片埜神社(かたの)
枚方市牧野阪2-21-15

西向きの鳥居  南向きの鳥居
 

交通 京阪牧野駅南西5分 its-mo



祭神


主祭神 建速須佐之男大神
配祭神 菅原道眞、櫛稻田姫命、八嶋士奴美神
合祀神 天照皇大神、品陀和氣命、天兒屋根命、品陀和氣命、八幡大神、久那戸神、八幡大神、久須須美大神、事代主命

「久須須美大神」は当社に合祀の南東の旧坂村字九頭神の氏神であった式内社久須須美神社の祭神である。 神社本庁『平成祭礼データ』によれば、久須須美神は櫛御気野神、家津御子神、熊野櫛御毛奴神、熊野加武呂乃神などと異名同神としている。

摂社
稲荷社「保食神 合 武甕槌神、經津主神、天兒屋根命、比大神、品陀和氣命、保食神、久那戸神
依姫社「玉依姫命、大國主命、市寸嶋姫命」

 本社祭神については神名帳考証では祭神を饒速日命とし、大日本史では交野忌寸を祭るとされる。*1*2

久須須美神社の後裔の祠
 
mapfun



注釈


 当地は古くから交野が原と言う。近くには弥生中後期の「田の口遺跡」をはじめ弥生中期以降の遺跡が点在している。 肩野物部氏の住地であった。
 大阪の北東に位置することから鬼門除け、方除けの神として「一宮牛頭天王」と呼ばれていた。 ここから大阪寄りに守口市があるが、これも「まもり口」の意である。
 社伝によれば、垂仁天皇の時、野見宿彌が大麻蹴速を角力で破った功によりこの地を賜って、須佐之男命を祀ったとある。



お姿

四面にくりぬきの蟇股を持つ珍しい本殿


 本殿は豊臣秀頼が修築したときの姿を伝え、桃山建築の逸品として国の重要文化財の指定を受けている。三間社造りで屋根は檜皮葺、木部は朱塗りの極彩色である。
 神宮寺の遺品と見られる六角形の石灯籠は鎌倉風の美しい形である。



お祭り
春例祭    4月15日、秋例祭 10月15日
おとう祭り 10月14日
お火焚祭り(みかん撒き) 12月13日

朝原神社「猿田彦命」

瘡神社

由緒 平成祭礼データから

 方除社河州一之宮片埜神社略記
交野台地の一角、牧野阪に鎮座する当社は、延喜式内社の古社であり、素盞嗚尊、菅原道真公を主神として他十一柱の神々を奉祀している。
約二千年前、第十一代垂仁天皇の御代に出雲の国の豪族「野見宿禰」が河内国を拝領 し、出雲の祖神「素盞嗚尊」をこの地に奉斎して、土師氏の鎮守としたのが草創である。
その後、欽明天皇の勅願をもって「片野神社」と称し、平安中期の村上天皇天徳四年 に野見宿禰の後裔「菅原道真公」を併祀した。平安時代は広大なる神域神領と宏壮な 社殿を有し、官幣の社として社運隆盛を極めたが、戦国の争乱で幾度かの兵火にあい 荒廃していたのを、豊臣秀吉が修築した。大阪築城の際には艮(東北)の方位にあた る此の社を、錦城の鬼門鎮護の社と定めて尊崇し、今も天主閣石垣に刻んだ鬼面と当 社が一線に結ばれ相対している。さらに慶長七年(一六〇二)、豊臣秀頼は片桐且元 を総奉行として、本殿、拝殿、築地、経堂、別当などを大造営した。現在の本殿、南 門、能舞台がそれである。特に本殿は、桃山建築の粋として、国の重要文化財に指定 されている。

往古、この附近は交野ケ原と呼ばれ、王朝時代大宮人の遊猟の地として歌枕になり、 また、桜の名所で世に聞こえたところでもある。「落花の雪に踏迷う片野の春の桜が り」とある太平記の一節は、ここ交野ケ原を詠んだものである。なお、「交野の御社 」「一ノ宮」と尊称されて来たこのお社は、河内国の北部地方における第一の名社で 、桃山時代より、大阪鬼門除・方位・厄除等で知られ、特に家相方位の守護に霊験あ らたかな神様として、一般に尊信厚く、遠近からの祈願者が跡を絶たない。
「註」本社は中・近世に専ら「一ノ宮(河州一ノ宮・河内一ノ宮・牧一ノ宮)」又は 「一宮牛頭天王(近世)」と称し、正式社名としていた。「片埜神社」の社名を復活 したのは明治以降である。なお、本神社を「一ノ宮天王社」とした記述(錯誤記述) があるから注意を要する。一ノ宮天王社とは近村に別に存在していた神社である。 以上


河内国名所図会 交野神社

隣の公園の伝阿弖流為の墓




*1 おおいなる邪馬台国(鳥越憲三郎)講談社
*2 『日本の神々3』白水社
 『平成祭礼データ』神社本庁


物部氏ホームページ
神奈備にようこそに戻る