている。安易に否定するのはたやすいことですが。本来伝承を否定するには立証する以上の論証がないとできないとかんがえます。
かまどさん説の狩り場明神に期待
高野山の古代風習に目をつけたのは鋭い!

>7月9日 13:30〜16:30 和歌山県立図書館
 テーマは「補陀落浄土を目指した人々」講師は松原右樹さんで、熊野古道や和歌山の伝承では第一人者の方です。神奈備掲示板(7473)参照
か まどさん是非いってください!松原さんは右や左の思想性はなく熱血国語教師でフィールドワークが凄い。新幹線で講演を聞きにくる人も。それだけの価値はあ る。生で聞かないと報道規制に引っ掛かるんで。。でもこの報道規制に引っ掛かる話を抜きにして熊野信仰は成り立たない。私の名前をだしてもらってかまいま せんよく御存じです。お茶でも御一緒すれば全開!まあ私も行くつもりですが。。ちなみに前日の7/8は私の誕生日ですーーまってるわ!(なにを?! WARAI)

[2145] 狩場明神  かまど 2006/05/27(Sat) 10:49 [Reply]
MADOKA様

MADOKA様とはなんか親近感がありますね。単純にMADOKA様の並びを帰るとKAMADOとなるからだけなんですけど。

>ゆの里
ゆの里をご存知とは地元の方ですか?

根本的な話になってあまりよくないのですが、狩場明神って名前が出てくる古文書ってあるんでしょうか?確かに高野山では高野明神=狩場明神と見ているようですが、よくよく考えると江戸時代前の古文書では見かけたことがないような・・・。

た だ、高野山の行事などを調べていくと、高野明神=狩場明神の形跡はみられますが。つまり一般的には高野明神であり、狩場明神は地元の人々が語りついで来た 名前の可能性があるのやも知れません。ただ1700年ごろの古文書には「大師以後」とありますので、大師以後ではないとしても1700年以前より人々は狩 場明神と言う名を知っていた事が伺えます。

個人的には高野明神と狩場明神は別々の神であると見ています。
どういうことかといいま すと、熊野、吉野、高野という紀伊半島には骨のぼりと言う風習があります。この話は世界遺産になったおりNHKの番組の熊野の所で説明があったのでご存知 の方もおられるかも知れませんね。空海が来る以前、高野山に死者のつめや遺髪を葬る風習があったことが伺えます。つまり高野山はもともとこの地域の人々の 祖霊が眠る場所だったようです。空海はここに寺院を立てようとしたわけですから、地元の協力なしには成り立たない大事業を成り立たせるためには、ここに、 地元の人が祭った丹生都姫と地元の人々の先祖の霊を祭って地鎮し、地元の人々の怒りを取り除く必要があったと思うんです。そうして祭られたのが高野明神だ と私は思っています。

高野明神=狩場明神につながる根拠については、狩場明神が丹生氏であれば簡単に説明は付くのですが、坂上氏となると紀ノ川北部で昔にそう言った風習があったかが分からないのでここでは議論はやめときます。

[2144] Re[2139][2138]: 厳島神社と大火?  かまど 2006/05/27(Sat) 08:53 [Reply]
>神道の墓を奥津城と言います。そこの守護神と言う意味はないのかな。火葬がもっぱらになった後でも。

う ちはの家は明治時代まで神主でした。江戸時代までは墓はありません。うちの地域は独特なのでないのかもと思っています。江戸時代後期ごろから墓があります が、普通の仏教の墓です(神職でも当時は死ぬと仏葬の時代が一時期あったのかも知れません。神奈備さんところで昔にそんなような話を聞いたことがあるのを 思い出しました)。明治時代に一人だけ神葬しておりますが、この人の墓石は先が四角錐で「○○命」となっています。

すいません、ちょっと脱線してしまいました。

[2143] Re[2142]百済神&天道日女  神奈備 2006/05/27(Sat) 08:51 [Reply]
> 当初、『蕃神』とか『他国神』といわれたもの、な〜んだ?

仏像だろうね。

>> バナナのとれる南方系のにおいを感じますので、百済かいなと思いますが・・・
> 百済神は南方系なんですか??
> 初耳でよく意味がわからないんですが???
大山積神は百済からやってきたと『風土記』にありますが、その娘達−岩長姫と木花咲耶姫−は石とバナナのお話、長寿と短命、これにつながっているので、大山積は南方系の人々が持ち込んだ神ではと言う意味で、百済から来たとの説が怪しいのではと言うことです。

> (天道根命=天日槍=饒速日尊=天稚彦が成り立つのか)
大三元さんの
http://www.dai3gen.net/hahaya.htm
http://www.dai3gen.net/tango.htm
をご参考にして下さい。

[2142] Re百済神&天道日女      MADOKA 2006/05/27(Sat) 00:51 [Reply]
恋川亭さん
>?・・・百済神って、あるよ!?
あんまり有名すぎて、あたりまえすぎて、気づかないのかも。
Q:なぞなぞ
  当初、『蕃神』とか『他国神』といわれたもの、な〜んだ?

百済神はスサノオ でしょう! 代表的なものだとおもってるんですが。。。このルーツが新羅とかいうからややこしいんだなあ。。。。。。。。。

A:キリスト教のことでないか?
  樋口一葉は ヤソ法華 ていってますがねえ

神奈備さん
>バナナのとれる南方系のにおいを感じますので、百済かいなと思いますが・・・

 百済神は南方系なんですか??
 初耳でよく意味がわからないんですが???

> 「百済神はあまり聞かない」とは新羅神以外の神は、ひょっとしたら天津神御一統は百済神かも知れません。

 すげー発想ですねえ
 いやーーーこれは考えたことなかったです

> ややこしいことですが、日桙=天道根命と言っているように聞こえます。そうしますと、天道日女は天道根命の奥さんかも。(天道根命=天日槍=饒速日尊=天稚彦が成り立つのか)

こう言う答えがくるとは予想だにできなかった
天道日女は私の記憶では先代旧事本記で。
ニギハヤヒの正妻であったとおもいますが。。
で私は天道日女は海神族の血を継ぐ姫で出身は対馬と思っている(論証できず)
が。。。。 >(天道根命=天日槍=饒速日尊=天稚彦が成り立つのか)を補てんすることになるのか??
んーーーーーーーーー私は人物のイコール説は嫌いなんですがーーー確かにこのあたりは妙にリンクすることが多いーーーしかしーーんーーわからんーー!

かまどさん&nickさん レスは今書いてます(あとで)

[2141] Re[2139][2138]: 厳島神社と大火?  はりまのわたつみ 2006/05/27(Sat) 00:35 [Reply]
>  神道の墓を奥津城と言います。そこの守護神と言う意味はないのかな。火葬がもっぱらになった後でも。
             ***

私の5代前の女性の墓石には「〜の奥津城」と書いてあります。
彼女は神道の司祭でした。

[2140] Re[2139][2138]: 厳島神社と大火?  かまど 2006/05/26(Fri) 22:00 [Reply]
>  丹生都姫ゆかりの丹生酒殿神社の近くに竈門屋敷があり、竈門神社が祀られています。

丹生総神主家が祭る竃門神社は、丹生都姫がこの三谷や天野の地に来る前の地主の神である奥津彦奥津姫を祭っています。もともとは大伴氏の祭るところであったようですが、丹生氏が大伴氏を養子として家を継がせたことにより、丹生氏の祭るところとなったものです。

>由緒では、「狩場明神誕生の地なり 明神誕生の時此神産湯を暖め奉りし故」に竈門明神といふとありますが、

この由緒は、狩場明神が丹生総神主家の丹生家信であったと仮定して、その当時(空海の時代)実家で子供を生むと言う風習があったのであれば、可能性としてはありますが、私は単純に、地主の神がかまどの神様だったから竃門明神と言うのだと思っています。

>丹生都姫神社の神主就任の儀式をここで行うようです。
さみしいですが、今はもうないです。


>火災予防の神としてお祭りしたのかも知れません。
かまど田なるものがあって、ここは火事が起こらないって言う伝承も存在しますから、もしかしたら、かまどの神様にそのようなご利益があったのかも知れませんね。



[2139] Re[2138]: 厳島神社と大火?  神奈備 2006/05/26(Fri) 19:18 [Reply]
> 「厳島神社」で祭祀されているではありませんか。
> 推察するに、多分、昔大火があったのか
> あるいは社殿が焼失したやもしれません。

 おっしゃる通り安芸一宮厳島神社に鎮座する多くの祭神の中に興津彦神 興津姫神の名が出てきます。神社焼失の火災も幾度となくあったようで、火災予防の神としてお祭りしたのかも知れません。
 
 丹生都姫ゆかりの丹生酒殿神社の近くに竈門屋敷があり、竈門神社が祀られています。由緒では、「狩場明神誕生の地なり 明神誕生の時此神産湯を暖め奉りし故」に竈門明神といふとありますが、丹生都姫神社の神主就任の儀式をここで行うようです。

 丹沙から水銀を取り出すのは、壺に丹沙を入れて熱し、蒸発してくる気体を冷やして水銀を取り出すようで、竃との関わりは深かったようです。

 神道の墓を奥津城と言います。そこの守護神と言う意味はないのかな。火葬がもっぱらになった後でも。

[2138] 厳島神社と大火?  nick [Url] 2006/05/26(Fri) 10:17 [Reply]
当地の大御所に云われて
また「止上神社」の調査を再開しました。
そこで現存する古文書を眺めていましたら
「興津彦神 興津姫神」が出てきたので
検索したら、何とここに辿りつきました。

「厳島神社」で祭祀されているではありませんか。

『古事記』によると、
奥津日子神(おきつひこのかみ)と
奥津比売命(おきつひめのみこと)の両神が、
「諸人の以ち拝く竈(かまど)の神」とあり、
以来竈神、荒神、火の神として信仰を集めた

「興津彦神 興津姫神」の大神は「かぐつちの神」
この上止神社では「釜」の守として祭祀した様です。

推察するに、多分、昔大火があったのか
あるいは社殿が焼失したやもしれません。

厳島神社の場合はどうだったのでしょうか。

また一つ謎解きが。。

[2137] Re[2132]: 百済神  恋川亭 2006/05/26(Fri) 01:16 [Reply]
> 百済神はあんまり聞かないのに。

?・・・百済神って、あるよ!?
あんまり有名すぎて、あたりまえすぎて、気づかないのかも。
Q:なぞなぞ
  当初、『蕃神』とか『他国神』といわれたもの、な〜んだ?

[2136] Re[2132]: 遅Re各位様  神奈備 2006/05/24(Wed) 20:14 [Reply]
> 百済神はあんまり聞かないのに。

 大山積の神 『伊予国風土記』逸文)に、この神は仁徳の頃に顕れた。百済の国から渡っておいでになり、摂津の国の御島においでになった。
 大山積神には岩長姫や木花咲耶姫の娘があることなどからバナナのとれる南方系のにおいを感じますので、百済かいなと思いますが・・・

  「百済神はあまり聞かない」とは、新羅神以外の神は、ひょっとしたら天津神御一統は百済神かも知れません。

> つまり紀記の編纂に百済方が関わっていることを意味する。(時代的に宮廷内中枢に百済亡命貴族が関わっていたことはたしかでしょうね)

 白村江敗北で沢山の百済官吏が近江朝に雇われて、その官僚機構が天武・持統朝以降にも力を発揮して、結局貴族となって60年前まで天上人だったのです。

 おっしゃる通り、記紀の編纂の事務局には百済官吏とその裔が中心となったのでしょう。「百済から来た神」などと言わないのは深謀です。

[2135] Re[2132]: 遅Re各位様  神奈備 2006/05/24(Wed) 17:45 [Reply]
> 神奈備さん
> 天道根命と天道日女(私はこちらに興味あり)
> の関係は????あるんでしょうか?

1.天道日女命は『海部氏勘注系図』によれば、大国主神と宗像の多岐津姫の子だそうです。さらに大三元さんによりますと↓
http://www.dai3gen.net/hahaya.htm
 海部穀定著『原初の最高神と大和朝廷の元始』に、異名として高光日女があるそうです。この女神はまた下照姫のことともされており、話がややこしいことになってきます。
 
2.紀の国の国造とされる天道根命は神皇産霊の五世孫だそうです。神皇産霊と天道根命の間に例の名草戸畔が入るとか、また神皇産霊ではなく、素盞嗚尊−五十猛神とつながる系譜上にあるとの紀氏の系図があります。


3. 『日本書紀』仲哀天皇紀には、「筑紫の伊覩(伊都)県主の五十迹手(いとて)の服属儀礼をともなった出迎えを受ける。 そこで天皇は五十迹手の「いそいそさ」をほめて「伊蘇志」と言われ、五十迹手の国を伊蘇の国とされ、これが訛って伊覩となったとしている。」とあります。 所で、『新撰姓氏録』で、「伊蘇志臣、滋野宿禰同祖。天道根命之後也。」とあります。伊都県主の五十迹手は『筑前国風土記逸文』に、「高麗の国の意呂山 (おろやま尉山(うるさん))に天から降ってきた日桙の末裔」と名乗ったと記載されています。

 ややこしいことですが、日桙=天道根命と言っているように聞こえます。そうしますと、天道日女は天道根命の奥さんかも。(天道根命=天日槍=饒速日尊=天稚彦が成り立つのか)

[2134] Re[2132]: 遅Re各位様  nick [Url] 2006/05/24(Wed) 10:02 [Reply]
>この呼び名が紀記から受け継がれたのは、つまり紀記の編纂に百済方が関わっていることを意味する。(時代的に宮廷内中枢に百済亡命貴族が関わっていたことはたしかでしょうね)最近の国定教科書は。新羅シンラ。百済ピェグチェ。

あちらの研究者と交流を深めることが大事かもしれませんね。
在京の頃は、池袋サンシャインで開催されるイベント等はたまに見物して
拝聴したりしていましたが、今は情報不足で。

>あなたのHP拝見したくクリックしましたが、いきつきませんでしたエアーエッジはアクセス不可???

そうですか、それは残念。”JAVA”を起動させて下さい。
月日や更新記録用にこれを多用していますので。
一応、IE,NSで確認しています。


[2133] Re[2132]: 遅Re各位様  かまど 2006/05/24(Wed) 07:54 [Reply]
はじめまして、MADOKAさま

松原先生の講義聴いたことないのですが、その時の資料見ましたが結構文献調べていると感じました。一度拝聴したいなあって思いました。

> 和亜布さん
> 狩場明神は秦氏です
> 和歌山橋本市神野々に光三宝荒神あり。
> ここは、空海が高野山を開くまえに伽藍を作った神野々廃寺跡。この地にいた 秦氏、豊田丸の財。人的支援で高野山を開いたと非常に具体的な伝承あり。この地から高野山は目の前に見える。この豊田丸が狩場明神になり(犬飼と同部族?)後 奇瑞

狩場明神の説は2つありますね。豊田丸説は確か紀伊続風土記にありましたっけ?うろおぼえ。

「人 的支援で高野山を開いたと非常に具体的な伝承あり。」って書いてました?神野野にあった寺院を高野山にもって言ったという話は、光三宝荒神社の由緒書きで 見ましたが、人的支援というのはどうだったかな?それが書かれている古文書は紀伊続風土記ですか?調べてみたいのですが教えて頂ければ幸いです。

高野山から見える町は橋本市だったんですか。どこかなって思っていたんですが。しかしかなり遠いところまで見えるんですね。高野山から見える町はあそこだけでしょうね。多分。

>この豊田丸が狩場明神になり(犬飼と同部族?)後 奇瑞・・・
こ れは確か光三宝荒神社の由緒書きでしたか見たことないのですが、どなたかこの説を出した方の資料もたれてませんでしょうか?確かこの説のもとは、豊田丸の 先祖(700年あたりの人)が坂上犬飼って名前だからって言う根拠だったと思うのですが、私はこれはどうかと思うんですがね。先ほどの財をもって、と言う のであれば分かるんですけど。それと奇瑞って、もしかして、昭和か大正?の時代に、巫女か何かに坂上田村麿が神がかりして、「この地は狩場明神の領地であ る」とかなんとか言ったってやつですか?これも根拠としてはどうかと思うんですよね。

豊田丸が狩場明神って言う説の根拠が他にあると思うのですが、光三宝荒神社の由緒以外に見たことがないので、他に何か参考になる資料ありましたら教えて下さい。一時探したことあるんですが、この説が書かれたものないんですよね。

私はもう1つの説を支持していますが、新たな説が出てくる話もあったりで、いろいろもう一度調べなおそうと思っています。高野山が狩場明神をだれと見ているかなんだと思うんですが。

よろしくです。

[2132] 遅Re各位様      MADOKA 2006/05/24(Wed) 01:00 [Reply]
神奈備さん
天道根命と天道日女(私はこちらに興味あり)
の関係は????あるんでしょうか?

