uga河内鋳物師

1 鋳物
 日本で鋳物と言えば先ず銅鐸が想起される。弥生中期以降の鋳物。 青銅材料の節約のためか、薄く鋳られており、技術的に高度なものがある。
 弥生後期には銅鏡が大陸から持ち込まれ、それで鋳型を作り、そっくりの同笵鏡を製造していた。
 仏教伝来にともない、仏像や仏具が伝わってきた。これらも鋳物であり、こなしていったと思われる。
 大化の改新を契機として、古代律令国家が誕生したと見なすことができる。水時計など技術的進歩があり、造船・橋梁・城郭の建設なども行われ、鋳物も活用された。
 天武天皇の時代、本邦最初の通貨である「無文銀銭」や「富本銭」が鋳造された。

 聖武天皇は大きい盧舎那仏を作ろうと発願し、743年、「大仏建立の詔」を発布された。
 大仏は、土でつくった塑像の外側に土の鋳型(外型)をつくり、次に塑像を銅でつくる像の厚みだけ削って、先の外型との隙間に溶けた銅を流し込む。大きな像なので、何回に分けて下から順に鋳込んだ。建設をつかさどる組織としては、「造東大寺司」が置かれ、造仏所・鋳所・木工所・造瓦所などの営繕期間と、地方に材料調達機関などが置かれた。
 大仏鋳造の総責任者である国中公麻呂は、663年(天智天皇2年)百済から渡来した国滑富の孫で、大仏建立前の計画の初めから参画していた。


2.河内鋳物師
 『続日本紀』には和銅元年(708)二月、催鋳銭司が置かれ、多治比真人三宅麻呂が任命されたとある。翌年には、河内鋳銭司が置かれており、貨幣製造の中心になった。本拠地は丹比野。堺市美原町。ここの太井遺跡からは、奈良時代の坩堝や鞴羽口など鋳造工房や和同開珎が出土し ている。ここに居た技術者が平城京へ移って行った

 河内鋳物師は、そのルーツを和銅年間の鋳銭司と考えることができる。祖神(氏神)として「石凝姥命」を始め「天児屋根命」「猿田彦命」達を『鍋子丸』と称して祀っていた。

 堺市美原区大保に、鍋宮大明神の石碑がたっている。

鍋宮大明神 直径約1m


 広国神社に合祀された鍋宮大明神鍋宮大明神は別名を烏丸大明神とも称し千年余り前この地に居住した御鋳物師達がその祖神石疑姥命を主神と祭祀した御社であり、明治初年廃社となって廣國神社に合祀されていた。

鍋宮大明神旧鎮座地


 この地は 鍋宮明神神域の一部であっが史蹟地として昭和四十四年十月 地元有志により 石碑を建立し永久に記念したものである。当時の御鋳物師達は中世紀以降全国に鋳物師たちは 移住し、今では 河内鋳物の往時を偲ぶ面影もないが、この地域は御鋳物師発祥の地であり、日本文化発展にを讃え顕彰するものである。

 河内鋳物師は居住地から丹南鋳物師ともよばれており、河内国丹南郡一帯は、難波津と飛鳥を結ぶ古代の官道である竹内街道に近く、丹南鋳物師の前身は大陸からの渡来系の氏族ではないかと推定されている。堺市美原区大保が居住地で、往年には「大保千軒」とよばれた。

 しかし、平安時代になると、寛平六年(894)の遣唐使の廃止に象徴されるように、海外の文化を摂取することに消極的になったためか、寺院の梵鐘も10世紀後半を境にして、約200年の間ほとんど鋳造が行われていない。高度な技術と組織力を必要とする大型製品鋳造に必要な知識と経験が失われてしまった。


3.大仏再建
 治承四年(1180)、源平争乱の中、東大寺の大伽藍は大仏も含めて、、平重衡の軍勢によって焼き打ちにされ、灰燼に帰してしまった。
 奈良時代の聖武天皇と行基んお組み合わせと同じく、後白河上皇と重源のコンビで、大仏と大仏殿の再建に取りかかった。大型製品の鋳造技術を失っていた日本の鋳物師たちだけでは、大仏の鋳造は出来なかった。そのため重源は、寿永元年(1182)、宋から渡来していた陳和卿と宋の技術者7名を招聘して鋳造に当たらせた。重源は途中から河内鋳物師を参加させて技術を習得させた。その後、河内鋳物師たちは100年以上にわたって活動を展開し、日本各地に先進的な鋳造技術を広める働きをした。

