UGANET 神・仏・習合

縄文の神
『神代紀』
 螢火の光く神、蝿声なす邪しき神、草木ことごとく言語有り。
 山川草木鳥獣蛇魚貝などの霊(チ)を崇拝。
 夜刀の神(蛇)、土蜘蛛。ブナ林。土偶ハイヌウエレ神話。大宣都比売神、保食神。

弥生の神
『神代紀』
 草木がものをいう世界に、各地に大国主神が出現。国土開拓。湖の堤を切って盆地を造る伝承。
 京都府亀岡盆地 大山祇命が泥湖を干拓。大国主命や木花咲耶媛命の説もある。
 但馬の瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、豊沃な但馬平野を現出。 天日槍命。
 潟が広がっていた越後を干拓したのが、建御名方神。 水稲農耕の守護神。
 国津神の世界に天津神が降臨、国譲り。
 弥生時代の祭祀道具は銅鐸、銅鏡、銅剣など。

聖地の持続
『出雲国風土記』と「荒神谷遺跡」

荒神谷遺跡から出土した銅剣

 荒神谷遺跡から出土した銅剣の数が358本。

 『日本書紀』 神代上一書第六 に、「大国主神の子は皆で181柱おいでになる。」とある。それぞれの子が伴侶を持っていたとしますと、362柱、似た数になる。荒神谷遺跡の銅剣358本の意味としては、国譲りで大国主が幽界に隠れたのと同じように御子神達もここに隠れたのかも知れない。


 風土記記載の神社数と出土銅剣の数について。別の意味が考えられる。


 銅剣は四段に並んでいる。

 四列目
97本 神門郡 37社、飯石郡 21社、仁多郡 10社、大原郡 29社 計97社。山間部
 三列目
120本 出雲郡 122社。西出雲の中心地(出雲大社)
 二列目
111本 島根郡 59社、秋鹿郡 26社、楯縫郡 28社 計113社。宍道湖の北側
 一列目
34本 意宇郡の神社は67社。その差の33本は失われたか。東出雲の中心地(熊野大社)

 弥生中後期の神々の数と『風土記』作成の奈良時代の神社数は殆ど変わっていない。この間500年の時間を経過している。一度聖地になれば、持続して聖地である。これは国神の特徴である。

出雲国の郡

 後々の神社建立について

神社数(含摂社) 応神天皇の数(八幡) 菅原道真の数(天満) 後々の神社の数 比率(%)
出雲 1,959 154 61 215 11%
尾張 3,183 331 129 460 14%
大和 2,092 216 94 310 15%
讃岐 1,602 173 128 301 19%
九州 17,068 1,357 3,624 4,981 29%
全国 120,404 14,366 10,129 24,495 20%

 出雲は古い時代に各地に神社が出来ており、後々の神社の創建の必要性は少なかったようだ。間に合っているということ。
 九州には延喜式内社も少なく、古社の密度があまり高くなかったのではなかろうか。そこに加えて、八幡神・天満社の神の発祥の地ということで、これらの比率は高い。
 讃岐、尾張、大和も古い神々が多いと思われる地域であり、八幡天満比率は全国平均より低いようだ。


古墳時代
『崇神紀』
 崇神天皇の姑の倭迹迹日百襲姫命は聰明叡智で能識未然。未来を予見できる。
 百襲姫は神道的国家確立期の神事協力者。
 崇神天皇は神道的宗教国家構想をたてる。王権は祭政一致から祭政の乖離へ進む。
 大物主神は祭り方が悪いと祟りをなす。民の半数が死ぬほどであった。
 大物主神は百襲姫に正体を見られた。小さい蛇であった。小物主神になった。

『景行紀』
 日本武尊は異常な怪力で武に秀でた皇子。大和王権の範囲を広げるも、惜しまれて亡くなる。白鳥となり、東から西へその魂は飛んでいった。
 日本武尊は草那藝剣を授かった正統な皇位継承者、しかし皇位を継承することはなかった。

『神功紀』
 神功皇后が新羅出兵の兵を募るが、集まらない。大三輪の神社を建てて、刀と矛を奉じた。
 侵略戦争をいやがっていた大三輪の神は祭られることでその力を封じられたと言える。

