1.神賀詞 国譲りと大穴持と御子神の鎮座のお話の部分
高天原の尊貴な神、高御魂命が皇御孫命に天の下の大八嶋国の国譲りを仰せになった時に、出雲臣の遠祖、天穂日命を国土の形成を覗う為にお遣わした時に、幾重にも重なった雲を押し分けて天を飛翔し国土を見回って復命して申しあげた事は、「豊葦原の水穂国は昼は猛烈な南風が吹き荒れるように荒ぶる神々が騒ぎ夜は炎が燃えさかるように光り輝く恐ろしい神々がはびこっております。岩も樹木も青い水の泡までもが物言い騒ぐ荒れ狂う国でございます。然れどもこれらを鎮定服従させて皇御孫命には安穏平和な国として御統治になられますようにします。」と申いい、御自身の御子、天夷鳥命に布都怒志命を副へて天降してお遣わしになって荒れ狂う神々を悉く平定され、国土を開拓経営をされました大穴持大神をも心穏やかに鎮められまして大八嶋国の統治の大権を譲られる事を誓われました。その時大穴持命の言われますには、皇御孫命のお鎮まり遊ばされるこの国は大倭国であると申されて御自分の和魂を八咫鏡に御霊代とより憑かせて倭の大物主櫛厳玉命と御名を唱えて大御和の神奈備に鎮め坐させ、御自分の御子、阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木の鴨の神奈備に鎮座せしめ、事代主命の御魂を宇奈提に坐させ、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に鎮座せしめて皇御孫命の御近の守護神とされて御自分は八百丹杵築宮に御鎮座せられました。
2.国譲りの物語の比較
| 古事記 | 日本書紀本文 | 日本書紀第六 | 神賀詞 |
指令神 | 御魂神・天照大神 | 高皇産霊神 | 高皇産霊神 | 高御魂神 |
派遣神 | 天穂日命 | 天穂日命 | 天若日子 | (天穂日命)物見 |
| 天若日子 | 大背飯三熊之大人 | | 天夷鳥命(天穂日の子) |
| 建御雷神 | 天若日子 | | 布都怒志命 |
| 天鳥船神 | 武甕槌神 | | |
| | 経津主神 | | |
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地上の神 | 大国主神 | 大己貴神 | | 大穴持大神 |
| 事代主神 | 事代主神 | | |
| 建御名方神 | (アジスキ) | | |
| (アジスキ) | (下照姫) | | |
| (下照姫) | | | |
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『記・紀』 天穂日命は三年間復命せず、次に天若日子をさしむけるも大国主神の娘の下照姫神を娶るなど裏切ったとして処刑され、葬儀の際、大国主の御子で、天若日子とそっくりな阿遅須伎高孫根命が喪屋を美濃まで蹴っ飛ばすという騒ぎが起こる。
3.天若日子は国譲りのヒーロー
『記紀』が呼び捨てにして、神や命を付けない唯一の神が天若日子である。よほど腹立たしいのだろう。異伝をあげる。
●上神神社(かさがみじんじゃ) 美濃市笠神 下照姫命は大国主命の娘神にして、天照大神の御命令を奉じてお降りになった天稚彦命の妻となり、御二人力を合わせて中津国の御平定に大きな御功績残され、この里にお住居になつた神です。
●勝鳥神社(かつとりじんじゃ)彦根市三津町 天稚彦命が出雲の国から東方へ征伐に出陣された時事代主命らとともに三津に立ち寄られた。美濃の国での戦いで亡くなられた天稚彦命のなきがらを下照姫命の兄が三津にほおむり勝鳥石をたてたと語り伝えられている。
天若日子は、民間では人気者のようで、平安時代の「宇津保物語」「梁塵秘抄」「狭衣物語」などには天若御子の名で登場し、天から降りて来る音楽の上手な美男子として描かれている。また、室町時代の「御伽草子」の中の一編の「天稚彦物語」では、長者の娘の前に「我は海龍王の息子である」と言って現れて結ばれる。しかし、父親に年に1度のデートしか許されず、二人はそれぞれ彦星、織女星となって、毎年一度、七夕の夜にだけ会うようになったとされている。
結局、天若日子は大国主の国土平定が終わっていないと見て、先ず、大国主に国土を平定させてから、国譲りをしてもらったほうが合理的なので、国土平定に力を尽した。これが国譲りの基盤となった。これを助けたのがアジスキタカヒコネと下照姫と考えることができる。
なお、一書六では、国譲りは実に簡単に天若日子のみと記載している。
4.神賀詞の奏上
全国の国造がその代替わりごとに行われていた大王に対する服属儀礼がなされていた。大化の改新や律令制の導入で国造制が廃止された後も出雲と紀伊の国造は、国造を名乗ることが認められた。
とくに、出雲国造は皇孫の支配する前の時代の国王である大国主神の祭祀し続ける役割を持っていたこともあり、旧国造の代表ないし象徴として、『神賀詞』の奏上を命じられたた思われる。 出雲国造の国造就任・神賀詞の奏上・天皇の即位の年代関係は以下の通り。
国造 | 国造就任 | 天皇 | 即位年 | 神賀詞奏上 | 奏上理由 |
果安 | 708 | 元正 | 715 | 716 | 就任 |
広嶋 | 721 | 聖武 | 724 | 724 | 就任 |
| | | | 726 | 聖武即位 |
弟山 | 746 | 孝謙 | 749 | 750 | 就任 |