>四天王寺玉造説は追い詰められた
まあそうでしょう。よーーーくわかっています。
ぶちゃけた話、
四天王寺がどこにあったかに私は興味はない。
私 が興味があるのは。重層的にかさなった古層にある古代祭祀。大阪の古代祭祀の特徴は「大阪市史」にも書かれているように。全国でも稀有な太陽信仰の祭祀が 各所に見られる地である・このことに興味をもち。日想感の聖地として名高い四天王寺に着目。どうも古代から盲目になってまで日輪を追う。日子が存在したら しいまではつきとめましたが。資料に乏しく。また日想感も四天王寺の教理教学に何の関係もない。ただ。俗信信仰として脈脈と古代祭祀の片鱗を四天王寺が受 け継いでいる。で。まったく別のラインから太陽信仰を追っていると水神。巳。龍。女神。がリンクしてきた段階で二カ所にある地底湖と白龍。青龍信仰がでて き。また四天王寺と重なったということです。
この問題はこれ以上四天王寺をしらべても無理!
俗信信仰に関わるもんだいですから。。。。
が。現に四天王寺の庶民の崇敬の中核は亀の井。
四天王寺信仰の中核である舎利信仰ではない。
(彼岸の四天王寺参りの群衆が押し寄せるのは俗信参りと夜店めぐり。。。舎利のある五重塔と本堂はガラガラ)
逆に龍王の宝珠として舎利信仰がこの地に根付いたという可能性のほうが高い。
& もう一つの四天王寺参りの信仰の核に西門から鳥居は異界とこの世の境  生き別れになったものと再会するのは西門前 能楽。浄瑠璃。現代劇にいたるまでこ の出会いの場面はあるが。彼岸四天王寺参りの際。大阪府警の行くえ不明者相談、問い合わせの大テントがで。何百年前から信じられていることが現代に至って も受け継がれているということに茫然。
四天王寺は異界への入り口。それは。生死をつかさどる竜宮への道という信仰がベースにあり、それに極楽浄土に沈む夕日信仰が重なっているとおもう。
小栗判官の熊野詣でこの場所か始まるのも。。
松原さんから。西門から海に向かって入水死に向かう人を見たという古老の話がある。
そう言う古代信仰の古層の上に四天王寺がある。
ちなみに熊野街道と伊勢街道が唯一重なる道は玉造稲荷の南西にある。。。。

和亜布さん
狩場明神は秦氏です
和歌山橋本市神野々に光三宝荒神あり。
こ こは、空海が高野山を開くまえに伽藍を作った神野々廃寺跡。この地にいた 秦氏、豊田丸の財。人的支援で高野山を開いたと非常に具体的な伝承あり。この地 から高野山は目の前に見える。この豊田丸が狩場明神になり(犬飼と同部族?)後 奇瑞がおこり田村麿(秦氏)も合際。&空海が後の世のために残すと予言し た水をほりあてた、温泉施設 『ゆの里』があり。空海の奇跡の水 日本のルルドで全国各地から人がやってきています。

>出雲族は母系
に は異論。私はこの時代にしては、珍しく出雲族は父系制の族と思う。根拠は大国主の婿入りを試すのがスサノオで&息子達が婿いびり。日向族(アマテラス=卑 弥呼?)と出雲族(スサノオ)との和合国家がならず、スサノオが負のイメージを背負い。ニギハヤヒが正史から消えた原因は母系制VS父系制で跡取り問題で もめたからだと思うからです。
(ただ母系制。父系制。は、母権制。父権制。財産権。多岐の問題がからみ、断言できませんが。。。)
逆に神武はこれを統合した可能性がある
神武が侵略者はどうかしら?神武が天皇になる血統の良さは、母系にあるとおもいますよ。。。

nickさん
>かなり緊迫し世情が不安定だったことが
これからも想定されます。

年表ありがとうございます
緊迫した時の 新羅の国名は正確かと思います
(海賊が国に属しているかどうかは問題ですが)
私はアカルヒメを追った関係で天の日槍の新羅に興味。しりたいのは半島でどういう族かということです。
これが、いろんな族を追うと 秦も新羅 スサノオも新羅 蘇我も新羅なんてのが出てる!(真偽は不明) 
たしかに、一時は半島にいて、姻戚関係もあったかもしれんが、なあんでもかんでも新羅はなかろうが!
これに新羅神が入るとさらに具茶具茶になる。
私は新羅ブラックホールと呼んでいる。
&古代日本に文化的影響大は百済で新羅はどちらかというと敵対的にかかれることが多い(真偽は別)
にも関わらず 百済神はあんまり聞かないのに。わさわさと各地に新羅神なの??という素朴な疑問?
で。渡来系は族は秦。国名は新羅。と書かれているのも多いのではと ふかーく疑っているんです。
また。新羅崇敬論者と敵国新羅論者がおり。まっぷたつに割れる極端な論が多い!ユダヤ説によく似た感じ。で私はいささか用心している。で。老婆心ながら。琉球松さんに御忠告もうしあげたわけです。
ps、知人の古代朝鮮語で記紀を読む研究家曰く。
新 羅をシラギという呼び名は蔑性 日本人をジャップとよぶとの同じ この呼び名が紀記から受け継がれたのは、つまり紀記の編纂に百済方が関わっていることを 意味する。(時代的に宮廷内中枢に百済亡命貴族が関わっていたことはたしかでしょうね)最近の国定教科書は。新羅シンラ。百済ピェグチェ。
あなたのHP拝見したくクリックしましたが、いきつきませんでしたエアーエッジはアクセス不可???

古代へ行こう 恋川亭さん
の考えには賛成。古代人の感性を貴んだ折口信夫に通じますね。現代人のほうが賢いというのは慢心。古代人の感性。常識を理解しないと。伝承にある大事な知恵も理解できないとおもいます。
&四天王寺関係の新刊御紹介ありがとうございます
参考にさせていただきます。

琉球松さん
>辺野古に重要な遺跡&琉球圏の生みの親とも考えられる "ヤマトの女性" が意図的に隠蔽されて来たんじゃないかと思う。

これは断固!!守ってください!
できることがあれば 協力しますよ!!
&もう少し詳しくこの件を書いて頂きたい!!

[2131] Re[2127][2108]: 古代へ行こう!  神奈備 2006/05/23(Tue) 13:57 [Reply]
> また歴代日本政府が、現在の沖縄県の各諸島を中国から求められている現状と、伝統的に九州島を要求している韓国の現状を、日本国民に広報しない姿勢についても不思議に思っています。

『随書』東夷傳倭國条)の、煬帝の大業四年(608年)の記事。

明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、 以爲夷州疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。イ妥王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角、來迎。後十日、又遣大禮哥多毘、 従二百余騎郊勞。既至彼都。其王與清相見、大悦曰、「我聞海西有大隋禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見。今故清道 飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。」清答曰「皇帝徳並二儀、澤流四海、以王慕化、故遣行人來此宣諭。」既而引清就館。其後清遣人謂其王曰「朝命既達、請 即戒塗。」於是設宴享以遣清、復令使者隨清來貢方物。此後遂絶。

ここの最初の方に竹島が出てきます。翻訳文で、「百済を度り竹島にゆき、南に[身冉]羅国(耽羅、済州島)を望み、云々。」とあります。

 注釈では、この竹島を「絶影島?」としています。絶影島は釜山にあって今は橋が架かっていますが、竹島は竹島だと理解すれば、小野妹子が裴清を案内しているので、明らかに日本領土と言えます。

[2130] Re[2129][2126]: MADOKAさん  nick [Url] 2006/05/23(Tue) 07:10 [Reply]
> > 神奈備掲示板のほうへ、四天王寺関係の新刊書籍、題名だけ紹介してきました。
>
>  谷川さんの本の『四天王寺の鷹』は書き下ろし作品だそうです。もう80歳を越えているはずでしょうが、達者なものです。

凄いですね。昔の方々はかくしゃくとされ威厳がありますよね。
当地の方々は皆達者です。見習いたいが無理だな。薬ずけでは。
書店にはありませんでした。残念。

>疑似歴史書で何となく読んだような気がしますが、その連中とは全く質の異なった傾聴すべき民俗学の大御所ですね。

久々に書店に行きました(この所古本屋だけで・笑)
いや〜歴史書の多いこと。それに郷土関連も多数。。
広げてびっくり、、と云うのもあれば、なんじゃこりゃ〜。。
ありますね、呆れるものも。
そうそう、よくご指導を頂く下野敏美先生のも数冊並んでいました。

[2129] Re[2126]: MADOKAさん  神奈備 2006/05/22(Mon) 20:43 [Reply]
> 神奈備掲示板のほうへ、四天王寺関係の新刊書籍、題名だけ紹介してきました。

 谷川さんの本の『四天王寺の鷹』は書き下ろし作品だそうです。もう80歳を越えているはずでしょうが、達者なものです。
  四天王寺に物部守屋が祀られていることを初めて知ったような表現をしていますが、ここいらは著作物のドラマティック性を高める表現でしょう。神社に行った らわかったとか調べていたらXXと言う神社が出てきたとか、疑似歴史書で何となく読んだような気がしますが、その連中とは全く質の異なった傾聴すべき民俗 学の大御所ですね。

 その大御所さんは、四天王寺については最初は玉造、後に荒墓に移転との説にのっているようです。元々から現在地説は徐々に追いつめられているようですね。

[2128] 徐福伝承地  nick [Url] 2006/05/22(Mon) 13:25 [Reply]
最近次の「青島」のページがありました。

http://topqd.com/wj/qdlyt.htm

瑯邪台

また、香春神社の辛嶋氏は秦氏の流れを組むことが
やっと判りました。
大神氏もそのようで。。

このところ、当地の八幡との本家争いで「宇佐神宮史」を見ていますが
なぜか「秦氏」が登場しない。。
可笑しいと思っていたら、、
これで体調不具合・倦怠も取れるかな。

[2127] Re[2108]: 古代へ行こう!  恋川亭 2006/05/22(Mon) 02:32 [Reply]
琉球松さん、ご無沙汰です。レス有り難うございます。
私のほうは、週に1度くらいしか掲示板にレスできないので、遅くなってごめんなさい。

>  昨今の米軍再編成の影響など、我々沖縄人は必死ですね。

  我々本州人にも重要な問題なのですが、メディアではメディアにとって有効な意見しか扱わないので、本州人の多様な意見も広報されているとは言い難いです ね。例えば、これは私の意見ですが、自衛隊で日本国を守備できないのならば、なぜ各県各地域に米軍基地を分散しないのか不思議に思っています。また歴代日 本政府が、現在の沖縄県の各諸島を中国から求められている現状と、伝統的に九州島を要求している韓国の現状を、日本国民に広報しない姿勢についても不思議 に思っています。

 私は、九州各県〜沖縄県の地域を(かつてソ連に対した北海道のように)、自衛隊が主体的に防衛を示すべきだと思ってい るほどです。それは『日本国の自衛隊として』ではなく、『地球防衛軍として東シナ海での一切の軍事的示威行動を阻止する』ためです。これなら日本国憲法に 則るでしょ。『平和を愛する諸国民の信義に則り』なのですから。すくなくとも現在の中国政府及び軍の行動は『平和を愛する諸国民』からは逸脱していますの で、台湾・ベトナム・フィリピン等の環東シナ海国家とともに『平和を愛する諸国民』として、『平和を愛さないで軍事力による示威を行なう覇権国家』を糾弾 する義務があります。
 これは私が心から愛する東シナ海をあらゆる国家の開発・占領から守りたいからです。こんなことにこだわるのは、私の一族の 多くが、戦後の李承晩ライン事件に巻き込まれ、実際には日本側漁業権海域にも拘らず、韓国軍による自動小銃の銃撃を受けて強制的に拿捕抑留された経緯があ るからです。私が爺さん達や伯父達から聞いた抑留中の体験は、あまりにも韓国の恥になるので公表しませんが、みんな韓国人に対する恨みは一言も述べません でした。私が聞いたのは『時代が悪かった』『我々(抑留者)よりも(韓国の)民衆が哀れであった』ということです。昨今と違い、漁民といえども日本人とし ての矜持を持っていた世代ですからね。結果、わがルーツの漁村は没落しましたが、また年月をかけてコツコツと盛り返しつつあります。(これがJAPANな のだ)
 
 沖縄での『米軍再編成』問題は、日本中の国民自身の問題であるにもかかわらず、そのように啓蒙されない現状は残念なことです。

> 「日本」に対する不信感と「ヤマト」に対する奇妙な憧れ。。。この深層心理を知りたくて色々と首をつっこんでいるわけです。

 『琉球』に対する違和感と『オキナワ』に対する根元的憬れ。。。この真相真理が本州にあることをご理解いただきたいのです。
 明治維新後の『琉球処分』時代の「頑固党」のごとき、中国(清)への信頼と明治政府への不信が続いているにしても、今の中国は清でも民国でもない現実に目を開かなければなりません。また、今のヤマトは明治よりも昭和20年よりも、もっとやっかいです。
 かつて中国では琉球といえば台湾のことだったそうですね。今、私個人は滅多に「琉球」と使いません。沖縄に訪問したときに(直接)聞く機会がなかったですし、当地のみなさんは、いつも「おきなわ」とおっしゃっていましたから。

  私自身は、ほんの数回しか沖縄に訪れたことがありません。そんな人間がとても僭越とは反省しつつ、それでも沖縄は「ヤマトの根元」「濃厚で圧縮されたヤマ ト文化」だと感じました。その後、『沖縄は中国文化だからねー』と知ったかぶるオッサン達に尽く反論してきました。じつは、私は近所の福建・広東(お互い に仲悪いけどね)の庶民文化にドップリと浸かって育ってきたので、そのへんの機微がわかるのです。(知らない人ほど、平気でごちゃまぜするのね。オッサ ン、潮州の怖い雰囲気理解できるんかい、などと思いますた。)
 だから、沖縄風中国文化は、かなりオキナワ風にアレンジ&チャンプルーされていまして、長崎と比較しても同程度に思えたのです。大貿易(交易)時代でも、あくまでも主体は沖縄にあったといえます。

 今の沖縄の方々にある一種の誤解(と私は感じている)を解消するのは、ヤマトの田舎への旅行だと考えるのです。たぶん、拍子抜けするほどと思います。私が、オキナワのほうが濃厚なヤマトである、というのを追認されることと思うのです。もう一度書きます、
 『沖縄県のお年寄りは、本州(九州・四国・北海道)の田舎へどんどん旅行すべきである。これこそが沖縄県に不足している重大事項である。』(国生:談)
 その上で中国に行くと『あがー、じぇんじぇん』違うことがご理解頂けるかと(笑)。
ヤマト、シナのそれぞれ実体がわかると、政府への要求・是正表現も的を得たものとなり、より多くの国民から賛同を得られるものと願ってやみません。

> 米軍普天間基地の代替え地とされている辺野古には、神武即位の頃と重なるかもしれない重要な遺跡が眠っています。

 それこそ!総力を決して保護運動を展開しなければならない場所ですね。このことを、大々的に公表しないのはなぜだろう???
神武さんだぜ!右翼!右翼?やはり所詮、似非活動家なんだろうな〜。
左翼運動家なんてのも所詮、似非でしかないんだろうな〜。
右も左もみんな似非。似て非なる者。売りはしても保護はしないのでしょう。