 鎌倉大仏は、元々は木造でしたが、宝治元年’1274)に大風で倒壊したので、青銅の像を鋳造し、大仏殿を造って安置した。河内鋳物師の丹治久友が参加している。

 梵鐘などの重量物は現地で製造する。鋳物師は材料を船に積み込んで、現地で生活をシナがら鋳る。これを「廻船鋳物師」と言った。
 これに対して、鍋・釜などの日常品を鋳るのを「土鋳物師」と称した。

 河内出身の 「廻船鋳物師」は、寺社の梵鐘や大湯舟を注文主もとで製作するかたわら、布絹類・米穀・大豆・小豆などをもって、鉄の主要産地である中国地方から「打鉄」を独占的に買い付けて、原料を必要とする全国各地の廻船鋳物師・土鋳物師に供給していたと考えられる。
 河内廻船鋳物師の足跡は、瀬戸内海地域を中心に残る梵鐘の銘に見ることができる。

鋳物師の移動


4.河内鋳物師の移住

 石川県鳳珠郡穴水町・富山県高岡市・埼玉県川口市・栃木県佐野市などの鋳物師には、河内国丹南郡を出身とする伝承が残っています。

能登中居鋳物は、海を通路として、あるいは陸づたいに鋳物師が往来するなかで鋳物技術が伝播したもの。平安末期の「石納釜」「能登釜」「能登鼎」、鎌倉時代の「能登の国の釜」が文献にある。

 富山軒 高岡鋳物は近世初頭に始まり、鍋・釜・鉄瓶等の日用品や、鋤・くわ等の農耕具などの鉄鋳物を生産していた。江戸末期頃には仏具や花びんなど日用的で装飾・鑑賞性の高い製品を産出した。

 埼玉県 川口鋳物は、940年頃、平将門の乱の鎮圧に来た豪族の従者が鋳物師であった、1190年頃、南宋人の鋳物師が来川した、1340年頃、河内国丹南の鋳物師が移住してきた等の説がある。
鍋・釜・鉄瓶、鋤・鍬などや農具の製造を始め、梵鐘、灯篭、鰐口、天水鉢など社寺用具などを造った。国立競技場の聖火台は代表作。吉永小百合主演の映画「キューポラのある街」。

 栃木県 佐野天明鋳物は天慶2年(939年)藤原秀郷が河内国丹南郡から5人の鋳物師を連れてきて、金屋寺岡(足利市)に住まわせ、武器などを作らせたのが始まりと言われている。


