伊弉諾神社(長弓寺)
生駒市上町4447 mapfan


交通 近鉄奈良線富雄駅 北へ3km バス真弓橋

祭神 伊弉諾尊、配祀 素戔嗚尊、大己貴尊


長弓寺惣門の前の大鳥居



由緒  生駒山の北の饒速日山は太陽信仰の対象としての神体山であった。そこには社殿もなかったが天照御魂神社の原型の祭りの庭であった。後に、饒速日命を祀る「上ノ社」がこの頂上に設けられた。 これに対する東の「下の社」がこの登弥神社(現伊弉諾神社)、西の「下ノ社」が石切劔箭神社である。式内登弥神社の論社は奈良市石木町の登弥神社がある。

 後に物部氏が滅ぼされると、山上の饒速日の神霊はそれぞれ「下ノ社」に遷された。*1

 バス停真弓橋を降りると東側に大きい鳥居が見える。長弓寺への入り口になるのだが、伊弉諾神社の鳥居であり、全山を総括するものである。

 長弓寺は聖武天皇御宇に創建され、その守護神として伊弉諾神社が建立されたとの寺院側の説明であるが、統括する鳥居の存在は、もともとこの地は大宮であって、そこに神宮寺を置いたのが、いわゆる軒下を貸して母屋を取られたのであろう。

 大宮は式内社の登弥神社であり饒速日命と御炊屋姫を祀っていた。二神の廟社であり「天羽羽弓」を納めた真弓塚が東側にある。旧事本紀には天羽羽矢を白庭山に納め饒速日命の墓としたとあるのが、ここの真弓塚である。 また長弓寺は長髄彦の旧跡でもある。富雄からのバスで真弓橋で降りるが、次のバス停は「蛇喰:じゃはみ」と言う。

 長髄彦が生駒山を越えようとした神武軍を孔舎衛坂に迎え撃ち、五瀬命を戦傷死させた物語がある。「長」は蛇神を奉ずる南方系種族である。「髄」は脛ではなく鐘即ち銅鐸である。銅鐸祭祀の蛇神信仰種族が大和の地で強大な勢力を持っていた。これを金色霊鵄に守られた神武軍が打ち破ったと言う事を伝えている。 蛇対鵄の幾世代にも渡る抗争が神武天皇の大和平定説話となったと理解できる。*2 おりしも唐古鍵遺跡から紀元前4世紀頃の巨大木造建造物の遺構が出ているが、この頃には蛇神信仰種族が大和の地を跋扈していた。



檜の窪山の伝饒速日命の墓
檜の窪山の南側に生駒市総合公園があり奧にテニス場がある。テニス場の奧の外側を東にまわり山道を行く。すぐに白と赤の鉄塔がある。 その一つ北側の鉄塔まで山中の雑木林を通る快適なコースがある。15分程で目標の鉄塔に近付く。目を凝らすと伝饒速日命墓と記された石の墓標が立っている。どなたかが丁寧に祀っておられる。



真弓丘(左の小山、右は長弓寺)

 真弓塚が真弓団地の東端にある。真弓3丁目8に市の水道施設やタンクがある。その右側に階段があり、登って行くと山に入る。すぐにある。左側は水道施設のフェンス、右側がこんもりと盛り上がっている。注意して見るとコンクリートの丸い杭が取り巻いている。その頂上に真弓塚の碑がたっている。登見郷の豪族の真弓長弓の墓とか聖武天皇の弓を埋めた所とかの説がある。


水道施設と真弓塚 mapfan

 

たたずまい

 広い寺院の東の隅にこの神社が鎮座している。本殿背後の雑木も静かに時の流れるのを見つめているようである。 二の鳥居も古めかしく、おくゆかしい雰囲気である。神木も杉も大きい。


本殿



お祭り 例祭 10月 9日(宵宮)
    例大祭 10月10日


長弓寺について
真弓山と号する。真言律宗。本尊は平安後期の木造十一面観音で重文指定。聖武天皇の勅願で建立とされる。 本堂は鎌倉中期の物で、檜皮葺、入母屋造。何故か三重搭は東京の高輪プリンスホテルに移されている。


本堂



*1 白鳥伝説(谷川健一氏)小学館
*2 物部氏の伝承(畑井弘氏)三一書房


物部氏ホームページ
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