>  琉球圏の生みの親とも考えられる "ヤマトの女性" が意図的に隠蔽されて来たんじゃないかと思う。映画『ダビンチコード』でワクワクしている場合ではないんです。

いや〜、『ダビンチコード』は原作を読んでしぼみましたー!ごめんなさい。
いえね、もうだいぶ前にアラマタン(荒俣宏)の『レックス・ムンディ』を読んでいまして、その影響でレンヌ・シャトー物や死海文書物を漁っていた時期がありまして。
私的にはアラマタンに座蒲団4枚!でも映画化にはさすがに『ダビンチコード』が向いていますわ〜。
・・・あが、nickさんへレスする時間がなくなってしまいました。
また来週まで失礼いたします。m(__)m

[2126] MADOKAさん  恋川亭 2006/05/21(Sun) 22:33 [Reply]
神奈備掲示板のほうへ、四天王寺関係の新刊書籍、題名だけ紹介してきました。
まずは、ご連絡まで。かしこ

[2125] Re[2123][2122][2120]: 青草名草史5 付録  なかひら まい [Url] 2006/05/21(Sun) 13:12 [Reply]
神奈備 様

こんにちは。
青草名草史、楽しく読ませていただきました。
私には、名草戸畔のことは、まだまだ全然分かりません。
おかしなきっかけで調べなきゃならない状況になったわけで、もともと古代史に明るいわけでもないのです。好きなのは、どちらかというと心理学や呪術、魔術、神話方面です。史学はちょっと違うジャンルです。。

> >  なかひらまいさん、平成の麻為比売として名草戸畔のご調査、よろしくお願いします。

平成の麻為比売?いや、飛んでもないです。しかし、なんて読むのでしょうか?
わたしも、力侍と麻為比売が名草戸畔とどう関連があるのかは、調べてみないとサッパリわかりません。

と ころで、ブログには名草戸畔は男性説という風に書いてありますが、日本という国は、基本的には「母性社会」だと思います。社会制度的に、長が男性であろう と、日本人の心性は、鬼、山姥モチーフなどに見られるように、母性的です。(みなさん、かなり詳しそうなので、説明はかっ飛ばしますが。)

長が男性になっていくのは、時代の流れとしてあることなので、そういう方向も否定はできないと思う。紀元前から続く世界中の歴史を考えれば、弥生後期は「比較的近代」です。男性が長でも、しょうがないかなあと、推測しているだけです。

「日本書紀が中国の「男社会を中心とした思想」を模して作った」という和歌山市博物館、寺西さんの説も、判断材料の一部でしかないと思います。

ではでは。

[2124] Re[2123] [2122][2120]: 青草名草史5 付録    和亜布 2006/05/21(Sun) 10:18 [Reply]
> 「定説となった「戸畔=女酋長」という論が、奇しくも、歴史学と伝承という、立場の違う側面から覆されたわけである。」
> 「日本書紀が中国の「男社会を中心とした思想」を模して作ったものだという背景を考えても、女性が地域の長として登場するのは違和感があることを指摘。し たがって「戸畔」とは男をさす呼称だと考えた方が自然であり、名草戸畔も「男性」であるという見解を示してくれた。」

私は古代出雲は母系と考えます。神武から父系が渡来し初期は共存していたと考えます。
豊穣神から太陽神に勢力が母系(シャーマン)から父系(王) 
古代中国は「月神」
http://www5d.biglobe.ne.jp/~primal/moon_god.htm
月兎  
http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/afjptukiusagi.htm

古代日本の母系制について
http://www.amigo2.ne.jp/~yaji/bokeisei.htm

母系制について
坂東千年王国
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/dust/bokei/bok-1.htm

反・ギリシア神話
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/husband.html

原始宗教と墓相 陰陽が墓相の原点
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ohaka/genshi/genshi01.html

道教は中国の古代の母系氏族社会で自然発生した原始宗教である
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/DandX/DandX1-1.htm

竜山 (ロンシャン) 文化 母系 父系への過渡期社会で代表される文化 ...
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/hsia.html

【姓】かばねの文字は、古文字でも「女」系です。

[2123] Re[2122][2120]: 青草名草史5 付録  神奈備 2006/05/20(Sat) 17:36 [Reply]
 サン・グリーン さん、ありがとうございます。

 名草戸畔については、ある女性研究者の方が大学の先生の職を辞した後、故郷で研究するとの話を聞いたことがあります。それが、力侍神社をベースに調査にかかるとのことで、当時はもうひとつ意味がよく分からなかったのです。
 ところが、この前、和歌山の図書館で時間をつぶしているとき、ある書籍に力侍神社の祭神が麻為比売命とされているとありました。

 麻為比売命とは名草郡の式内社に麻爲比賣神社があり、この神社の祭神だとであることはまちがいのないところと思われます。力侍と麻為比売、この組み合わせは天岩戸開きの手力男神と天鈿女命を想起するのですが、名草戸畔との関連はこのお話では見えて来ません。
  端的に言えば、名草戸畔は力侍神として祭られたのか、麻為比売として祭られたのか、ここは名草戸畔が男なのか女なのかに関わってきます。圧倒的の女説が多 い中、なかひらまいさん方の現地伝承調査ではそういう中でも男として伝わっているようなので、力侍神として祭られ、その伴侶か娘の巫女が麻為比売として祭 られたのかも知れません。

 なかひらまいさん、平成の麻為比売として名草戸畔のご調査、よろしくお願いします。

力侍神社 http://kamnavi.jp/ki/city/rikisi.htm
麻爲比賣神社 http://kamnavi.jp/ny/tuhata.htm
なかひらまいさん http://blog.livedoor.jp/nagusatobe/

[2122] Re[2120]: 青草名草史5  サン・グリーン 2006/05/20(Sat) 10:09 [Reply]
神奈備さま

>  国破れて山河あり、今、山河をなくして我々は何を手に入れたのでしょうか。国は破産寸前、次に国破れても我々には山河すらない、それがこの国のかたち。
>  −−(終わり)−

名草戸畔のものがたり(*^_^*)
とても興味深く読ませていただきました。
登場人物が目の前に顕われてくるようでした。
神奈備さまの文才に脱帽!

[2121] これからも「神々の杜」大切にしたいです。  和亜布 2006/05/19(Fri) 18:23 [Reply]

「古代日本は自然と共生しながら生活してました。
あらゆる物に神が宿り「祟り」を恐れました。
未開人と言われる 例えば「アイヌやインデオ(インデアン)」彼らは、自然とのバランスを保ち自然と共生していました。(エデンの園のように)
しかし「知」を、神をも恐れぬ「思考」する民が現れました。彼らは宇宙人(蛇かも?)から「知識」を得たと伝えられています。
羊飼いを生業としていた彼らは「火」と言う武器で密林を焼き払い 放牧地を広げました。(現況 砂漠)
彼らは、自分たちの住む世界を知ろうとし探索を始めました 障害となる密林を焼き払い木々を建築や造船・金属の溶解などのため伐採したのです。
やがて彼らを干ばつが襲いました、木々を絶やした土地には地下水も絶え移動を余儀なくされたです。
東のはて、私たちの住む日本へ渡来した彼らは過去を教訓とし自然と共生するコミニティー 異種族が共存する国 八百万の神の連合共和国「出雲」の国が生まれたのです。
しかし、世界統一を目指す祖を同じくする・・・しかし砂漠の神(一神教)太陽神を崇拝するとする「神武」の軍団が押し寄せたのでした。
彼らも資源探査と測量(流通 貿易 商売)と布教 (一つの神による世界統一)・・・経済 宗教 軍事の三位一体によるピラミッド型支配を目指していたのでした。
緑 多き日本国は八百万の神々のお陰です、しかしグローバル化による外国資本(ユダヤ?)による日本買収、社会主義やイスラム ユーラシアに対する日本の要塞 基地化 軍需産業 金融 パテントなどの権利収入を糧とし資本を担保に増資 強いもの勝ちの企業買収 逆らうものには軍事攻撃 ジャイアンの世界スネオ (日本)それで良いのか!」・・・の内容の小説、売れるでしょうか?

[2120] 青草名草史5  神奈備 2006/05/19(Fri) 08:29 [Reply]
 名草山は縄文時代には島で、周辺は海水がよせてはかえす浅瀬でした。シ ジミ、アサリなどの貝類や魚が豊富な漁場でした。徐々に海退が進み、湿地帯となって葦などが生え、根元に水酸化鉄が出来るようになってきました。これは名 草山だけではなく山東からこの辺り一帯は鉄分を多く含む赤土で褐鉄鉱が鈴なりの状態になっていたと言うことです。
 
 名草平野の東部から山東や海南市東部には縄文時代から人間が居住していました。大山祇神を奉じるネシア系の人々だったのかも知れません。

  山東大池遺跡からは大和の二上山のサヌカイトなどが出土しています。そこへ九州や出雲から先進技術を持った大陸・半島系の所謂弥生人とされる人々がやって きて名草平野の湿地帯で稲作を始めました。葦の生えている沼に稲を植えるのです。新たに来た人々の中から名草地域の指導的な役割を果たす一家が出来てきま した。名草戸畔の一家です。

 名草戸畔らが紀の国の国魂として祀っていたのは神の森の神で、ここには後に大屋比古と大屋比売と呼ばれる神 が鎮座していました。この神々ははるか遠い昔、名草戸畔の祖先らがこの地に来たときにはすでに先住民が奉じていた神のようです。神の森とは現在の日前国縣 神宮が鎮座している場所のことです。
 
 名草戸畔一家の住居は溝ノ口と言う所で、高橋の地から東へ5kmほど入った場所です。紀の国では珍しい二重神奈備山が形成されている聖地でした。ここは縄文時代から室町時代の複合遺跡の地で、名門名草家は名草戸畔の誅殺後も、ほそぼそと生きながらえていたのでしょう。

 後に紀の国一宮となった日前国縣神宮は名草浜の南端の浜の宮から、名草戸畔が安寧を祈った神の森に遷座、神の森に坐した神は社地を譲って山東に遷ったのです。

 天台宗を開いた最澄は名草の宮のことを溝口大明神と呼んでいます。溝口で生まれ育った名草戸畔の神霊に対しての呼びかけた命名だったのかも知れません。
 実際には名草平野への用水の供給口があったからと言うのが通説になっています。

 今、何故、名草戸畔か。それは自然との共生に人々が目覚めてきたからと思われます。大地を切り刻み、鉄筋を打ち込み、水脈を断絶させ、美しい海岸をテトラポットで埋め尽くし、産廃で水を汚し、まったく国土を愛する気持ちを持たない治世が戦後延々と続いてきました。
 国破れて山河あり、今、山河をなくして我々は何を手に入れたのでしょうか。国は破産寸前、次に国破れても我々には山河すらない、それがこの国のかたち。
 −−(終わり)−−


[2119] 参考HPです。  和亜布 2006/05/19(Fri) 00:42 [Reply]
「行基図は正確」  
行基制作の日本地図「行基図」がなぜ必要だったかもおのずと理解できよう。
あれは全国鉱山分布図の基礎となる地図なのである。
http://white.ap.teacup.com/soudasui/

文後期の「鹿角・万座環状列石」と古墳終末期の「斑鳩・藤ノ木古墳」は、直径48mと同サイズです。両遺跡の年代差は4500年ほど。これは単なる「偶然の一致」なのでしょうか。
★万座環状列石が五芒星図形を基準に描けることは先稿で示したとおりですが、これは実際的にも縄一本で設計できます。
http://blogs.dion.ne.jp/pentacross/archives/cat_118169.html

[2118] 無題  和亜布 2006/05/19(Fri) 00:31 [Reply]
あぁ・・またまた勘違い!
「[2117] RE 2116] [2115]: 30度の位置に偶々「文」の印が ! 和亜布 」・・・は
削除してください。

「一度、現地で円周も含めて60度の角度に意味があるのかどうかご確認頂ければ幸甚です。」ですが、
測量でのポイントの件 には 自信が有ります 神奈備 掲示板を御覧下さい。

[2117] RE 2116] [2115]: 30度の位置に偶々「文」の印が !    和亜布 2006/05/19(Fri) 00:23 [Reply]
失礼致しました、訂正します。
書き込みは 和亜布 です、神奈備 さま御免なさい。

[2116] Re[2115]: 30度の位置に偶々「文」の印が !  神奈備 2006/05/18(Thu) 20:25 [Reply]
 直線上にない3点は同一円周上に来るのは当たり前のことで、その円周を書いてみたら、たまたま国主神社や亀川の遺跡が載っていたと言うことです。
 一度、現地で円周も含めて60度の角度に意味があるのかどうかご確認頂ければ幸甚です。

[2115] 30度の位置に偶々「文」の印が !  和亜布 2006/05/18(Thu) 17:46 [Reply]
続きまして
http://kamnavi.jp/log/nagusawar.jpg の地図
「鳥居」を起点に30度の位置に偶々「文」の印が 明治以前は「寺?古墳?」
考え過ぎでしょうか?

[2114] 偶然にも「60度」の角度です。  和亜布 2006/05/18(Thu) 17:38 [Reply]
神奈備さま今日は、楽しく拝見させて頂いて居ります。
千種神社(あしがみさん)
http://kamnavi.web.fc2.com/ki/city/tigusa.htm

『平成祭礼データCD』神社の地図を御覧下さい、「高橋」の辻を起点に「寺社」「山」「橋」「溜池」「古墳」などが偶然にも「60度」の角度です。

[2113] 青草名草史4  神奈備 2006/05/18(Thu) 09:19 [Reply]
 神武軍は周辺住民を慰撫しつつ、天皇森に戻り、勝ち鬨をあげたのです。そうして神武さんの兄の五瀬命を竃山に葬り、盛大な祭りを行いました。
  名草邑の統治を天道根命にゆだね、食料、水、塩、兵隊、武器などを調達して神武軍はさらに南下していきました。紀伊半島西部は銅鐸の王国でいわば神武さん の敵方、上陸をあきらめて熊野灘にまで一挙に航行しました。大和を押さえてからじっくり銅鐸祭祀氏族に背後から圧力をかけていけばいいとの方針だったので す。

 さて、名草山の山頂には夫である天道根命の裏切りに苦しんだ名草姫の自害した遺体が残っていました。哀れにもおつきの巫女さん方も共に自害していました。彼女らは名草山周辺の七原から選ばれた少女達でした。

  切り刻まれた名草戸畔の遺体は住民達がそれぞれ分け合って祭ることにしました。結局、頭部を祀ったのが宇賀部神社となり、胴体部を祀ったのは杉尾神社とな り、足部を祀ったのは千種神社となり、今日まで信仰を集めています。丁度、殺された地からそれぞれ等距離に鎮座しています。

 名草戸畔一族の歴代の墳墓は亀川と国主に造営されてきました。偶然にもすべて高橋から等距離の地点です。彼らの神霊は国主山や高倉山にとどまっているのでしょう。
http://kamnavi.web.fc2.com/ki/city/tigusa.htm

 名草山で自害した名草の姫巫女達もそれぞれ中言神社、名草神社の名で名草山を取り囲んで祀られています。それもやはり名草戸畔と同じ大きさの直径3kmの円周上に鎮座しているのです。
http://kamnavi.jp/log/nagusawar.jpg

 天道根命は同じように毎朝太田の祭祀場に赴き、神の森に坐す神々に名草の里の安寧と反映を祈念するようになりました。これによって徐々に名草の国の民人の心をつかんでいきました。

 最近、名草山自体が悲鳴を上げているように感じている市民が多くなりました。これは古代からの神々全体がこの国の姿を憂えるお姿と重なって見えます。
 和歌山市の聖山である名草山への侵食が激しくなっているのです。竹藪の増殖、紀三井寺浮図の増殖、電電公社の社宅建設、猪退治など、名草山を美しいいまま保つと言う心を失って、この山を便宜的に使おうとする物欲の姿が見えるからです。

[2112] Re[2107]: 古代へ行こう!  nick [Url] 2006/05/17(Wed) 12:46 [Reply]
恋川亭さん
>  古代史は「行かなきゃ判んない」さいたるものでしょうね。景色だけでなく、周囲の雑音、風の強弱、寒暑、漂ってくる匂いまでリアルに推測できたとき、古代人の温もりが伝わってくる。そのとき喜怒哀楽と分かち難い人生・事件の深みを共有できるのかもしれません。

