uga渤海


                                

1. 前史

 渤海国は、満州からシベリア・極東にかけての北東アジア地域に分布するツングース系民族が建国した国である。この民族は靺鞨・女真・扶余族とも呼ばれる。
この民族は、紀元前37年に朝鮮半島北部に高句麗を建国、686に滅びた。百済の王族も扶余系とされる。
沿海州に粛慎と呼ばれる人々がおり、天武5年(676年)に、新羅の使節が粛慎を伴って来訪した。国名を靺鞨と称したようで、6世紀末に随に遣史を送っている。


2. 高句麗と倭

 4世紀末から5世紀初めにかけて、倭軍は半島で高句麗等と幾度か戦っていた。この頃から6世紀にかけて高句麗から倭国へ渡来してくる者があり、高句麗式積石塚が近畿関東に分布している。7世紀前半までは倭と高句麗は仏教など文化的な交流が中心であった。
高句麗は668年に唐と新羅の挟み撃ちで滅亡した。唐は高句麗遺民への懐柔策として、小高句麗を遼東に建国し、高句麗王族を王にすえた。さらに、渤海湾の北側の常州に高句麗の王族や靺鞨の族長などを集め、流刑地とした。 


3. 建国

 不満のたまっていた連中は挙兵、満州の奥地の山岳部にはいり抵抗。手に負えない唐は道路阻絶として討伐中止した。唐は則天武后の時代であった。 
高句麗王族の大祚栄が698年、辰(震)国を建国した。民族自立に見える。後の渤海国である。高句麗の北半分に沿海州を領土とした。
唐から友好のよびかけに応じて次男を唐に送り藩屏下に入り、渤海郡王を贈られる。
718年、大祚栄卒す。長子・大武芸即位。総べての靺鞨族を配下にするべく動くが、北方の強力な黒水靺鞨は抵抗、唐と通交していた。
   大武芸は弟と折り合いが悪く、唐・渤海戦争になりそうだったが玄宗皇帝が兄弟の仲を説き、穏便に収めた。
大武芸は沿海州に版図を広げ、海を越えて日本との通商に便利な立地を得た。
   727年10月 第一回渤海使。出羽に漂着、24人の内、16人は蝦夷に殺され、残った8人が命からがら、国書と土産の貂皮300張を持って平城京にたどりついた。
   国書には、「高麗の旧居を復して、扶余の遺俗を有(たて)り云々」とあった。      
   本音は新羅の頭越しでの軍事の提携だったようだが、高句麗国の後裔として友好関係を進めたいとのこととなっていた。この年に陰謀を企てたとして殺される長屋王も邸宅に招待し歓迎の宴を持った。渤海使8人を送り届けるために、舟を建造し、62人の送使団を編成、728年8月に送っていった。