『応神紀』
 応神十五年 王仁渡来。(千字文、論語をもたらした。)儒教が伝来した。道教はすでに渡来していた。
 儒教 神道に道徳観を付与。神儒共通点は、祖先の霊を祭る。現世の幸福を祈願。
 道教 天を祀る。神に犠牲を供する。簡素を尊ぶ風習に煩雑な儀礼が入った。

『雄略紀』
 雄略天皇が少子部スガルに「私は三輪山の神の姿を見たいと思う。お前は腕力が人に勝れている。自ら行って捕らえてこい。」と言われた。 スガルは三輪山に登って大きな蛇を捕らえてきて天皇にお見せした。ところが、雷のような音や眼の光に恐れをなして放してしまった。
 大物主神でも葛城の一言主神でも、天皇と同じ程度の御稜威になっている。

飛鳥時代
『欽明紀』
 仏教公伝。百済の聖明王は釈迦仏の金銅像一体、幡蓋・経論若干を奉ず。
 仏教は偶像崇拝を持ち込んだ 神道は不意打ちを食らった。
 仏教は寺院建築を持ち込んだ。神道は社殿はなく、磐座 磐境 神籬での祭祀。
 神道的あいまいさがあり、ゆうずう無碍さがある。
 蕃神(となりのくにのかみ)として八百万の神の一柱と考えられた。

『敏達紀』
 最初の出家者は 嶋 11才の少女。巫女のイメージでとらえられている。
 最初の仏像は、楠の木から造られた 聖樹信仰、霊木信仰が生きている。
 天皇不信仏法。

『用明紀』
 天皇信仏法尊神道。

『崇峻紀』
 廐戸皇子は白膠木を取り、四天皇像を作り、頂髮の上に乗せ、誓を立てた。
 聖徳太子は四天王像に祈った。偶像崇拝。新しい神としての仏を受け入れた。

『推古紀』
 母の穴穗部間人皇后は出産予定日に、禁中の廐戸にあたった拍子に出産。
 太子は生て程なく言を謂われ、聖智をお持ちで、先を見通した。(知未然)


 百襲姫   識未然 聡明 叡智  神に仕える 皇女 おいの崇神 神道
 聖徳太子 知未然 能言 聖智  仏に仕える 皇子 おばの推古 仏教

 日本武尊 皇位につかずに惜しまれて亡くなる。御魂は東から西へ飛ぶ。
 聖徳太子 皇位につかずに惜しまれて亡くなる。東天皇敬白西皇帝。

『推古紀二十六年』
 天皇の命令で、安芸の国で河辺臣が船を造ろうした。良い木があるので伐ろうとしたが、ある人が「雷神の宿る木です。伐ってはなりません。」と止めたのです。河辺臣は「雷神と言っても、どうして天皇の命に抗することが出来ようか」と言って伐ってしまいました。すると大雨になり落雷がありました。河辺臣は「雷神よ、帝の民を犯してはならぬ。かえって自分の身を損なうぞ。」と天を仰ぎ、暫く待った。十あまり雷鳴が響いて、雷神は小さい魚になって落ちてきて木の股に挟まれました。河辺臣はこれを焼いて食べてしまいました。

 雷神の力は天皇の前では地に落ちてしまった。

 欽明〜推古 日本の伝統的宗教儀礼の中に「仏教」が導入される時期。

 『皇極紀』
 蘇我入鹿が斑鳩の山背大兄皇子を襲わせた。仏教の主導権争いとも見える。
 中大兄皇子らが蘇我本家を滅ぼしたのも、仏教の主導権を握る目的か。

 『孝徳紀』
 天皇尊仏法軽神道。軽神道とは生魂神社の木を伐ったこと。
 神道については、仲哀天皇以外には信不信はない。信の程度を問題にしている。

白鳳時代
『崇神紀』
671 天武天皇 出家。
672 壬申の乱勃発。迹太川のほとりで天照大神を遙拝する。
    大和では、神武天皇の山陵に、馬や種々の武器を奉る。天津神が力を持ち始める。
    私地・私民制を、公地・公民制に転換するのが天皇の政治目標。
    律令国家の理念を説く、「金光明経」を日本全土に広宣流布に踏み切った。
673 天武2年 大官大寺を建立する。
天武5年 「金光明経」と「仁王経」を四方の国で説かせる。


 金光明経 帝王神権説と言う一説がある。天子は神の子、その身分は天=神と同じ。
 「金光明経」を供養し、恭敬し、尊重し、賛歎する国は、豊楽安穏・人民熾盛。
 この経を広めまた読誦して正法をもって国王が施政すれば、国は豊になり、四天王等の諸天神が国を守護する。