確かにそうですね。凛とした雰囲気。いいですね。
それと修験道の神秘な頂に立つと、「さもなん」と言葉もありません。

>  そういうセンサーを磨く為には、今・現実に生きている目の前の人々とのふれあいこそが最も大切だと、諸先輩方からドンドンたきつけて頂きたいと願っています。
>  過去の歴史を学ぶのは未来を拓くがため、後ろ向きの姿勢ではありません。嘘や偽物・欺瞞の解釈はきちんと検証をへて拒絶していきたい、よりよい未来のためにも。

その気持ちはありますが最近は特に「人見知り」で。笑。
つい根暗になりがち。。
ま、近場に同じ話題を共有できる友が居ないから余計ですね。

だから過日の管理人さんのご訪問は嬉しかった。
「しばし憩いの一時」でした。

また、探訪して、珍しい石碑を見つけその地の高齢者にお話でもと伺うと。
「若い者が、昼間から何もしないでブラブラしてるんじゃ無い」
なんて一喝されることもあったりで。。笑。
彼等から見たら「赤いちゃんたんこ」のおじさんは「赤子」でしょうからね。
92歳で耕運機や単車をおもちゃ代わりに。お元気だ。

[2111] 青草名草史3  神奈備 2006/05/17(Wed) 11:49 [Reply]
 豈謀らんや弟知らんや、名草戸畔は娘婿でもある天道根命が寝返っていることに気がつかなかったのです。天道根命を名草山西方の名草浜の守備に赴かせました。
 やがて神武軍の船団がやってきました。天道根命は裏切りを名草戸畔側に知られないように、浜から適当に矢を射て神武軍を追いたてたように見せました。
 名草山頂から眺めていた名草戸畔はこれを見て満足したのです。
 ところが南に回った神武軍は船尾山に隠れて名草山から見えなくなったところで、船尾を着けて上陸、どんどん東へ入って行きました

  船尾山、城ヶ峰に隠れて今の阪和自動車道の辺りから北上、後の熊野古道を北に進み、山東に出たのです。ここには疫病退散の神を祭神とする民人が住んでいま したが、穏やかな気質の人が多く、さらに神武軍の武器の新しさと天道根命の説得が奏効して平和裡に服従することになりました。疫病はクサと言い、ナは否定 語で、ナクサとはまさに疫病退散の意味があり、薬草の意味も出てきたのです。余談ですが、クサナギの剱も病をなぎ倒すと言う霊剣のことです。ナクサの神は 後に素盞嗚尊になっていきました。

 神武軍の一部は名草平野の南端の冬野から、また山東へ回った軍は和田から、天道根軍は名草山頂から一 挙に名草戸畔が本拠を置いていた名草山東端の吉原の天皇森へ向かって攻め込んだのです。名草戸畔軍は阿備の七原の湿地帯をくる軍には矢を射かけて防いでい たのです。梅雨の真最中の湿地帯は進軍しにくいので吉原で待ち受けるのは良い戦法だったのです。ところが、名草山頂から駆け下りてくる天道根軍にびっく り、一挙に崩れて山裾にまで追い落とされました。

 名草戸畔軍はちりじりになりつつも、名草戸畔を奉じて南下し、なんとか小野田の里までは逃げ延びたのです。もう少しで溝ノ口、ここから黒沢山に入れば、山の土蜘蛛がはるか熊野にまで案内してくれることになっていました。
 しかし、高倉山西裾の高橋でついに神武軍に取り囲まれでしまったのです。多勢に無勢、名草戸畔の体は切り刻まれて捨て置かれました。

[2110] 青草名草史2  神奈備 2006/05/16(Tue) 14:45 [Reply]
  名草戸畔は毎朝の如く神の森を遙拝する太田の祭祀場に赴き、名草の邑 の安寧を祈るのが日課でした。吉原から太田への道は名草戸畔にとっては聖なる道でした。太田からは太田黒田遺跡の名で有名な遺跡が発見されており、小銅鐸 や朱と灰を交互に幾重にも敷き詰めた祭祀場などが出土しています。

 名草戸畔の娘、所謂名草姫を娶っていた天道根命は名草山西側の毛見の 浜の警備を任されていました。その天道根命が神武さんに帰順することにしたのは、神武軍の先発隊がやってきて天道根命と接触、立派な鏡を二面見せられ、お 互いに天津神の子孫、無益な戦いは避けようと呼びかけられた時でした。
 鏡二面を預かった天道根命は名草戸畔にこれを見せて神武軍に帰順するように説得したことでしょう。

  しかし紀ノ川下流域の豊かな平野の長としての名草戸畔は、突然の侵入者かつ生駒で大和の梟師である長髄彦に敗退してきた神武軍に戦わずして国を譲る気には なれませんでした。長髄彦と名草戸畔は共に銅鐸で地霊を祀る仲間であり、大和への出入り口に辺る紀ノ川下流の支配権を渡すわけには行かなかったのです。さ らに太田祭祀場へ行く聖なる道筋にあたる竃山に五瀬命を葬りたいとの厚かましい要求には到底応ずる訳にはいかなかったのです。

 また、阿備の七原の葦などの根につくスズ(水酸化鉄)が豊富にとれ、鍬や鍬などの農具はすぐに武器にもなり、十分戦えるものと踏んでいたのです。

[2109] 青草名草史1  神奈備 2006/05/15(Mon) 21:56 [Reply]
 神武さんが大和に来ようとしたら長髄彦に妨害をされ、南へ回って紀州の名草邑につき、名草戸畔を誅したと『日本書紀』は語っています。
 また『旧事紀』には、神武さんは天道根命を紀の国の国造に任じたとあります。

 天道根命の名は『記紀』には出てこない影の薄い名ですが、物部の遠祖の饒速日尊が降臨したときに、「防衛として天降り供へ奉る」とされた顔ぶれの中に、川瀬造等の祖
として天道根命の名が見えます。川瀬造は近江の人ですが、『姓氏録』には紀直の祖として出ています。紀直とは紀の国で活躍した豪族です。紀氏には武内宿禰の裔の紀臣と言う中央で頑張った豪族もいます。

  さて、神武さんが大和に行こうとした時、磐船にのって大和に先に降臨した饒速日尊がいたのです。それを承知で東征がはじまりました。饒速日尊の大和への降 臨に天道根命がお供をしていたと言うことです。かれはどこで何をしていたのでしょうか。そうです。紀の国で名草戸畔に取り入っていたのです。婿入りをして いたのかも知れません。

 大和での饒速日尊と長髄彦、同じ事が紀の国で起こったのではないでしょうか、天道根命と名草戸畔、そうです。名 草戸畔は天道根命に殺されたのです。なぜならば、神武さんと饒速日尊とが同じ天神の血を受けているのと同じく、天道根命も天神の末裔に連なる人だったので す。神武さんと結託し、流れ者の天道根命を受け入れて、息子同然に取り立ててくれた名草戸畔を陥れたのです。

[2108] Re[2107]: 古代へ行こう!  琉球松 2006/05/15(Mon) 00:44 [Reply]
 恋川亭さんへ

 "過去の歴史を学ぶのは未来を拓くがため、後ろ向きの姿勢ではありません" 。。。これは賛同!!
 昨今の米軍再編成の影響など、我々沖縄人は必死ですね。
 「日本」に対する不信感と「ヤマト」に対する奇妙な憧れ。。。この深層心理を知りたくて色々と首をつっこんでいるわけです。
 米軍普天間基地の代替え地とされている辺野古には、神武即位の頃と重なるかもしれない重要な遺跡が眠っています。
 琉球圏の生みの親とも考えられる "ヤマトの女性" が意図的に隠蔽されて来たんじゃないかと思う。映画『ダビンチコード』でワクワクしている場合ではないんです。

[2107] 古代へ行こう!  恋川亭 2006/05/15(Mon) 00:25 [Reply]
> Re[2092]: ナガラ&Re恋川亭さま
MADOKAさん、ありがとうございます。

> 玉造ネタは底うち。蘇我氏対物部氏神仏戦争の裏に影で操り&神仏習合を作り上げた某有名氏族!?は現在調査中! お楽しみに。。。

 どんなところでも丁寧に掘り下げていく情熱があれば、熱き人々の営みが見えてくるのかもしれません。「神道守旧派と仏教革新派の政治的対立だろ」なんて冷めた目では、絶対に見えてこない真実があると思います。
 古代史は「行かなきゃ判んない」さいたるものでしょうね。景色だけでなく、周囲の雑音、風の強弱、寒暑、漂ってくる匂いまでリアルに推測できたとき、古代人の温もりが伝わってくる。そのとき喜怒哀楽と分かち難い人生・事件の深みを共有できるのかもしれません。
 そういうセンサーを磨く為には、今・現実に生きている目の前の人々とのふれあいこそが最も大切だと、諸先輩方からドンドンたきつけて頂きたいと願っています。
 過去の歴史を学ぶのは未来を拓くがため、後ろ向きの姿勢ではありません。嘘や偽物・欺瞞の解釈はきちんと検証をへて拒絶していきたい、よりよい未来のためにも。

> 国生:談
 『島の神様に百代末の、そのまた百代末の子孫達の幸せを祈願しています。それは、結局世界中の人々のことを祈っていることになるのだから。』これは久高島の老神女から教えて頂いたお話し。古代の儀式をかろうじて受け継ぐ方々が、はるか未来を祈っていらっしゃる。
 古代人が祈った子孫繁栄の祈り、末代への幸せ。それは、我々への祈りではなかろうか?
丁寧に思い浮かべて頂きたい。神々は、とっくの昔に私達に熱き祝福を贈られていたのだと。
汝はいかに。

[2106] 突然のHP  和亜布 2006/05/14(Sun) 18:26 [Reply]
HP いつくしま アレコレ2006
http://itsukushima.at.webry.info/200605/article_24.html
そ の出来事は[太陽に象徴される光が消えること]であり・・・メソポタミヤとエジプト共有の太陽暦の廃止として記されたと考える(出典不明)・・・同時にエ ジプトに於いても 臣下が王のイスを奪い取り女系が途絶えるという出来事が起こり・・・・・そののちユダヤ人のエジプト脱出という出来事があり・・・ソサ ノオが放浪する如く 荒れ野の放浪が続き・・・ユダヤ教が誕生した・・・・・
 その後キリスト教が生まれ・・・イスラム教が生まれ・・・現代の荒れの時節に到った・・・・

 日本列島に於いて 瀬戸内海が荒魂に征服された後は 次々と征服の繰り返しが起り・・・・
それは[ウネビ]と云い継がれる[密]の渇欲であり 島は何度も何度も火に包まれる・・・・・
http://kihitsu.web.infoseek.co.jp/cgi-bin/joyful/joyful.cgi?page=550

[2105] Re[2104][2103][2009][1989][1988]: 佐々波多神社   2006/05/13(Sat) 22:46 [Reply]
玄松子さん、

>  これを教えて頂いたのは玄松子さんです。

どうもすみません。
神奈備さんだとばかり思い込んでしまって、大変失礼しました。
これからもまたいろいろ教えていただくことがあろうかと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

[2104] Re[2103][2009][1989][1988]: 佐々波多神社  神奈備 2006/05/13(Sat) 09:52 [Reply]
> 神奈備さま、
> > 妖さん、佐々波多神社は今は篠畑神社と呼ばれています。

 これを教えて頂いたのは玄松子さんです。

[2103] Re[2009][1989][1988]: 佐々波多神社   2006/05/12(Fri) 23:18 [Reply]
神奈備さま、
> 妖さん、佐々波多神社は今は篠畑神社と呼ばれています。

教えていただいて、どうもありがとうございました。 遅くなりましたが、今日、ようやく行って参りましたので、皆さんのお話には関係の無い話で恐縮ですが、お礼を申し上げようと書き込みさせていただきました。 
所在地の名前が「山辺三」と言うようですけれども、これは山部赤人に因んでいるようでした。
 
榛原から名張へ向かう道筋に所在していて、これは阿紀神社が大宇陀に鎮座し、榛原から吉野への道筋に位置していることと、何か関連性があるようにも感じましたが、私の思い込みかもしれません。

またどうぞよろしくお願いいたします。  

[2102] Re[2092]: ナガラ&Re恋川亭さま  神奈備 2006/05/12(Fri) 16:48 [Reply]
> 船中でおりた新羅神は白龍では?

三井寺の新羅神は寺の北側に鎮座の新羅善神堂に祀られています。
http://kamnavi.jp/it/kinki/onjou.htm

 スサノオ=新羅明神説というのがあります。
 スサノオが竜宮へ行き、竜神となり、中国で山神として示現、次に「素髪の翁」=新
羅明神として船中に示現、というものです。
 山神の姿は人頭蛇身だったようで、白髪ですから白竜と言えるのかも。

 長等神社は最初は天智天皇が須佐之男大神を祀ったのを起源としています。下照姫を

祀った経緯は判りませんが、葛城の式内社に長柄神社があり、やはり下照姫を祀るとさ
れていますが、社名が同じ発音だとは偶然かも。

長等神社仮アップ
http://kamnavi.jog.buttobi.net/en/oumi/nagara.htm

[2101] Re[2092]: ナガラ&Re恋川亭さま  nick [Url] 2006/05/12(Fri) 11:48 [Reply]
MADOKAさん
> 琉球松さま
> >新羅といえば、天智天皇が憎んだ国だったはず
> 天武は新羅 天智は百済 というのがブームでが。。
> 新羅という言葉は曲者です。
> 百済を亡ぼした新羅とその新羅を亡ぼした新羅があってあとの新羅を百済亡命貴族が応援したりややこしい。文献で新羅とあるのは一地方を表す場合と朝鮮半島全域を表すことがあるようです。

==================================

最近、当地の渡来人の調査で
2,3史資料を読んでいます。

宇佐神宮史によると次が散見されます。

弘仁五年(814)
新羅入辛波古知等二十六人、帰化せんとして、
筑前國博多津に漂着す

貞観10年(868)
新羅の海賊、博多津に浸入し、豊前國の年貢絹綿を略奪して逃走す

延喜元年(901)
新羅國、松山村にて鐘(銅)を鋳造す、後、宇佐宮に傳来す

890年頃、新羅に内乱が勃発し分割されたようですから
実際、この901年の場合、どの地方の使者かは明記されていません。
またその後の935年に新羅が滅亡し高麗に変っています。

それ以前、来日のデーターが記載されていませんから
この前後はかなり緊迫し世情が不安定だったことが
これからも想定されます。


[2100] Re[2088] [2083][2082]: 三井寺の長等神社    和亜布 2006/05/12(Fri) 11:47 [Reply]
古代の地球測量には「田の字 地上は□ 天は○の考え 禹系 芦屋ドーマンなど」(篭目 ダビデの星型)
    「☆ 五角形     ダビンチ?         安倍清明 セーマン?」
http://blogs.dion.ne.jp/pentacross/archives/cat_118169.html

新【羅】ラ あみ:古文字(甲骨)では三角網+動物 (続甲骨)では「Υ」(Uの下に|または+の網)
【羅】「目(臣・測量士)+糸(長さを測り 角度を割り出す)+とり(酉、禽 捕り(地形や情報・資源探査・・・商売の胤」)
【羅】の熟語に【羅列】:連なり並ぶ
【羅甸】ラデン(【甸】デン テン かる):現在の貴州省中部の国。ラテン:ラテン語の略
  「かる 狩 薙(「++」「矢」「とり (隼-+) (狩りは古代測量の隠語)」
【羅卒】ラセツ:見まわりの兵士(測量士を兼ねる?)
【羅卒】ラセツ:足が速く 黒い体 赤い髪 「牙」(▽△の牙が上下噛み合う形から?)をもつ 人を食う(まどわす そだてる 人をさそう伝道師?)
【羅紗】ラシャ:西洋からきた毛織物。
【羅馬】ローマ:ローマ帝国。

新【羅】の「新」は「五芒星」での測量士。(「六芒星・・・・田図・【田】:広い土地・人民を養育するところ ・狩猟 狩場などの意味も有ります。
        
「狩場明神は新羅明神?」
「三井寺には「新羅明神」も祀られているようですから・・・」・・・役小角も本堂裏に背中合わせに・・・・

[2099] Re[2098][2094][2093][2091][2089][2088][2083][2082]: 三井寺の長等神社  大三元 2006/05/12(Fri) 11:40 [Reply]
>  「ユムル・ユムズ」は『沖縄古語辞典・琉球語辞典』などではどう解釈されているでしょうか?『記紀』の神話に出る「ヨモツ平坂」とは関係ないでしょうか?