| | 淳仁 | 758 | 751 | 孝謙即位 |
益方 | 764 | 称徳 | 764 | 767 | 就任 |
| | 光仁 | 770 | 768 | 称徳即位 |
国上 | 773 | 桓武 | 781 | | |
国成 | 782 | | | 785 | 就任 |
| | | | 786 | 桓武即位 |
人長 | 790 | | | 795 | 就任 |
| | | | 801 | 早良親王を崇道天皇と追称に対してか(神奈備推測) |
門起 | 803 | 平城 | 806 | | |
| | 嵯峨 | 809 | | |
旅人 | 810 | 淳和 | 823 | 811 | 就任 |
| | | | 812 | 嵯峨即位 |
豊持 | 826 | | | 830 | 就任 |
| | 仁明 | 833 | 833 | 仁明即位 |
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5.神賀詞が示す大和の神々と現在の状態
神賀詞の神々 鎮座地 現住所 現社名 延喜式の社名
大物主櫛厳玉命 大御和の神奈備 桜井市三輪 大神神社 大神大物主神社
阿遅須伎高孫根命 葛木鴨の神奈備 御所市鴨神 高鴨神社 高鴨阿治須岐託彦根命神社
事代主命 宇奈提 橿原市雲梯 河俣神社 高市御縣坐鴨事代主神社
賀夜奈流美命 飛鳥の神奈備 明日香村 飛鳥坐神社 加夜奈留美命神社
まず、神賀詞ではこれらの神々の御魂を大穴持命が皇孫の守りとして大和に配置したとされているが、何時の時代のことかよく判らないが、大和に既に鎮座していた神社の中から大穴持命に関連の深い神社を出雲国造が選んだものと思われる。この内、賀夜奈流美命については例えば国譲譚は勿論のこと、『記紀』には出てこない神名であり、出雲にもなく、この神の取り扱いが大きい課題である。飛鳥の神奈備の場所については諸説がある。雷丘、ミハ山、稲淵山などである。いずれにしてもそこに賀夜奈流美命を祀る飛鳥坐神社が鎮座していた。神社が遷座し、飛鳥の神奈備には賀夜奈流美命の神霊が留まり、後に加夜奈留美命神社として延喜式に記載された。
『神賀詞』の四柱の神の内、大物主命は大穴持命の事、事代主命と共に、国譲りを受け入れた神々である。阿遅須伎高孫根命は下照姫と共に天若日子に絡んで登場する神々で、広い意味で国譲り関連の神々と言える。
6.賀夜奈流美命
賀夜奈流美命とは下照姫命のことであれば、話は簡単である。いずれにしても、飛鳥坐神社について考えたい。
『日本後紀』巻卅七逸文(『日本紀略』)天長六年(八二九)三月己丑《十》◆己丑。大和国高市郡賀美郷甘南備山飛鳥社、遷同郡同郷鳥形山。依神託宣也。ここが飛鳥の神奈備のことで、稲淵山など候補地に挙げられている。戒成(かいなり)と言う地名である。
鳥形山は飛鳥寺の付近で、現飛鳥坐神社の南西250m付近である。飛鳥坐神社の祭神の異動を追いかけて見る。
創建伝承 大己貴命が娘の賀夜奈流美命を飛鳥神奈備に祭った。『神賀詞』
朱鳥元年(686)天武天皇 飛鳥四社に奉幣。『紀』四社とは、『神賀詞』の四神。
天長六年 飛鳥の神奈備から鳥形山に移転。
文治二年(1186)八重事代主命、高照光姫命、木俣命、建御名方富命 『大神分身類社鈔』
平安末期 飛鳥神、天太玉、臼滝、賀屋鳴比賣 『伊呂波字類抄』飛鳥神とは主神の事代主命、臼滝は現在の飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社のこと。
天保二年(1831) 事代主命、高照光姫命、建御名方命、下照姫命 『飛鳥大神宮社記』
飛鳥坐神社の祭神の推移を見ても、カヤナルミと下照姫は近付いたが、同じ神とは断定できない。 1265年の『大神分身類社抄』には、加夜奈留美は高照姫の別名とあり、下照姫のことと記している。
7.下照姫
カヤナルミ=カヤ+ナル+ミ とする。カヤは伽耶(加羅)、ナルは朝鮮語の「日」、ミは女神のこととみると、赤留姫のことと思われる。伽耶にゆかりの日の女神である。
『垂仁紀』、『応神記』に、難波の比売碁曾社にいる阿加留比売と言うとある。所が難波の比売碁曾社の祭神は下照姫になっている。これは延喜式巻二四時祭下には「下照比売社一座」とあり、同巻三臨時祭名神條には「比売許曾神社一座」と註記するように、「下照比売社」とも言ったゆえである。ここへ来て、下照姫と赤留姫=賀夜奈流美命が同じ神となった。
なお、下照姫を赤留姫の母神とするのは、鈴木真年『百家系図』『諸系図』の「御上祝の系図」である。
出雲の須佐之男命を祀る須佐神社の社家である須佐氏の系譜では、大国主神の御子神の一柱に賀夜奈流美命の名が見え、子に国忍富命、孫に雲山命と続き、さらにその子孫が須佐氏になるとある。
また、吉備津神社の社伝によると、吉備津神社の社殿を造営したのは「加夜臣奈留美命」で、吉備地方平定の為に大和から派遣されて来、命は、吉備の中山の麓に「茅葺宮」を造り、そこを拠点にして吉備地方を大和の勢力下に置いた。その跡に、吉備津彦命を祭る社殿を造営、吉備津神社の始まりとしている。
美作国の布勢神社に賀夜奈留美命や下照媛命が合祀されている。岡山県苫田郡富村。
以上
参考文献
『日本の神々』4大和 谷川健一 『出雲国の社計と信仰』瀧本音之
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