 天照大神 天と地に光を放すとともに、天皇の皇祖神である天照大神の歴史を造作。
 八十万神とされる倭の全ての神の上に唯一最高神である天照大神を置いた。


天武9年 倭京内の二十四寺および宮中で「金光明経」を説かせる。
天武14年 諸国に、家毎に仏舎を作りて、乃ち仏像および経を置きて、礼拝供養せよ。


 持統六年 壬申の乱の功臣である大三輪高市麻呂は、持統天皇の農繁期の伊勢行幸を 諫めました。やめようとしないので、高市麻呂は、職を賭けて(其の冠位を脱きて朝に捧げ)、重ねて諫めましたが、聞き入れられませんでした。人民の民生を優先して考える三輪山の神の精神を継承した行動でした。高市麻呂は左遷。

 天武〜聖武 積極的かつ組織的な仏教導入が図られる。

神仏習合
神仏習合の前提
 日本文化は常に外来文化の刺激によって発展して来た。
 宗教も同じ。特に時代背景に会わせるのが宗教。
 自然と共に存在し 素朴な心 正直な心 に基づく信仰。
 神仏習合の前に 神神習合があった 1万年以上。
 部族と神  婚姻や統合で、神も統合される。

神仏習合
 「古来からの神への信仰と仏教信仰が融合・調和すること」を言う。本地垂迹。
 神と仏は似たもの。山川草木悉皆成仏。山川草木は神である。神は仏になる。
 八幡、新羅国神 これらの渡来神は土地に縛られず、仏と同様に遷座ができる。


蕃神・他神と在来の国神との違い
蕃神
 1.高度な技術文明を背景にしている。高度な技術=強力な呪術。
 2.高度な教理体系と救済理論。人間の心と社会の問題を解決できる「法」。強力無比の今来神
 3.高度な建造物 整備された儀式・修行体系 文書化。
 4.仏菩薩は、特定の場所を離れて成立する抽象神・普遍神である。
 5.未来世の思想。
 6.因果応報。
 7.集団を超越した個人的教え。

国神
 神話・伝説や素朴な礼拝儀式を口伝えで伝承していた。
 特定の場所に鎮座する。社殿はない。磐座・磐境・神籬に神を降ろす。

神仏習合の理由
 神仏は他を排斥しない。接近しうる。諸典(インド固有の神)は守護の役割。
 仏教の影響で社殿の造営が始まった。また、人格神が登場した。

仏教受容面。
 民間は祖先崇拝と結合して仏教が受け入れられた。
 豪族間の争いで氏族の統合。祖神信仰の押しつけは不可。
 普遍的な仏教で再編成。

国家政策面
 「金光明経」の重視、律令国家の建設の理論的基礎。
 国の大事には神祇と仏教の双方に祈願をする。
 遣隋使が持ち帰った修行方法で、仏教徒が山に入り修行、また山の神々に祈る。
 修験道が神仏習合のもとで発展した。


義江彰夫『神仏習合』岩波新書
 皇祖神の霊の稲穂を幣帛として地方に渡す。それを種籾として播かせ、収穫をあげさせる。
 神々への感謝の祭りを行い、初穂の名目で租税として中央に吸い上げる。
 地方豪族は、幣帛を受け取らず、また水路、田畑を整備し、多くの収穫を積み上げた。
 祭りは富農の私腹を肥やすためのものになり、神の道に背く罪の意識が生じて来た。
 報復を受けて当然の状態になった。これを癒し、支える論理が要る。そこに仏教が登場。
 欲望に人間の罪の源泉がある。本来の仏教は苦行によって欲望の根を断つ。
 大乗仏教では、僧侶を供養し、布施を施せば救済が保証される。実に好都合なお話。


神宮寺設立時期と本地仏 *1,*2


参考文献
義江彰夫『神仏習合』岩波新書
田村圓澄『飛鳥時代 倭から日本へ』吉川弘文館
シリーズ東アジア仏教『日本仏教論』春秋社
鎌田東二『神と仏の精神史』春秋社
清原貞雄『神道史』厚生閣書店 *1
淕日出典『八幡神と神仏習合』講談社新書 *2

宇賀網史話

神奈備にようこそ