調べていたのですが見あたらないのです。ネット掲示板では「ユームン」が鼠で、「夜・者」と解していますが、「ユムル・ユムズ」の語形に照らすとダメではないか、と思われます。

>  宮古島の一部の方は「ユモツ」とも言っていて「不潔・きたないヤツ」との認識があるようです。

「ユム」「ユン」あたりの音では、罵りに使われて、jumu-dui 嫌な・鳥(=雀)とか jumu-winagu 女め、なんて用例が見られます。

ヨモ(ツ)、ヨミ(の) ですねぇ、まだ解らしいものに行き当たっておりません。

[2098] Re[2094][2093][2091][2089][2088][2083][2082]: 三井寺の長等神社  琉球松 2006/05/12(Fri) 11:26 [Reply]
 なんか、三井寺から離れてしまいましたが(笑)。。。

 「ユムル・ユムズ」は『沖縄古語辞典・琉球語辞典』などではどう解釈されているでしょうか?『記紀』の神話に出る「ヨモツ平坂」とは関係ないでしょうか?
 宮古島の一部の方は「ユモツ」とも言っていて「不潔・きたないヤツ」との認識があるようです。

[2097] Re2095 琉球松さんへ      MADOKA 2006/05/12(Fri) 11:26 [Reply]
>「神仏戦争」が朝鮮半島南部や琉球圏にも及んでいたとは考えられるわけで、『記紀』編纂時の社会の空気を伝えるものではないかと考えたしだいです。

この論点は面白いとおもいます!
この時代の琉球史はさっぱりわからないので、また教えてください。

[2096] Re[2094][2093][2091][2089][2088][2083][2082]: 三井寺の長等神社  琉球松 2006/05/12(Fri) 11:18 [Reply]
 なんか、三井寺から離れてしまいましたが(笑)。。。

 「ユムル・ユムズ」は『沖縄古語辞典・琉球語辞典』などではどう解釈されているでしょうか?『記紀』の神話に出る「ヨモツ平坂」とは関係ないでしょうか?
 宮古島の一部の方は「ユモツ」とも言っていて「不潔・きたないヤツ」との認識があるようです。

[2095] Re[2092]: ナガラ&Re恋川亭さま  琉球松 2006/05/12(Fri) 11:00 [Reply]
 MADOKAさんへ

 軽卒に「新羅」を出してしまいましたが、実はよくわかりません。
 神奈備さんにも迷惑をかけたかも。。。
 ただ、「神仏戦争」が朝鮮半島南部や琉球圏にも及んでいたとは考えられるわけで、『記紀』編纂時の社会の空気を伝えるものではないかと考えたしだいです。

[2094] Re[2093][2091][2089][2088][2083][2082]: 三井寺の長等神社  大三元 2006/05/12(Fri) 10:59 [Reply]
琉球松さん

『琉球語辞典』半田一郎編集(大学書林)には
wencu 【上の人?親の人?】鼠 
とあります。
(cの上に^が上下逆転したものがついています。ウェンチュ あたりでしょうね。)

ユムル がアイヌ語 erum と小規模な音韻変化で通じそうで、これまた ハットしますね・・・

[2093] Re[2091][2089][2088][2083][2082]: 三井寺の長等神社  琉球松 2006/05/12(Fri) 10:31 [Reply]
 大三元さん、貴重な情報ありがとうございます。
 
 琉球方言でいうネズミは、八重山の例とは別に「イエンチャー(伊計島)・ユムル(奄美全域)・ユムズ(宮古諸島)」など2パターンがありますね。
 八重山の「ウヤンチュ」が「鼠。おやひと(祖人)の義」だとすると、伊計島の「イエンチャー」は「祖先"達" 」かもしれません。
 あと、沖縄諸島と与論島に伝わる「シヌグ・スニグ」の祭りでは、弓矢でネズミを殺害するなど、敵対的な関係が伺われるのに対し、奄美諸島でのネズミは神の使いとされてますね。

[2092] ナガラ&Re恋川亭さま      MADOKA 2006/05/12(Fri) 02:46 [Reply]
それなりに無視してお続けください!
恋川亭サン お久しぶり! うれしかったです あまりの皆の沈黙に 隠された鳥居の祟りかとおもってたんで(笑い)玉造ネタは底うち。蘇我氏対物部氏神仏戦争の裏に影で操り&神仏習合を作り上げた某有名氏族!?は現在調査中! お楽しみに。。。

長等神社(これは初めてしりました)
『ナガラ』はなんかありますよ
ちなみに 難波の宮の正式名は
『難波長柄豊嶋宮』
一般的には「ナガラ」は大きな都という意とされていますが わりと『ナガラ』は字違いで結構広範囲に分布
たぶん『ナガラ』は本来『ナーガ』でしょう
長等山にも 九頭龍と霊泉があるようですね
私は随分龍神信仰を追いましたが 龍(巳)を追うと姫神がでてきたり。姫神を追うと新羅神がでてきたり。龍(巳)と姫神と新羅神はイコールではないけれど
リンクした関係にはあるようにおもいますね。

琉球松さま
>新羅といえば、天智天皇が憎んだ国だったはず
天武は新羅 天智は百済 というのがブームでが。。
新羅という言葉は曲者です。
百 済を亡ぼした新羅とその新羅を亡ぼした新羅があってあとの新羅を百済亡命貴族が応援したりややこしい。文献で新羅とあるのは一地方を表す場合と朝鮮半島全 域を表すことがあるようです。渡来人はなんでも秦氏になるように、半島に関係あるものはすべて新羅に繋がる時がある。この原因の一つに拡大した新羅時代の 建国神話に百済、カヤ国等の神話を取り込んでいることがある。日本で言うところのヤマトが一地方を指すときと日本国を表すことがあり&出雲神話その他が天 皇家の歴史に組み込まれて紀記ができたように。。
新羅はタク。 しろい。 白龍。
赤い玉 (姫神)
で タクツタマ(対馬&奈良、大和高田龍王宮)
などがあります。
長等神社の船中でおりた新羅神は白龍では?

連日のロングメールで疲れ気味 
これから ギャラリーです 

[2091] Re[2089][2088][2083][2082]: 三井寺の長等神社  大三元 2006/05/11(Thu) 23:23 [Reply]
それにしても、
> ネズミを、沖縄方言では「エンチュ(円珍?)」と言いますね。
この語形にはハットさせられました。というのは:

「エゾ」の語源は樺太アイヌ語の「エンチュ」だという説があります。(今典拠を提示出来ないけど確か金田一さんの説だったと思う。なお、「エンチュ」が人間を意味すること自体は知里さんの本にも、方言辞典にも書いてある)。

更に(確か)金田一さんは「エンチュ」とは een-ciw であって、優れた・人の意味だ、としていたと思います。

辞書を引いてみると、een は原義としては「尖った」「突出した」という意味合いです。また、北海道の地名、恵庭(エニワ)が een-iwa 尖った・磐 だ、と考えられています。だから「エンチュ」の「エン」は「傑出した」という意味合いがあり得る。

そうすると ciw が「人」の意味に相当することになる。それって、琉球語じゃぁないか! というわけで、アマミンチュやシネリンチュの語尾がアイヌ語にも通用することになる?!?!

し かし、萱野さんの辞書も、田村さんの辞書も、知里さんの諸著書にも ciw=人、というのが出てこない。それでも -iw で6人とかいうときの「人」に当たる語があることはある。また樺太アイヌ語の複数接尾辞に -chin (-shin)があるというが掲載されている用例は全て人(家族)の複数を示す場合だけである。アイヌ達、娘達、こども達、の「達」にあたる。もし- chinが「人」に関する場合だけに使われるならば、これは琉球の「チュ」が相当するのかも???

上記のように、アイヌ語 エンチュ は 親の人 という意味になっても良さそうな意味範囲を持ちそうだが、これが鼠(アイヌ語では ermu (erum とする書もある))とはどうもつながりそうにない。

乱文多謝。

[2090] Re[2089][2088][2083][2082]: 三井寺の長等神社  大三元 2006/05/11(Thu) 21:02 [Reply]
『沖縄古語辞典』では「おや・の・ひと」の項目に:

ねずみ。・・・ウヤンチュという形は沖縄諸島の「ゑンチュ」の古い形であろう。『八重山語彙』のウヤンチュの項には「鼠。おやひと(祖人)の義」とある。

などとあります。鼠を祖先だとする伝承でもあったものでしょうか。

[2089] Re[2088][2083][2082]: 三井寺の長等神社  琉球松 2006/05/11(Thu) 19:06 [Reply]
 神奈備さんへ

 円珍や空海が「鬼の住む島」として恐れたのは沖縄島だと思います。
 と言うのも、沖縄諸島の説話「ミルク(弥勒)とサーカ(釈迦)」で想像するに、当時の沖縄島と奄美を占領?した仏教勢力とは対立関係にあったと考えられるわけです。沖縄諸島でいう「人食い鬼」は北からやってきますね。
 あるいは、天智から天武への政権交代の混乱と、琉球圏の武装化とは何か関係があるかもしれません。

 ちなみに、憎き釈迦が放った意地悪なネズミを、沖縄方言では「エンチュ(円珍?)」と言いますね。

[2088] Re[2083][2082]: 三井寺の長等神社  神奈備 2006/05/11(Thu) 10:46 [Reply]
> 三井寺には「新羅明神」も祀られているようですから、朝鮮半島とも繋がるんでしょうか?

智証大師円珍が入唐求法を終わって帰朝する時に、新羅明神が船中に示現し、のち園城寺に鎮座したというのが縁起です。

円珍さんが唐に行く途中、琉球国喫人の地に漂着、食べられそうになったので不動明王によって風が吹き、無事に唐に到着とのお話が残っています。この琉球とは台湾のことのようですね。

唐へ行く船ですが、唐の商人の船であったとか、新羅の船の案内で唐についたとか、付属した伝承があるようです。

[2087] Re[2085][2082]: 三井寺の長等神社  神奈備 2006/05/11(Thu) 08:48 [Reply]
> 叡山の麓・日吉大社境内の中七社に「宇佐若宮」があり祭神は下照姫神です。
> そちらからの勧請ではないでしょうか。

玄松子さん、ありがとうございます。
宇佐の本来の神様は比売神、多紀理毘賣神もそのうちのお一人、その娘が下照姫神、ということでしょうね。
鼠一匹でした。

[2086] Re[2085][2082]: 三井寺の長等神社  玄松子 2006/05/11(Thu) 08:34 [Reply]
> 円城寺は天台でしたね。

園城寺の間違い。

> そちらからの勧請ではないでしょうか。

調べてないので明言できませんが、
山門派(延暦寺)の日吉大社に対する、寺門派(園城寺)の長等神社という関係かもしれませんね。

[2085] Re[2082]: 三井寺の長等神社  玄松子 2006/05/11(Thu) 08:13 [Reply]
>  昨日、暑い中ですが、園城寺三井寺の鎮守社の長等神社と云う古社に参詣してきました。
>  ここの祭神に、宇佐若宮下照姫大神と言う神の名が見えます。

円城寺は天台でしたね。
叡山の麓・日吉大社境内の中七社に「宇佐若宮」があり祭神は下照姫神です。
そちらからの勧請ではないでしょうか。

[2084] Re[2081]:ゆっくりと待ってぇな  恋川亭 2006/05/11(Thu) 00:58 [Reply]
こんばんわ、MADOKAさん。ごぶさたしてます。
今、へヴィ&ハードな所で奴婢をしとりますので、なかなかご挨拶にも伺えず、失礼をつかまつりますです。近頃は神奈備御老公のお供もかなわず精進しているのですが、御老公は益々意気盛んなご様子で諸国漫遊継続、シリーズを重ねていらっしゃいます。慶賀、慶賀でございます。
 さて、先日来より拝読して驚きつつも感歎、ナニワの深秘のご公開を待ち望んでいるところです。まだまだ、隠し玉をギョーサンお持ちなんでしょ?
 玉造稲荷のおはなし・・・

>  ていうか、玉造がわに仏教派に対する敵対意識はまったくない。が私の知る限り、これ以外の仏教関係や神宮寺話も玉造稲荷には聞かない。ていうことは四天王寺が一時ここにあり、その地主神として玉造稲荷が存在した。この関係は日本初の神宮寺かもね

 すごい、こういう視点が好き!

> (もともと、守屋と太子の戦争が神仏戦争かどうか?という問題はからみますがね。。。)

 そうですね!この、あまりに固定化されすぎた「神仏戦争」解釈。私もあやしい(おかしい)と思います。見抜かなければいけないものを、見落してしまう罠のような話しです。

> だって古代の天皇が都を造営し何度うっちゃらかしたことでしょう。聖武など都があるにも関わらずうろうろうろうろ。造営した都を移転、するにくらぶれば。

 倭・大和・日本という連邦は、弥生時代からすでに(外国から見て)大国といっていいほどの潜在的国力を備えていたこと。この事実に対しブラインドを降ろしてしまうと、古代史は難解になってしまいます。私は外国人の師匠達から何度も繰り返し指摘を受けました。

> たかが一寺院。 そんなことより、なぜ移転したのか?移転していないのならば、なぜそのような話が残っているのかを検証すべきだとおもいますよ。
> それに関わる事実として。地底湖。この地の重要性。石山。鵲森神社。玉造神社の伝承が存在する。

 大阪城の地中深く、神秘的な地底湖の中にそびえる巨大な磐座!!
魅 力的・・・?イヤです、行きまへんで。暗くて狭くて冷たいところは大の苦手です。ましてや地底深く暗水の中など、黄泉の世界そのものでは・・・そそのかさ ないでください。あそこへの水路は太閤さんが浚渫した後、夏の陣でまた埋没。以来400年もの泥に埋まっているはず???唯一の侵入路と推定されるところ は・・・帰還した者なしの・・・(青草でした)。
私のトレージャーハンティングは新鮮な空気がたっぷりある所が限定なんです。

> まあ、私としては、他に意見がでないのであれば。仕切り直したいですなあ。このままでは話がトグロまきそうで。。。

私も「現地確認したい派」ですので、機会があった場合にまた蒸し返すかもしれません。そのときには、よろしくお願いします。

[2083] Re[2082]: 三井寺の長等神社  琉球松 2006/05/11(Thu) 00:19 [Reply]
 神奈備さんへ

 三井寺には「新羅明神」も祀られているようですから、朝鮮半島とも繋がるんでしょうか?
 応神天皇、宇佐神社。。。どこかに縁があるはずなんですけどね。南島からはまったく見えませ〜ん。
 しかも、新羅といえば、天智天皇が憎んだ国だったはずなんですけどね。

[2082] 三井寺の長等神社  神奈備 2006/05/10(Wed) 14:16 [Reply]
 昨日、暑い中ですが、園城寺三井寺の鎮守社の長等神社と云う古社に参詣してきました。
 天智天皇が大津宮の鎮護のため、長等山岩倉に須佐之男大神を祀ったのを起源としていますし、貞観二年(860)に円珍が園城寺の守り神として祀ったといいます。

 ここの祭神に、宇佐若宮下照姫大神と言う神の名が見えます。下照姫神はご存じの通り大国主神の神子と言うことになっており、大阪にはゆかりの女神様です。その神が宇佐若宮の冠をつけて呼ばれているとは、どういうことでしょうか。

