枚岡神社
東大阪市出雲井町7-16 its-mo

枚岡駅からの鳥居


交通    近鉄奈良線枚岡下車すぐ   

祭神    天兒屋根命、比賣御神、武甕槌命、経津主命

注釈    神奈備にあたる生駒山の神津嶽に本宮がある。 枚岡公園の南上の方向、暗峠の下にあたる。額田からでも、神社左手もしくは、右手の梅林からでも約50分で登れる。 少し降りたところに展望所があり、大阪市内がよく見える。神武天皇一行が船で生駒の麓に攻め寄せてくるのがよく見えたものと思われる。防御しやすい地点である。生駒は高地性の拠点として難攻不落であった。

 2000年4月に参拝した。由緒書を100円でかわいい巫女さんから頂いた。これによると前の二神はここから春日大社へ分祀、後の二神は同社からむかえたとの事。 恩智神社の御輿が泉州堺に神幸する間の留守をこの神社が守ったとの事である。

神津嶽の本宮



たたずまい   藤原氏のかっての権勢を思わす奥行きの深い神社である。しかし藤原氏の要人が参詣をした記録はないとのことである。 南側の神社梅林は初春には賑わう。

拝殿


本殿



お祭り   1月11日 粥占神事 大阪府の無形民族文化財
      6月30日 夏越の大祓え 茅の輪をくぐりぬける。午後3時から神事があり、それから茅の輪を四回くぐりぬける。 ぬけてから左、右、左とまわり、最後に中央にぬけて本殿前に行きお参りする。 輪くぐりは、須佐之男命の教えによると説明があった。
     10月15日 秋郷祭 前日の宵宮祭から賑わう
     12月25日 注連縄掛神事 東大阪市の無形民族文化財である。


平成8年6月30日の輪くぐり



不比等について
 藤原氏の祖先としては大織冠の鎌足が有名である。大化改新は蘇我氏に滅ぼされた物部氏の中臣氏の復讐でもあったとも言う。
 また史上最大の政治家とされる藤原不比等も藤原氏の祖先として名をはせている。 春日大社の先の宮司さんは、藤原氏の祖先は天兒屋根命でもなければ鎌足でもない。不比等であると言っておられる。不比等は天智天皇の子であるが、鎌足の子として育てられたとのことである。 従って不比等以後の藤原氏は、その祖先を不比等においている。
 鎌足がその長子である定慧を出家させたこと、藤原氏がこの神社にお参りしていないこと、壬申の乱では近江朝にくみしたにもかかわらずそれ以降も皇室の信任があつかったこと、藤原氏が皇室に準ずる扱いを受けた事等が、その事から全て合理的に説明できるのである。
 藤原氏の末裔である近衛文麿公が近江神宮造営を担当されたのも、皇室内部での常識として「不比等は天智天皇の御子である。」ことは今日まで伝わっているのである。
 なお不比等は記紀の中で自らを高御皇産神に、持統天皇を天照御大神になぞらえているとの有力な説がある。

「茅の輪くぐり」と「道教」との関係

 茅の輪くぐりの起源として有名なのは『備後国風土記』逸文にある蘇民将来の伝説で、北の国の武塔(むとう)の神(素盞嗚尊とされる)が南の海神の娘のところに行く途中、日が暮れた。 そこに二人の兄弟がいた。兄の蘇民将来は貧しく、弟の巨旦将来は富んでいた。武塔神は先ず弟の所へ行って宿を借りようとしたが断られた。そこで兄の所へ行くと、粟柄で座をつくり、粟飯を食べさせた。 その後、神はお礼にやってきて、子供に茅の輪を腰の上につけておくようにと伝えた。その夜、蘇民将来はの娘一人を残して、みな滅ぼした。
 だから疫病が流行りそうな時には蘇民将来の子孫と言って、茅の輪を腰につけておくと免れる。
茅の輪を腰につける代わりに茅の輪をくぐって同じ効果を得られるとして、大祓、六月祓の茅の輪の夏越しの神事となったとされている。

 茅萱(ちがや)が何故使われるのか?ここに道教の匂いがある。
 茅萱の根茎は茅根(ぼうこん)、白茅根と言われて、チャイナでは古くから利尿、消炎、止血に使われた仙薬である。無関係ではない。
 江南道教の聖地は「茅山(ぼうざん)}という山だそうだ。『抱牧子』によると、山中で幽霊に出会ったら、チガヤを投げつけると即死するとある。江南道教とチガヤ、特別な関係があるようで、 茅の輪くぐりの習俗に道教とのかかわりを見ることができる。

           −『日本史を彩る道教の謎』から−
 




河内国名所図会 枚岡神社


参考 大いなる邪馬台国(鳥越憲三郎)講談社、毒舌日本史(今東光)文春文庫


物部氏ホームページ

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