5.河内鋳物師年表

西暦  和暦     出来事 文献
682 天武 11.4,21 筑紫太宰丹比真人嶋等大鐘を貢る。 日本書紀
683 天武 12.4.15 今より以後は必ず銅銭を用いよ。銀銭(無文銀銭)は用いることなかれ。 日本書紀
708 和銅 1.2.11 初めて催鋳銭司を置く。従五位上多治比真人三宅麻呂もってこれに任す。 続日本紀
709 和銅 2.8. 河内鋳銭司の官属、賜禄、考選、もっぱら寮と同様に扱うこと。 続日本紀
741 天平 13.8.9 従五位上多治比真人家主を鋳銭長官となす。 続日本紀
749 天平勝宝 1 東大寺盧舎那大仏建立
781 天応 (佐野鋳物河内丹南よ・り移り起る.’(栃木県)
873 貞観 15.9.27 鋳銭司正六位上黒山神、火山神にならびに従五位下を授く。 三代実録
10世紀後半から200年 梵鐘の鋳造が途絶える。
1,058 〜1,065 『新猿楽記』諸国の名産を列挙したところに河内鍋が見える。 群書類従
1091 寶治 5 鋳師河内国住人能登介時貞、紀伊国高野山奥之院廟堂鉄宝形を鋳る。
1129 大治 4.4.7 鋳造匠多治比頼友等、成身院鐘を鋳る。
1141 保延 7 鋳師散位多治比□□、鋳師散位広階頼□、同依□、金峰山寺鐘を鋳る。 日本古鐘
1153 仁平 3 真継家の祖御蔵民部大丞紀朝臣元弘、領内の河内丹南鋳物師天命に鉄灯籠を作
らせ朝廷へ献上す。禁裏悪風吹いても灯火消えず、近衛天皇御感の余り、河内丹
南の鋳物師のみ鋳物業を独占専業とさせる。これにより真継家支配による全国鋳
物師の統括除々に浸透する遠因となる。
1155 久寿 2 河内丹南の鋳物師百八の燈籠を献ず
1165 永万 1 蔵人所小舎惟宗兼宗が各地に住む鋳物師を支配しようとして河内国日置庄の鋳物
師を中心にして燈炉以下鉄器供御人を組織。 中世鋳物師史料
1167 仁安 蔵人所、日置庄鋳物師等に鉄燈炉以下年貢進上を催促す。 中世鋳物師史料
1167 仁安 2.9.27 工河内国真□ 熊野若王子神社(京都市左京区)の懸仏を鋳る。 東京芸大
1168 仁安 3 広階忠光が中心となり、河内・和泉に住んでいた有力鋳物師を本供御人とは別に
組織。 民経記
1174 承安 2.3.17 日置庄住人・蔵人所燈炉作手が「造内裏役」免除を要求。 古記
1181 養和 1 大仏の破損状況を見た蔵人所の燈炉御供人(鋳物師)は「非人力之及所」と言った。
1183 寿永 24.19 鋳師草壁是助上醍醐大湯釜(三〇石納)を鋳る。是助五位に叙される。勧進は重
源聖人。 醍醐寺雑事記
1183 寿永 2.4.19 東大寺大仏修理に宋人鋳物師(陳和興・陳仏寿と従七人)と河内鋳物師大工散位
草壁是助、長二人、草壁是弘・同助延、小工 是末・助吉・為直・助友・貞永・延行・
助時・助落友・助包・是則・宗直従事した。 東大寺続要録
1189 文治 5 源頼朝諸国鋳物師に対し諸役御免となす
1197 建久 8 豊後権守(草壁是助) 東大寺大湯屋鉄湯船を鋳る。 奈良六大寺大観
1197 建久 8 鋳大工従五位下行豊後権守草壁宿祢是助、従五位下同是弘、周防国佐波郡牟礼
郷阿弥陀寺の鉄塔を鋳る。 俊乗房従源史料集成
13世紀以降 鋳物師は蔵人所の燈炉御供人として鍋釜などの日常雑器の「右方作手」と大型製
品を現地に出向いて鋳造する「左方作手」に分派していた。
13世紀後半 武家政権の鎌倉と鎮西探題のある北部九州へ鋳物師達は移住を始めた。
125 建長 4 鎌倉大仏建立
1275 建治 1.9.8 大工河内国丹南郡黒山郷下村住人平久来、小豆島西方池田御庄滝水寺鐘を鋳る 日本古鐘銘集成
1277 建治 3.9.14 大工河内国平重永、紀州吉仲御庄大歳宮鐘を鋳る。 日本古鐘銘集成
1280 弘安 3.10.23 大工河内助安、近木郷地蔵堂鐘を鋳る。 日本古鐘銘集成
1286 弘安 9.5 大公河内助安、伊予国桑村郡古田郷西山湯船興隆寺鐘を鋳る。 日本古鐘
1290 正応 3.4 御鋳大工山河貞清、丹後国舩木庄等楽寺湯屋湯船を鋳る。 丹後の錦
1290 正応 3.7.7 大工山河□□、興法寺湯船を鋳る。 丹後の錦
129 正応 5.11.24 大工山河貞清、河内国河内郡葛北慈光寺鐘を鋳る。 日本古鐘銘集成
1298 永仁 6.2.2 鋳治師河内国白坂助友、紀伊国井上本庄、風森宮鐘を鋳る。 日本古鐘銘集成
1299 正安 1.11 大工河内国大春日重守、但馬国気多郡東楽寺鐘を鋳る。 日本古鐘銘集成
1303 乾元 2.4.15 大工河内国丹南郡黒山郷河内助安、近江国愛智郡金剛輪寺鐘を鋳る。 日本古鐘
1306 臺元 4.1.26 鋳師河内旦南治部入道浄仏、摂州渡辺安曇寺鐘を鋳る。 日本古鐘銘集成
1324 元享 4.8 大工河内国住人河内介弘、熊野那智山(青岸渡寺)鐘を鋳る。 日本古鐘銘集成
1325 正中 2.10 大工河内国□□□光吉、熊野山新宮大雄禅寺鐘を鋳る。 日本古鐘銘集成
1353 文和 2.11.27 大工河内国丹南郷住藤原国文、参州碧海庄宇祢部郷福林寺鐘を鋳る。 日本古鐘銘集成
1364 貞治 3.12.27 大工河内国平盛光、播州酒見寺鐘を鋳る。 日本古鐘銘集成
1375 応安 8.4.3 大工摂州住吉郡堺住山川右  衛門尉助頼、土佐金剛福寺多宝塔九輪を鋳る。
1379 永和 5.4.8 治鋳師大公右衛門尉山川助頼、河州八上郡金田宮三所大明神鐘を鋳る。 日本古鐘銘集成
1385 至徳 2.5.3 大工堺北庄山川助頼、土佐国幡多荘蹉陀山金剛福寺鰐口を鋳る。
15世紀初め 我孫子に河内の鋳物師を徐々に移動させた。
1451 宝徳 3.1.11 河内国鋳物師等、寄合人数と進上役践の座法を定む。 日本古鐘銘集成
1570 永禄 13 今井宗久は河内鋳物師を我孫子に集中させ、鉄砲製造の独占を試みた。
1576 天正 4 京都の真継宗弘(朝廷の役所として全国の鋳物師を統轄)が「鋳物師職座法の掟」
を定める
1604 慶長 9.4 鋳師河内国八上郡能登生郷住人広橋助忠、弥谷寺求聞持巌窟鉄扉を鋳る。