 宇佐の神と大国主神とはつながっていると言う理解でいいのか、
 または、宇佐の神とされる応神天皇の遠い祖に当たる天日槍と、逃げた女房の阿迦留比売との関係を、同名と神とされる下照姫神との関連を示しているのでしょうか、
 はたまた、稚国玉下照比売命と言う名で祀る伯耆国汗入郡の壹宮神社の例もあり、これは一体何だ、夫となった天稚彦様イノチでもあるまいしとか、
 宇佐若宮下照姫大神と稚国玉下照比売命を等号で結ぶと、宇佐の神が国魂神となり、たいしたお話にはならないのでが、
 宇佐と下照比売、宇佐神宮の東の海上の姫島との関連など、神社ひとつから十年かかっても解けそうもない疑問が出てきます。
 だから、ヤメラレン。

[2081] Re[2080]      MADOKA 2006/05/10(Wed) 12:31 [Reply]
この話もイキズまってきたようにおもうんですが
まあ、皆さん無視して。次の話打ち込んでくださいよ
(張本人がこういうのもへんですが)

ただ今回改めて、玉造稲荷伝わる伝承を読み直して。妙なことを発見。皆よーく読み直してね。
これって 神道派 仏教派 との戦いの話ですよね
玉造稲荷は どっち派?? 神道派でしょう。
だったらこの話は妙でないかい
だって 玉造稲荷の神域に仏教派が陣を敷き、神道派に勝ち。神池を仏教派が占拠したってこと。
どうして、この話を玉造稲荷が伝承しているか?
聖徳太子の神格化を玉造が利用して創作した?
そ れなら余計内容がおかしい。利用するならこう創作するんじゃない。(神仏戦争のおり。異国の仏教を奉じる聖徳太子。不埒にも玉造稲荷の神域内に陣をはり、 物部守屋を打ち果たす。のみならず。神池のほとりに寺を建立す。稲荷の大神、大いに国を憂い怒る、神意に感応し白龍出現、大地振動し寺はたちまち壊滅す。 聖徳太子、僧侶大いに驚き。稲荷の大神に平伏し、この神域より撤退す。)でないかい?!
 ていうか、玉造がわに仏教派に対する敵対意識はまったくない。が私の知る限り、これ以外の仏教関係や神宮寺話も玉造稲荷には聞かない。ていうことは四天王寺が一時ここにあり、その地主神として玉造稲荷が存在した。この関係は日本初の神宮寺かもね
(もともと、守屋と太子の戦争が神仏戦争かどうか?という問題はからみますがね。。。)

>税金のむだずかい 
殿方らしい 現代人の考え方です
微々たるもんだとおもいますよ
だって古代の天皇が都を造営し何度うっちゃらかしたことでしょう。聖武など都があるにも関わらずうろうろうろうろ。造営した都を移転、するにくらぶれば。
たかが一寺院。 そんなことより、なぜ移転したのか?移転していないのならば、なぜそのような話が残っているのかを検証すべきだとおもいますよ。
そ れに関わる事実として。地底湖。この地の重要性。石山。鵲森神社。玉造神社の伝承が存在する。これをどう読み解くかであって、デマとすればそれを否定でき るだけの論点がないと。文献でも伝承でも寺院跡がでてきたところでそれをどのような視点から読み取るかという問題は残ります。鵲森が一旦焼失したから信憑 性にかけるというなら、四天王寺は何回焼失していることか!宗旨宗派もころころ変わってるし。。。。。。。。

まあ、私としては、他に意見がでないのであれば。仕切り直したいですなあ。このままでは話がトグロまきそうで。。。

反対意見もあるのも重々わかってはいるし、神奈備さんが反対をとなえてくれるのは有難いことですが、どうも意見が他にでそうもないんでね
まあ。神奈備さんが頭が固いわけでもないことはわかっています。なぜなら。。青草掲示版の巻頭に自らお書きですからね(満面の笑み)

素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!

[2080] Re[2079]: Re[2078] Re[2077][2076]: 亀の井  神奈備 2006/05/08(Mon) 18:06 [Reply]
> 普通に考えて、誓いを立てて奇瑞の起こった場所に寺院を建立するのが筋というもの

 船中八策ではないですが、船上での誓いの場合もあろうと思いますが・・・。


> 難波津に他国の船が入って来た時に国家の力を見せつける絶好の場所が上町台地の突端であるこの地である

 よくわかります。年表で考えてみましょう。
587年 用明天皇没
     蘇我物部守屋戦争
     乱を平らぐの後、摂津国に四天王寺を造る
593年 推古天皇即位 聖徳太子が皇太子となる
     始めて四天王寺を難波の荒陵に造る。
604年 聖徳太子斑鳩宮に移る
622年 聖徳太子没
645年 孝徳天皇難波に遷都

 上町台地突端に四天王寺をつくり、早々に荒陵に遷すと言う先見のなさのはずがなく、突端に造ったのであれば、孝徳天皇の遷都にあわせて引っ越しをして50年後、せめてその位は鎮座していてくれないと、税金の無駄遣いになりますね。

 やはり寺院址が出てこないと、靴の上から水虫薬とか二階から目薬です。


> これは随分昔の仮説なんで。私自身が忘れていたんですが。四天王寺問題を白龍から青龍への移行だけでなく。日の出の観測地から日の入りの観測地移ったてい うのもおもしろい。ひょとしたらこの日と水の移行そのものに意味があってわざと四天王寺が移ったことも考えられる(そのプロセスが宗教的に意味があると か。。。東大寺のお水とりのように)

 夕陽が丘、西向きの鳥居、本来南向きに置かれる四天王像が西向きとか、貧狼の情が強勢な半島諸国を摂伏させたいからとの政治的思惑もあったとか。
 今も昔もかわらない半島の貧狼の情。
 

[2079] Re[2078] Re[2077][2076]: 亀の井      MADOKA 2006/05/08(Mon) 05:19 [Reply]
>気の弱い神奈備としてはよう逆らいませんが

ほんまかいな? 殿方にはかないません レディが一言(笑)

四天王寺玉造説の論点は
今井啓一氏の『四天王寺玉造創始考』
古伝の四天王寺が玉造岸にまず営まれ、それが守屋の「難波宅」を没収してのものであったとする
(現 大阪城ホール付近らしい)
でしょう 私もこの書をまだよんでいない(猪飼野古書店主殿。。手に入ったら連絡こう。私買います。)
この書の又書きの又書きを読んでの推察ですが。。。

玉造稲荷神社 由来より
聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際、この玉作岡に陣を敷き「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願されたところ、のちに枝葉が生じ、この戦いも無事に終わったと記されています。(栗岡山と称す)
(これは、有名な四天王寺建立由来の四天王への誓いの場面のことでしょう。 普通に考えて、誓いを立てて奇瑞の起こった場所に寺院を建立するのが筋というもの)
境内の池は白龍池(はくりゅういけ)と呼ばれ、白龍の観音を頂き出現されたところで、雨乞いに霊験ありと伝えられている。なお、もとは社のそばに聖徳太子作の十一面観音を祀る観音堂があった。
(これが。一番の論点でしょう)

四天王寺が我が国最初の国立寺院であり、日本を仏教国とするべく国家的プロジエクトを持った寺
外交的な意味あいも濃い寺院であった。
難波津は外交的意味あいの強い港であり。難波津に
他国の船が入って来た時に国家の力を見せつける絶好の場所が上町台地の突端であるこの地である
だから。難波の宮もここにでき。本願寺も。信長も是非に手に入れたかった・秀吉。徳川。。。調べたところ。五畿内を制圧するのに抑えなければいけないのは。ここ。ここを抑えずして天下を抑えられない。
四天王寺建立後難波津は仏都としての機能をもち、奈良よりも仏教といえば難波!だから古代の仏教反対派が奈良の仏像を難波津に沈めにくる事件が多発
火葬令がで日本初の仏教式墓地も難波でできた
こういう性質を持った四天王寺が伽藍を築くのにこの地をはずすはずがない!
観 音堂は由来地玉造。伽藍は大極殿付近の計画であったのでは。。げんに先にも書きましたが、難波の宮建造時に荒陵を削りの一文あり。。この地が荒陵とよばれ ていた可能性はある。また大極殿からまっすぐに南にくだると仁徳陵などの古墳が連なる日本を代表するレイラインつまりこのラインの突端がこの地。暴言をは けば仁徳陵も本来ここに建造されるべきである。それを上回る実利的な重要性がこの地にあったから古墳が現在この地に一つもないのだとおもわれる。市内で代 表的縄文の貝塚の出土がここということからも。古代首長の古墳がかってはいくつもあり、権力図の変更にともない荒れ果てた状態でいくつもあり荒陵とよばれ ていたのではないか?
>用明二年の記事で「乱を平定後、摂津国に四天王寺を造る。」との記事で玉造の名を出しても不思議ではありません。

摂津国の中心は本来ここです。

>「初めて四天王寺を難波の荒陵に造る。」
 
 上記のことで おはかりください。
 まったく 古墳がないのが逆に証拠

土地感のない人のために
今 述べている場所は駅名でいうと森ノ宮。玉造。谷町6丁目。谷町四丁目。に囲われた一角。有名なものに難波の宮旧跡。NHK。広義に現大阪城。天満あたりま でを指し。一般歴史書には、森ノ宮周辺。法円坂周辺と記されているところです。私は最初の書き込みの都合と玉造(玉作)という地名がこのあたりで一番古い 地名(玉作り部が住んだことに由来)であることと。幾度の造成で移転をよぎなくされた寺社の中で玉造稲荷だけが古代からめんめんとこの場所にあること。
持論がこの一角の中でやや玉造よりであると思うから。あえて玉造説といっています

もとい。四天王寺は今ほどの規模でなくとも一度はこの地に建立された。(今の規模も徳川期以降)
な ぜ移転したのか? 地盤沈下もあるかもしれませんがそれがあるとしたらかなり入江に近い場所。白龍の祭祀場所は入江に近いところにもあったとおもいます が。。伽藍を築くならもっと大極殿に近い場所でしょう。ここが地盤沈下は考えにくい。一番の原因は、白龍池が移動。枯れる。等何らかのことが起きたので は? 琵琶湖ですら。移動。小さくなったり大きくなったりしているのですから。古図ではこのあたりに必ず大きく白龍池は描かれていますが現玉造稲荷内白龍 池は水たまり。どうも水が枯れてほんとに水たまりらしい。古代にも同じことが起こり、余儀なく青龍池信仰の地に移ったのでは。たとえば造営中にとか。。
最 近、昔の白龍池の故地ではないかと思われる場所に猪飼野古書店主につれていってもらいました。清水谷高校の裏手あたりにあるすり鉢状の窪地。なんとここ は、大極殿からまっすぐに南に下った場所。古書店主曰『あんたの言うのは、たわごとやと思ってたが、こういうことがあると一理あるとおもたんや』(笑)
平安京の神宮池も紫シン殿の下にある龍穴(本来 龍穴の上は大極殿 このとき初めて変えた)に力水を与える意味で重要。つまり白龍池が枯れる及び移動はその地に一旦力がなくなることを示す。これは移動するでしょうね。

サングリーンさんの
>私の興味はもっと古い時代、6000年前(河内湾時代)〜2500年前(河内潟時代)です。(中略)
真 水の湧く井戸が水の神の聖地として祀られていた。同時に、対岸の生駒山から登る太陽を祭祀する聖地のイワクラ(巨石)があったはずです。それが、後世の石 山か?私はその場所に興味があります。そこはたぶん夏至の日に(枚岡神社奥宮・春日の元宮)から登る朝日が真東に観測できるポイントに違いないと思うので す。つまり、古代に暦を読むことのできる高台にあったイワクラの場所を探しているのです。

これは、四天王寺及び玉造に私がこだわった原因とも重なる説。石山が太陽観察のイワクラとはおもいつかなったけどね。
上 記の説は政治的見解を主としていますが、私の最大の興味は古代祭祀跡。古代祭祀跡の聖地にだいたい寺が建っており、四天王寺は面白い例だったのでしらべは じめたのよね。四天王寺は調べれば調べるほど神仏混交どころか俗信信仰もまじって、四天王寺の僧侶にも全部をどうやって四天王寺の教義と結び付けて説明す るか?正直できないらしい。たぶんあんな寺は他にはない。でもその分古い祭祀の痕跡を残す寺でもあるということです。
大阪市史にあるように大阪は 日本の中でも有数の太陽信仰の祭祀場所であることに興味を持ち日想感で有名な四天王寺を調べたのが発端。また垣武天皇の時代が好きで難波津遷都を調べてい たのがかさなったのよ。調べてみると聖武も6回と古代の天皇は一時荒れ果てているはずのこの地にやたらくるんだなあ。おかしいおかしいと調べているうちに 謎の古代祭祀八十嶋祭りにいきついた。それが難波津聖地説の元。当初、太陽を追う古代の日子を追っていたんですが限界を感じて、痕跡のある水神 龍を追い 始めて現在にいたる。またここでそれが重なるとはねえ。でも当然かもしれない世界のいかなる宗教も火と水の洗礼を持たないものはない!
垣武もこの地に天壇をきづいたというはなしもあり(何に書いてあるか不明)
火と日は重なるでしょう
先にも書きましたが大極殿(龍穴)は春日大社の太陽祭祀(私には不明 サングリーンさんの方がお得意でしょう)と直線につながるというのは当然聖山生駒の平岡神社の奥宮と繋がるんでないの?
私は石山の発見場所はこの大極殿だと思う
(シャーマニックな人は大極殿の上に立つとパワーを感じるらしい)
夏至の日にここで観測会したら? 私も参加!!

わ たしも最初は大極殿の場所にこだわった。なぜならここが大阪で一番の高台。十階だての高さの櫓を作れば。生駒から上る太陽が河内湖に太陽の道をつくり真上 に来たあと西の海に太陽の道をつくりながら沈むのも観測できる!この高さは古代工法でも可能だ!!これこそが難波津にかかる天の浮橋(上町台地)に立てら れた天の御柱である!(大阪に残る幻の巨樹神話はこの痕跡)てえのが私の当初の説
論証できないのとオカルト扱いされるので、地底湖発見から四天王寺にかこつけてやや立証できそうな玉造説なのじゃ。(サングリーンさんはこっちの方が好きでしょが)
こ れは随分昔の仮説なんで。私自身が忘れていたんですが。四天王寺問題を白龍から青龍への移行だけでなく。日の出の観測地から日の入りの観測地移ったていう のもおもしろい。ひょとしたらこの日と水の移行そのものに意味があってわざと四天王寺が移ったことも考えられる(そのプロセスが宗教的に意味があると か。。。東大寺のお水とりのように)

城東区の広報のホームページで森町(森の宮町と本来ほとんど一緒らしい)の由来で『昔・ここが玉造江であった頃。大蛇ヶ淵(おろちがふち)があった』を発見
大蛇て龍なんちゃうん! こりや頂き!!

>一説では亀の井は万病に効く霊泉の温泉だったとも

なに温泉!! 
今玉造と森ノ宮の間。仁丹と京セラミタの間に天然温泉をボーリングした温泉付きタワーマンションができたんだけど『SPRINGS TOWER OSAKA』
これは場所的に 霊泉 亀の井 と源泉は同じでは!
一般にはクローズの大浴場がある。
誰か 知り合いいない! 紹介してくれ!!
いきたーーーーい!! ツアーです!!!!
(近くにオールナイトで有名な玉造温泉があるが調べたところ天然温泉ではなかった ガックし・・・・)

[2078] Re[2077][2076]: 亀の井  サン・グリーン 2006/05/07(Sun) 09:45 [Reply]
>  女性陣がそろって四天王寺玉造説をとなえておられるので、気の弱い神奈備としてはよう逆らいませんが、一言二言。
>
神奈備さま
私は決して四天王寺玉造説に同調しているわけではありませぇ〜ん。
城や神社仏閣などという人間が建てた建造物には余り興味はありません。

私の興味はもっと古い時代、6000年前(河内湾時代)〜2500年前(河内潟時代)です。
つまり、その時代は上町台地は海に突き出した半島で、森之宮は湖か海の岸辺だった(その証拠に縄文時代の大きな貝塚が発見されています)そのころ、真水の湧く井戸が水の神の聖地として祀られていた。それが後世の亀の井か?
同時に、対岸の生駒山から登る太陽を祭祀する聖地のイワクラ(巨石)があったはずです。それが、後世の石山か?
私はその場所に興味があります。そこはたぶん夏至の日に(枚岡神社奥宮・春日の元宮)から登る朝日が真東に観測できるポイントに違いないと思うのです。
つまり、古代に暦を読むことのできる高台にあったイワクラの場所を探しているのです。
そこが、河内王朝または古代難波・浪速王朝(謎の倭の五王時代?)の拠点だったのでは?