4. 三代目大欽茂

 大武芸王は軍事活動を主としていた。737死去し、第三子の大欽茂が即位、彼は56年間の在位の王で、文化面に活動した。平和な時代が来ている。

日本では藤原仲麻呂(恵美押勝)により新羅征討計画が759年に渤海が和平路線へと方針変更もあって挫折。
大欽茂は唐に朝貢使を50回も派遣した。そお間に大量の漢籍・仏典を入手し、多くの留学生を送った。渤海は一層繁栄し、名声は高まった。渤海と唐との関係は唐の立場も強化した。ここで党は渤海国として認めた。
日本への渤海使の役割は交易に集中、毛皮を持ち込み、繊維製品を持ち帰る交易が続いた。日本では毛皮ステータスシンボルとなっていた。高位者でないと毛皮の着用はみとめられなくなった。渤海は経済的利益を優先するべく、敢えて朝貢の形を取った。
航海術はそれほど高くはなく、未だに迷信が横行する時代だった。755年にこのような悲劇が記録されている。
我が学生、高内弓、其妻高氏、及び男(むすこ)広成、嬰児一名、乳母一人並びに入唐学問僧、優婆塞一名渤海より転じて相随いて帰朝す。海中嵐にあい、舵師、水手、波のために没せられる。時に鎌束議して曰く、異方の婦人今船上にあり、またこの優婆塞、衆に異なり一食数粒にして日を経て飢えず、風漂の災は必ず是によるにあらずや、乃ち水手をして内弓が妻、並びに嬰児、乳母、優婆塞の四人を掴み上げて海に投げうつ。漂流十日にして隠岐の国に着く。
 それにしても、毎年に近いペースで入京してくる渤海使について、その滞在費や接待、朝貢への返礼と国家財政に関わる程になり、渤海使の受け入れの是非まで問題とされた。
 七六三年、第六回の渤海使、淳仁天皇は五位以上と渤海使、それに百官の主典(令制官職の四等官のうち最下等の官)を朝堂に集めて宴会を開いた。
822年淳和天皇の代になると、入朝は一紀(12年)に一度と通告し、来ていた使節を入京させなかった。蒙古犬ら4匹のみを受け入れた。


5、中興の祖

 大欽茂の平和な時代が続き、短命な王が続き、生命力がなくなり王統は絶えた。初代の大祚栄の弟の4世孫の大仁秀(818〜830)は久しぶりの英傑武勇の王で、黒水靺鞨への征討軍を派遣、渤海史上最大の領土を誇った。 渤海は8〜9世紀に栄え、唐の文化を取り入れ、仏教文化が栄えており、唐では渤海を「海東の盛国」と呼んでいたという。
菅原道真公も渤海使と漢詩での交流を行っている。
 第30回渤海使、882年、陽成天皇は渤海使20人朝衣を与え、官人も混じって、飲んだり、食ったり、楽器の演奏があり、この日のために訓練された美女そろいの舞姫たちが群舞し、妖しくも悩ましいお色気むんむんの乱痴気騒ぎが妄想される。
 大仁秀以後、渤海には英王は出ない。内部の権力争い、保守化、唐の滅亡、契丹の興隆があり、926年、渤海国滅亡。


6. 渤海その後

 朝鮮半島の情勢にも変化がでてきた。百済の農民出身の甄萱が892年に南西部に後百済を、新羅王族の弓裔が901年に北部に後高句麗を建て、後三国時代に入る。新羅の孝恭王は、これに対抗する事ができず酒色におぼれ、新羅の領土は日増しに削られて行き新羅は滅亡の道をたどることになる。935年、長く朝鮮半島を支配していた新羅が滅びた。
 後高句麗の武将であった王建は弓裔の暴政に対して政変を起こして弓裔を追放し918年に高麗を興した。
 高麗国は高句麗の後裔とされて、国力の衰えた渤海国から高麗へ行く者が絶えなかった。こういうことも渤海の滅亡に拍車卯をかけた。契丹は渤海を破壊し、文書などは焼き、栄えた文化が消えてしまっている。

 渤海国の滅亡後、その地に国をつくるものはいなかった。ただ、女真族の民人が住み続けたのである。

 渤海国を復興させたのは、日本軍であり、満州国を建国したが、僅か14年弱で滅びた。

 渤海貞孝公主墓壁画は前期渤海の絵画技術の高さをしめしている。石像の彫刻も優れていた。また、唐三彩もよい。

 渤海の技術ではないが、「唐鴻臚井刻石」は、唐の憲宗が713年、大祚栄を「渤海国王」に冊封した時に送って遼寧省旅順に建てたものである。どうやら皇室にあるようで、中国が返還請求をしてきている。渤海を独立国と認めず、唐の属領の扱いである。
                                    以上


参考文献
『渤海』上田雄 講談社学術文庫  『渤海と日本』東北亜歴史財団 明石書店
『古代日本と北の海道』新野直吉 吉川弘文館 『渤海史』朱・魏 東方書店

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