6.柿本人麻呂を祀る神社と鋳物師


『続日本紀』(天平勝宝2年12月条)によれば、大仏鋳造の功で外従五位下柿本小玉と高市真麿が外従五位上を受けている。柿本氏は和珥氏の系統で、金属に縁のある氏族である。鋳物師達は柿本人麻呂を柿本の祖神として祀ったのだろう。

河内では、東高野街道沿いに聖音寺(富田林市)があり、柿本人丸の古い記念碑が建っている。

柿本人麻呂を祀る神社を『平成祭CD』で見ると、全国で107社、山口県が37社で飛び抜けて多い。残りは島根8,兵庫7,群馬6,栃木7と成っている。

下関市長府には、各地の金屋大工所を統括する金屋惣官所が置かれ、金屋町・金屋浜町の地名が残っている。金屋町に人丸神社があった。下関市内では他に幡生(生野神社境内)、植田王子神社合祀)、福江(福江八幡宮合祀)、、菊川町下保木(白山神社境内)に「人丸社」がある。

周防鋳銭司(山口市鋳銭司)に鋳銭所が移されているが、鋳銭司小森にも人丸神社がある。

防府市の国衙の南、鋳物師町の万福寺境内に人丸が鎮守として祀られていたとある。

光市三井には、芋尻、溝路、新山(廃社)、岩狩、浅原、水上に「人丸社」がある。芋尻(イモジリ)の地名は鋳物師(イモジ)に由来するもので、三井地区は鋳物師の集住したところである。

柳井市新庄には奈良時代の寺院跡とされる濡田廃寺遺跡があり、周辺にスラグ(鍛冶滓)の散布地があることから、廃寺に付属する鍛冶工房があったとされている。この廃寺を中心にして余田中郷(院内橋の近く、廃社)、新庄山ノ口(西富家鎮守)に「人丸社」がある。

柳井市日積の鍛冶屋原に大帯姫八幡宮が鎮座している。境内の日積天満宮には柿本人麿が配祀神となっている。近辺にはほかに、岡村、宮ヶ峠、境原、大原にも「人丸社」がある。

文献

余部遺跡発掘報告
堺市みはら歴史博物館展示資料
以上

宇賀網史話

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