今の四天王寺の西門からは春・秋の太陽が真西に沈むことは周知の事実ですし、なにわの古代史を考える上で古代〜上代の太陽祭祀の場所を探ることは欠かせないのではと想像しています。

[2077] Re[2076]: 亀の井  神奈備 2006/05/06(Sat) 21:08 [Reply]
 女性陣がそろって四天王寺玉造説をとなえておられるので、気の弱い神奈備としてはよう逆らいませんが、一言二言。

  玉造説の根拠は『上宮聖徳太子伝補闕記』で、これは平安時代前期に書かれた文献です。だからと言って信用しないと言うことではありません。より聖徳太子の 時代に近い『日本書紀』でも太子の聖人化は進んでいますので、もし、四天王寺が玉造に建立されたら、用明二年の記事で「乱を平定後、摂津国に四天王寺を造 る。」との記事で玉造の名を出しても不思議ではありません。
 また「初めて四天王寺を難波の荒陵に造る。」と地名入りの記事が出てくる推古元年の記事をどう解釈するかです。

 鵲森宮については、祭神を用明天皇と言うが、往古兵難囘祿によって旧記を焼失す。故に之伝未詳。(難波丸綱目)
 とあるのが正直な所でしょう。

 『摂津名所図絵大成』
 森宮
 本社 橘豊日尊(用明天皇) 相伝 素盞嗚尊
 摂社 五幸神社 本社の後にあり 宇賀魂神を祭る 大国社 大己貴尊を祭る
 真目社 布留魂神を祭る 春日社 天満宮
 以下略

  これで面白いのは布留魂神で物部の神のようです。江戸時代の『摂津志』には物部大連の難波の第址を森村にありとしていますが、勿論その址は詳らかではあり ません。磐船神社があったのかも。玉造に初期の大きくはないかも知れない四天王寺を建立したとすれば、矛盾はないことになりますが、真目社の創建について は判っていません。

[2076] 亀の井  サン・グリーン 2006/05/06(Sat) 17:01 [Reply]
神奈備さま&MADOKAちゃんへ、

この亀の井は私も数年前に探し歩いたことがあります。
そして森の宮神社の石崎宮司さんにお尋ねしたところ、道路拡張工事の際に買収され今はJR森之宮駅の下に…トホホ・・・
ここは聖徳太子がご両親をお祭した聖地です。
太子は仏教は民衆に広めましたが、先祖供養とご両親はちゃんと神道でお祭しておられることが判って太子を見直しました。
おっと、問題はそうではなく、霊能者聖徳太子がこの地を選んだ理由?です。
今は見る影もありませんが、一方が森之宮で中央大通り と交差している玉造筋に面しています。残りの三方はビルに囲まれて箱庭のような小さな小さな神社ですが、宇賀御魂命を祀る日本唯一の五幸稲荷社と説明にあるのが、意味深でしょう。
一説では亀の井は万病に効く霊泉の温泉だったとも…
秀吉がこの地にこだわった理由もなんとなく見えてくるかもね?



589年(崇峻天皇2年)
聖徳太子が父母の用明天皇と穴穂部間人皇后を神として祀り、
その後、この森に元四天王寺を建立されたのが始まり。
かつての境内地はかなり広く、神領は千石余あり
本殿、拝殿始め楼門に至るまで華麗で、
目を驚かすばかりだったと伝わる。

正式社名を鵲森宮(かささぎもりのみや)と云うのは、
推古天皇の時代に
鉄工業の祖・吉士磐金(きしのいわかね)と云う人が
朝鮮から持ち帰った鵲(俗に朝鮮鳥)二羽を献上し、
この森で飼ったことからで、
今では略して「森之宮」又は「森明神」となった。

[2075] Re[2074] Re[2072]: 隠された地底湖      MADOKA 2006/05/06(Sat) 07:39 [Reply]
> 環状線の森ノ宮駅南西付近が旧四天王寺の場所との説がある場所ですね。

そうですが、特に私は、難波の宮。石山本願寺。秀吉時代の大阪城。の重なる場所と考えています

>伝承ではここの水を移して同じく亀井と名付けたとあります
  
  亀井こそが龍の守る、生死をつかさどる竜宮から       の  おとしみず だから意味がある。
 
 四天王寺の移転の原因は河内湾が干上がりだしたこともおおきな原因でしょう

>いずれにしろ、地底湖を認識していて、四天王寺を移設したとするならば、ダウジングロッドの知恵があったのでしょう。
   
当然です。 ないほうがおかしい

>しかし、玉造からは飛鳥時代の瓦などは出土しているものの、未だ寺院跡は出ておらず、また物部守屋の合戦とその領地から見れば、はなから荒陵の現四天王寺の場所がよろしいようです。

 寺院跡をみつけるのは奇跡にちかい
 ここは今でいう 行政区 一区か2.3区を更地にして大造営したことが何回もある場所
 現 大阪城は徳川が作った城(天守閣は戦後)
秀吉時代の大阪城は目にみえる範囲では石垣一つもないといってもいい
 たかだか。500年にもならない石山本願寺跡も秀吉時代の遺構も探しあぐねているというのに。。。

 難波の宮造営時に荒稜をくずしという記述がある
 だいたい このあたりに古墳が一つもないということのほうがはるかに不自然

また。伊勢街道と熊野街道が唯一重なる場所もここです

土地の気脈的にもここは重要
大極殿があるということは。その下は龍穴です
またこの場所は春日大社の奥宮の太陽の祭祀場所から直線でつながるという話もある

なにより。ここが古代より近代にいたるまで。大阪でもっとも重要な諸点としてありつづけた
私がこの場所にこだわりだしたのは、日本史上の時の権力者がこぞって、どうしてこの場所をこうも熱心に欲するのか?という疑問からでした
  
>玉造地下にも地底湖があり、逆に四天王寺創建の場所伝説が出来たのかも知れません。

 この考えの方がはるかに不自然です

最後に玉造稲荷の宮司さんの迷言
 ここは なにもかもがあってもおかしくない場所ただあまりに変わりすぎて、証明することができない。証明することができないということは否定することもできない。だからどんなことでもいえる場所です! (笑い)

[2074] Re[2072]: 隠された地底湖  神奈備 2006/05/05(Fri) 21:33 [Reply]
> なによりの証拠は、この地(玉造稲荷神社の地下に)地底湖が存在する事実!
> 上町台地にもう一カ所地底湖が存在する。四天王寺の下である。

 環状線の森ノ宮駅南西付近が旧四天王寺の場所との説がある場所ですね。伝承ではここの水を移して同じく亀井と名付けたとあります。これは面白いお話です。地底湖の水は生駒山系に降った雨だそうで、地底湖はつながっているのかも知れません。
 森ノ宮駅の東側に平野川(猫間川)が流れていますが、たいして深くなさそうです。あまり深いと地底湖とつながってしまいます。それが四天王寺の南側に和気清麻呂が運河工事を試みて失敗したのはこの地底湖の水の溢れだったと思っています。
  いずれにしろ、地底湖を認識していて、四天王寺を移設したとするならば、ダウジングロッドの知恵があったのでしょう。しかし、玉造からは飛鳥時代の瓦など は出土しているものの、未だ寺院跡は出ておらず、また物部守屋の合戦とその領地から見れば、はなから荒陵の現四天王寺の場所がよろしいようです。
 玉造地下にも地底湖があり、逆に四天王寺創建の場所伝説が出来たのかも知れません。

[2073] Re[2072]: 隠された地底湖  神奈備 2006/05/05(Fri) 15:23 [Reply]
> 再度確認した所 隠された鳥居は8つ

 鳥居の写真は↓写真掲示板に。
http://res9.7777.net/bbs/kamnavi/

手のひら4枚分の大きさ、7m〜10m間隔でぶら下がっている。
何となく小便の臭いがただようような気配。
MADOKAさんが臭いの中で勘定しているイメージを想像するのも楽しい。

塀の道を挟んで東側に鎮座の稲荷社。
若松大神、松ノ木大神、三吉大神。
この写真もつでにアップ。

[2072] 隠された地底湖  MADOKA 2006/05/05(Fri) 13:54 [Reply]
塀の外側でも敷地内です。
みどりさんのメールは 想定内!
再度確認した所 隠された鳥居は8つ
どうも 青草に臭いをつけてごめんなさい。

御清めの意味でここがいかに聖地か話(マジ)

現 在ここは、女学院、城星学園というクリスチャン系私学とクリスチャンセンターなにより大聖堂をもつ玉造教会がある。この教会はローマ法王の選出権を持つ枢 機卿を選ぶ選挙権を持つ(たしか日本ではあと1か2)宗派に違いはあれど大阪府内ひょっとしたら近畿最大のキリスト教の発信基地である。
おもしろいのはこの地が日本史上有名なクリスチャン
細川ガラシャの自害した、細川屋敷跡。井戸が残っていて 越中井として名高い。どうしてこの場所に後世クリスチャン施設が建ったのか?ガラシャの威徳を偲んでこの場所を選んだのか?隠れキリシタンがいたのか?たんなる偶然か?不明?
ここは秀吉時代の大阪城内、大阪夏の陣か冬の陣にクリスチャンの十字軍が秀頼を援軍して出陣している。合戦絵図に描かれている。秀吉はキリスト教を途中で認めなくなったが、秀頼を援軍して戦いに勝てば認めてくれるのではというのが動機らしい。
秀頼は秀吉供養のため、莫大な寄付を神社。仏閣にしている。現在 近畿内の重要文化財指定の桃山時代のものの大半は秀頼建立 寄付 現代まで残っているものですらである。秀頼の縁がほしかったはず。
 またこの場所の次の通りが法円坂
蓮如が霊感を感じて、本願寺建立のため掘ったところ、地中より石山が。四天王寺建立の聖徳太子が後世のために石山を埋めたという予言通りと感激。石山本願寺の由来であり。仏縁から法縁>法円坂>大坂
石山が重要だったのは、城や寺を作るのに必要な大きな石。これが上町台地の地層には産出しない。秀吉が石垣のため機内の古墳を荒らしたり。イワクラを持ち出そうとしたのもこのためである。
 ここまでは知られた話である。
ではこの石山の正体は?
こ のあたりにあったとされる(異説あり)磐舟神社の御神体!であると思う。貴船神社の御神体のような舟の形に積まれた石山!なぜなら、これなら水の神を祭っ ているはず。浪速古図などでこのあたりに必ず描かれたのが白龍池である。現在ミニ版で玉造稲荷神社に残る。またこの地は、千利休が秀吉に茶を立てるための 草庵をつくった清水谷
なによりの証拠は、この地の地下に地底湖が存在する事実! 大阪市水道記念館 内のビデオ『三都水物語』に地図資料がある。 この資料で重要なのは、上町台地にもう一カ所地底湖が存在する。四天王寺の下である。信仰の厚い『亀の井』の水は、ここから湧きでたもの。信仰上では亀の 池の地下で青龍が守る聖なる水が亀の井の水で卒塔婆をつけるとあの世に供養が届くとされている。四天王寺はもと玉造にあったという説の立証。聖なる地底湖 のある場所からもう一つの場所に移ったのだ!一説に玉造からの移転は地盤沈下のためともきく。地底湖の存在からうなずける。白龍池は地底湖の湧き出たも の。であり現 四天王寺 下の青龍池と対をなす!
蛇足。玉造稲荷の宮司さんに聞いたところ。こしあん製造業が昔付近にあった。これもおもしろい、今、四天王寺名物で売り出し中の(茜丸のどらやき)の宣伝文によるとこしあん作りに重要なのは良質の水。四天王寺界隈は水がいいのが発端らしい。
 ということで、キリスト教、仏教、神道。
三つの縁起が重なる 玉造聖地説!!!
聖なる水の洗礼で青草も清まったかな?
 いつも通りの流れで アクセス書き込み 
   OK! でしょう よろしくね!!!!


[2071] Re[2070][2067][2065]: 閑話休題  神奈備 2006/05/05(Fri) 10:57 [Reply]
> ところで、大阪女学院の卒業生として神奈備さまにクレーム!
> 上記2065の書き込みは誤解を招きかねない大変不名誉な文章です!!!
> 神奈備さまにイエローカード!

 塀の外と内側とでは大違いでした。ホリエモンで3億円。

 塀の外とは思いつかず、最初は男の教職員かと想定したのですが、この方が考えにくい所。で、学生に罪を押しつけましたが、もちろん小生の推測で、確認した訳ではありません。
>最近の女学生は構内で並んでやるそうだ。
> 若い女の連れ立ちション。
これは取り消します。
関係各位の皆さんには謹んでお詫びいたします。

[2070] Re[2067][2065]: 閑話休題  サン・グリーン 2006/05/05(Fri) 09:38 [Reply]
> MADOKAさん ウエルカム!
>
> 立ち小便禁止の標し。最近の女学生は構内で並んでやるそうだ。
> 若い女の連れ立ちション。
> 世も末だ。

MADOKAちゃん(*^_^*)
パソコン快調のようですね。
神奈備さまとのご縁をむすひさせて頂いたキューピットとしても大歓迎!これからさぞ賑やかになることでしょうね。
ところで、大阪女学院の卒業生として神奈備さまにクレーム!
上記2065の書き込みは誤解を招きかねない大変不名誉な文章です!!!
神奈備さまにイエローカード!

[2069] 答え&隠された鳥居  MADOKA 2006/05/05(Fri) 01:36 [Reply]
流石!大御所神奈備さん鋭い考察!&毒舌!
ネット界の御意見番 大久保彦衛門ですなあ
最初のが正解!!!
ただし、女子学生のではない! 
学校の名誉のために!
ある場所は学校の裏門にあたる塀の外側
この場所は公園に隣接していて不法駐車が多い
けしからぬことをするヤカラが多いので剛をにやしたガードマン?が取り付けたのでしょう(未確認)
アイビーが生い茂っていて夏場は「隠された鳥居」とかす。(笑)見ごろは冬 はっきり出現!!
立ちション禁止の由来は鳥居は神聖、よからぬことをすると罰があたるでしょう。。じゃあやっぱり この際十字架でしょうが。そういう力が十字架にないのか?教義にあわない?神道への冒涜?じっと考えると妙に笑える。
なんの違和感もなく風景に溶け込んでいるのがとってもジャパネスク!?神仏(キリ?)習合からなる俗信信仰の原点がみられるケースとして取り上げてみました。
こ れが外国で仏教系&神道系学校の塀に同じ目的で十字架とかダビデの星が並んでいたら戦争ですわ。最近イスラム教の教祖モハメッドをテロリストにした漫画を 載せた仏紙がイスラム教信徒の激怒をかい暴動事件。。。こーんな洒落は日本でしか無理!(ただこの事件は当然!イスラムの教義に大きくそむいたから。イス ラム教は教祖の似顔絵。像を作ってはならない!という厳しい戒律がある。その意味は、もし後世、その似顔絵によく似た人物が現れたら惑わされる人がでるか ら。信仰を正しく守るための戒律。激怒して当然ましてテロリストに似せるなど火に油。この神経過敏な時期にこれをのせた仏紙はアホです。
この報道を顔なしで報道したNHKは正解ですが、この宗教的バックボーンを報道しなかったのは落ち度。
イスラム教は過激と印象を植えつけた。報道には責任をもっていただきたいものです)
もとい。まあ、今回はやられました。無念。ヒントだしすぎ?
ただ、ここが神社の跡地というのは知らなかった。これは玉造聖地説(マジ)に頂き。また今度教えてください。
もうすこし、答えは送らせたかったのですが。神奈備一報の強烈なイメージ図に皆さん固まってしまったようですので(笑)解凍 回答
注意!女子学生ツレOOの噂はながさないでね!
    神奈備さんの妄想ですから(笑い)

[2068] Re[2067][2065]: 閑話休題  神奈備 2006/05/04(Thu) 20:41 [Reply]
陸奥国青麻三光宮より勧請した三光神社と合併した嬪山神社の旧地であり、 女学院の創立者はキリスト教徒であっても日本人の血が流れていたので、是非、嬪山神社の跡地に大学を建てたいと願った。結局、三光神社の祭神、日、月、山 の神と嬪山神社の祭神、仁徳帝、八幡神、稲荷神、風神のあわせて七柱の神を地主神とすることで合意した。その名残である。

[2067] Re[2065]: 閑話休題  神奈備 2006/05/04(Thu) 14:52 [Reply]
MADOKAさん ウエルカム!

立ち小便禁止の標し。最近の女学生は構内で並んでやるそうだ。
若い女の連れ立ちション。
世も末だ。

[2065] 閑話休題  MADOKA 2006/05/04(Thu) 07:15 [Reply]
おじゃまします。 お初です。
神奈備 オフ会では御馴染みです

大名持神社 おなんじ
日。星。月。 三光
オオナムチ アカルヒメ ウガノミタマ
舟橋伝説を追う私としてはムラムラ
するほど書きたいですが。。。

今回は御挨拶と 手土産で
手土産は青草クイズ?
掲示版の議論の合間の閑話休題で。かーるく答えてね

大阪女学院 大阪では歴史ある
クリスチャン系私学である
この敷地内に赤の鳥居が7つある
なぜ???

あまり真面目に考えてはいけない
しかし。青草ですが 実在する

ヒント
1.赤の鳥居は手のひらだい
横に間隔をあけて 一列に並んでいる

やわらか頭してますか?
お答えください IQサプリ

[2064] 北上川流域の石碑、三光青麻「日」、「月」、「星」信仰について  東沢美史 2006/05/03(Wed) 14:57 [Reply]
nickさん、細々と竹細工業してます。宮之城については少し知ってましたよ。写真よかったら見せてください。

神奈備さま。
国 語的に多く間違った書き込みなのに花田清輝を引いていただき光栄ですが、学歴ばかりか学力も無く、血の気の多いハッタリだけで書かせていただいてます。ア ジロ組みザルは底から作り始めます。ヒゴの1本目を置き、2本目で十字に、3本目で伸びた「コ」の字、4本目で「井」の形なのですがここが近江多賀神社の 箆(ヘラ)、ノノ様と同じ意味になります。しかしご質問はこれら工法手順のことではなく、おそらく「日」「月」「星」が並ぶ信仰・伝説のほうですね。

こ れは、私が子供の頃に「おづぎ・おほす」、「ウグイスになった継子」、「継子と鳥」などという感じの題で聞いた短い話しをあちこち覚えていたもので最近、 山窩(サンカ)という言葉の源流を探してる最中に急に思い出し気付いた伝説のことです。これを調べるためにどうしてもしっかりした昔話の資料が見たくな り、地元の民話研究家・佐々木徳夫氏や他の研究者の採取した昔話の本やレコードを探してたら長く内容の濃い三光の「お月お星」の話しを見つけました。関東 ではこれが「お銀小銀」という題になってるようです。

主に旧仙台藩に伝わるこれらのを要約しますと、お日様と月と雷(天神菅原?、蘇我氏?)が旅に出たのだが旅先で朝起きたら月日は朝に早く立ち雷は夕立だった。

お 天道(日)様である男の後妻となったモグラ(土竜・もぐらもち)が先妻の娘「お月」と連れ子の「お星」を殺し山に埋めたが悔やんでモグラが唐鋤(からす き)で土を掘ったら生き返った。娘が行方不明で探してたが悲しくて盲目になったお天道(日)様である父親が旅先で二人の娘に出会い「お月」の涙で右目が開 いて「お星」の涙で左目が見えるようになり、やがて3人は天に昇った。
後妻のモグラが自分で掘った?井戸を覗くと3つの光りが見え、お空を見上げたらなんとお天道(日)様と月と星が並んで光ってた(オリオン座の三ツ星では?)。

あるいは、別の地域になると死んでウグイスに化けた娘の「お月」と「お星」が梅の木?に留まり父親に「日、月、星〜、日、月、星〜」とさえずったという伝説や昔話の断片も先月図書館で見つけ確認しました。
唐 鋤の刃先部分と土穴を掘るモグラの手は似てる。唐鋤を牽くのは牛馬(地元では牛頭天王&馬頭観音の石碑が多く並ぶ)。現代から見ると農具なのに孝謙天皇が ナゼか正倉院に納めてる。オリオン座の良く知られてる和名は「からすき星」。三光とは旧仙台藩で「日、月、星」のことなどであり、オリオン座の「三ツ星」 のことです。

正月14日の夜に神社境内で松竹の注連飾りを燃やし竹が割れてドンと大きな音を鳴らす行事を関西で「とんど祭り」とか言うらしいけど、こちらでは「どんと祭り」と言います(井戸の井という漢字の中に点「、」が入ると「丼」となる)。
また翌1月15日には土中のモグラを脅かすのにナマコをミニ俵に包み縄で結わえて「ナマコ殿のお通り」と言いながらかつては田畑をひいて子供達が歩きました。

こ れらの言い伝えを昔の人は子供なりに太陽や月や北極星を象徴とする豪族なり王族がいたんだろうかと無責任に夢想しボーッと解釈してただろうということにす ぎないのですが、記紀の「天の岩戸開き」や天宇受売命のナイフによる残酷なナマコの口切りとは似て非なる庶民の神話や歴史観があったことにも気付かされる ような気がします。
さらに天之御中主神、天照大神、月読命を祀るという仙台岩切の青麻岩戸三光宮、青麻神社とも幾分違う景色が見えるのではないでしょうか。

底 をアジロで組んだ魚篭や笊(ザル)を昼間外で頭に被ると星がたくさんあるように見えます。仙台では仕上がった笊の底に補強竹を井桁状に「つるかけ」しま す。またこれを被ることは普通、忌避されており、それでも被るのは私や「ほいど拝み」や七福神や世捨て人などなどでしょう。


[2063] 「筒」は古代中国 天文施設らしいです。  和亜布 2006/05/03(Wed) 00:21 [Reply]
参考HPとなれば幸いです。筒を覗いたときの北斗七星の位置が上(表)中 下(底)筒?
津通ツツウ・・・・東に向かう[道]?
「 表 」
「圭表」と称して;日の影長短を測定するために用いて、だからまた「日の尺をはかる」と呼ぶ。
鬼 の臾は星占いが怒ることを分けて、天文に対してすでに専門的研究したことがあって、再び唐尭を経験して、虞舜、夏朝、殷商はそれぞれで、已はとても難しく 当時の成就を考察して、週末に到達して、するとすでにそれぞれの惑星軌道の相違をはっきり知っていて、理由の屈原《天は質問する》有雲:『まるく9層が あって、誰の営度之。』

http://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,eCR-CJ,bT,hT,uaHR0cDovL3d3dy5idWQub3JnLnR3L2Fuc3dlci8wMTAzLzAxMDMxMDkuaHRt,f20060502221649-1,cYmlnNQ==,qlang=ja|for=0|sp=-5|fs=100%|fb=0|fi=0|fc=FF0000|db=T|eid=CR-EJ,
「 筒 」
もしかすると「上下することを分けることを測定する。」・・・上筒? 下筒? 「表」は直立する測量竿・・・表筒?
公は景台が両部分を上下することを分けることを測定する。下は小下の大きさに上がって柳の形錐体状を呈する圭で、ゴッホ1.95メートル。上側は長方形石柱として、すなわち表で
圭 表は「表」と「圭」から組成する。「表」は直立する測量竿で、「圭」は南北平放の尺です。相違季節太陽に天上の軌跡に相違があるので、表投影到圭上からの 日の影はすでに生活についていくことができてそれで変化する。毎日の正午時間太陽によった映写は比較することに来る、1年中の日の影が最長である生活は冬 至で、それで日の影は最短のものは夏至です。
http://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,eCR-CJ,bT,hT,uaHR0cDovL3d3dy5sY3NkLmdvdi5oay9DRS9NdXNldW0vU2NpZW5jZS9hY2EvQUNBJTIwUmVmZXJlbmNlJTIwNCUyMC1UaW1lcnMuaHRt,f20060502223050-0,cYmlnNQ==,qlang=ja|for=0|sp=-5|fs=100%|fb=0|fi=0|fc=FF0000|db=T|eid=CR-EJ,

「筒」の文字を発見!
1年中と日を測定して、月、星が泊まるアロケーション;中の層は「4の游計」として、有望な「筒」が目標をうかがい知るために設ける。

復元 水運儀象台(天文観測兼時計台)
http://homepage3.nifty.com/araishi/c_gisyodai.htm
漫遊星光隧道 中國古天文學
http://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,eCR-CJ,bT,hT,uaHR0cDovL2xpYi5mZy50cC5lZHUudHcvc2lub3JhbWEvMjAwMS85JUE0JUVCLyVCQSVBOSVCOUMlQUNQJUE1JUZBJUMwRyVCOUQlQTJ3JUEydyVBNCVBNCVCMCVFQSVBNWolQTQlRDElQTQlRTUlQkUlQzcuaHRt,f20060502233216-1,cYmlnNQ==,qlang=ja|for=0|sp=-5|fs=100%|fb=0|fi=0|fc=FF0000|db=T|eid=CR-EJ,
([このページを和訳 ]を御利用ください。)

[2062] Re[2060]: 南米蒙古ヤーガン族の「フェゴ」と「ヒゴ」、「アジロ」と「オリオン座)」  nick [Url] 2006/05/02(Tue) 21:35 [Reply]
東沢美史 さん、こんばんわ。

竹細工をおやりになっているのですか。
昔は当地の鹿児島神宮の参道脇の住宅地はどこも「竹薮」で
職人の方々も多数居られましたが、、、
生涯学習でご高齢の方が月1程度の教室で指導されているようで、
何とか「隼人の伝統を継承している」のが実情です。

竹細工教室に関しては、ご存知と思いますが、「さつま町の宮之城」で
「かぐや姫」伝承に倣い町興しの一環として取り組んでいます。
(残念ながら、当地隼人にはありません)
ここでは確か竹細製品の作成テキストも発行していたと記憶しています。

鰻をとる「ビク」や「タカツツ」等は今でもたまに見かけます。
幼い頃は自作してましたが、、少しやると蘇るかもしれませんが。

どこかで製品を撮ってみましょう。

[2061] Re[2060]: 南米蒙古ヤーガン族の「フェゴ」と「ヒゴ」、「アジロ」と「オリオン座)」  神奈備 2006/05/02(Tue) 18:12 [Reply]
東沢美史さん、投稿ありがとうございます。また長期に渡ってごらん頂き、ありがとうございます。

> 古代の神々の姿は奇人&天才の美的でアバンギャルドな解釈にのみ真実が存在すると考えていますので「青草」が一番好きです。

青草に対してのお言葉、感謝いたします。神々の姿とアバンギャルドがつながってしまうとの発想、花田清輝も真っ青でしょう。

> フェゴ

火に対して、ヒ、ファイア、カ(ハ)など世界共通の発音がありそうですね。


> ヒゴを1本、2本、3本、4本と組んだところで漢字の「井」の字形になり、宮城ではここに「点」が3つあり「もぐらもち(木地氏の小椋?)」が覗くと消えた王朝を示すことになるのだろうか?お空の「日」「月」「星」が並んで光るという伝説が各地に多くあります。

 この辺り、もう少し解説しおて頂けませんか? もうひとつよくわかりません。




[2060] 南米蒙古ヤーガン族の「フェゴ」と「ヒゴ」、「アジロ」と「オリオン座)」  東沢美史 2006/05/01(Mon) 23:53 [Reply]
神奈備さま、みなさま

はじめまして。秀吉からの迫害をう けながらも守りとうした大崎氏の諏訪神社(祭神:五十猛命)に幾度もお参りしてた宮城県で竹細工を生業としてる者です。お諏訪さまが掲載されたときはうれ しかったです。投稿は初めてになりますがこのサイトを読みはじめて6年目にはいりました。
古代の神々の姿は奇人&天才の美的でアバンギャルドな解釈にのみ真実が存在すると考えていますので「青草」が一番好きです。

恋川亭さんの貴重な報告文[2044] を引用掲載させていただきます。
>老母がその祖父母(私からは曽祖父母)から、『フェゴを焚かんか(焚きなさい)』とよく任されていたことを思い出したことによります。

nickさんの文[2053]も引用掲載させていただきます。
>「ヘゴ」なら竹細工をする時、竹を小さく切り分け、網状の1本にした物を
呼ぶこともありますが。

先週のTBS「世界ふしぎ発見」の「フェゴ」を「ヘゴ」のこととおっしゃいました。
こ れを鹿児島の方々や民俗学の学者さんや「かご文化図鑑」の訳者さんは「ヘギ」と呼んでます。私の住む仙台平野では「ヘゲ」ですが、冬の朝に釜戸、竃、クド でご飯を炊くとき焚き付けに火を付けると暖かい灰の中に寝てた猫が慌てて飛び出てきたものですがこれを「ヘゲ猫」とも言いました。この竹を割って削ったも のの語源についてここ数年ずっと調べていました。ただし「ヘゴ」の標準語は「ヒゴ」でしょう。

もう一つ鹿児島と陸奥仙臺(川内)に共通するものに浦島太郎や恵比寿が腰に下げてる「魚篭(ビク)」に近い竹編みの篭がありますが、これを「ふご・畚」と呼ぶ(小野重朗の著書、生活と民具から)発音も「フェゴ」に似ています。

三 陸北上町十三浜や小泊の魚篭(ビク)は山の神の御神域に入る場合は筒長く底が網代(アジロ)で編み組みしてるフゴ(ふくべん)を布袋様のように頭に被らな ければならないとか昔人は言いますがとても珍しい習慣です。網代編のフゴそのものも珍しく九州では熊本のウナギ入れの魚篭がそうであり、外国ではベトナム 海洋民の竹船の底組みに用いられてる例があり塩土神が乗った目無篭の船という存在が我が邦に伝わっており注意をしたほうが良いとおもってます。また目無篭 の船は他に、なぜかインド南部の奥まった川で使われてるのがこれもTBS「世界不思議発見!」で最近放映されたので大野晋博士のドラビダ語との関連もあり 同じく注目しておきたいです。アジロ組みの竹細工は関東周辺にはありますが世界的に見れば少ない編み方です。

アジロ編みの竹や草や木の蔓 の細工は確かに古く、三内丸山遺跡の「ポシェット」は底も側面も全てが「アジロ」に編まれていました。アジロは渦を巻くように編んで行くことが可能です。 ヒゴを1本、2本、3本、4本と組んだところで漢字の「井」の字形になり、宮城ではここに「点」が3つあり「もぐらもち(木地氏の小椋?)」が覗くと消え た王朝を示すことになるのだろうか?お空の「日」「月」「星」が並んで光るという伝説が各地に多くあります。それが有名な星座の和名の唐鋤(からすき)星 =オリオン座。また同じ意味かとおもわれる「三光青麻」の石碑を北上川流域ではよく見かけます。
以後、どうぞよろしくお願いいたします。

[2059] 大穴持神社  nick [Url] 2006/04/30(Sun) 23:39 [Reply]
「カヤ」からローカルねたになってしまいましたが
一応。

この大穴持神社の祭神及び由緒に関しては、
このサイトで5年位前に調べて頂いて
それを当サイトに掲載しています。

また、江戸初期の寺社帳写によると
本来、正八幡の火山・噴火鎮護の祈祷所だったと
あります。
それが延喜式前に格上げされた節がありますが
詳細は。

考察に掲載していますが、
平安の頃噴火して錦江湾内に出現した小島が
どれなのか現在では確証を得ていません。
なぜなら、大正の大噴火で嶋が大隅半島と
陸繋がりとなり、幾つかの小島を飲み込んで
しまっています。
一応地質学的には「焼山付近」ではと云われていますが。

神社境内の由緒に関しては
江戸期の「三国名勝図会」によるとのことでした。




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