UGA 垂仁天皇

 1.垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)の皇子達。
沙波遅比売命との間に品牟都和気命。
火中で誕生、青年まで唖、この雰囲気は始祖王のようである。
記紀より古いとされる『上宮記』によれば、凡牟都和希王ー若野毛二俣王ー・ー継体天皇とあり、凡牟太和希王ではない、即ち応神天皇ではない。若野毛二俣王は応神天皇の皇子であること、系図の筆頭には天皇がおさまるのがふさわしいので、応神天皇とされている。
氷羽州比売命との間に印色入日子命・大帯津日子淤斯呂和気命・大中津日子命・若木入日子命。
印色入日子命は血沼池・狭山池を造り、鳥取の川上で横刀壱千口を作り、石上神宮に納めまつった。
大帯津日子淤斯呂和気命は次の景行天皇である。
沼羽田之入毘売命の間に沼帯別命(鐸石別命)・伊賀帯日子命。
阿耶美能伊理毘売命との間に伊許婆夜和気命。
迦具夜比売命との間に袁耶弁王。
苅羽田刀弁との間に落別王・五十日帯日子王・伊登志別王。
弟苅羽田刀弁との間に石衝別王。以上十三柱。
石衝別王(伊波都久和希王)の六世孫が継体天皇の母の振媛。

  2.鐸石別命ー別部の犬。

三世孫の弟彦王は神功皇后の新羅征討軍に参加し、功績を上げたので、吉備國磐梨縣を賜り、磐梨別を名乗った。末裔に磐梨別公とよばれた和気清麻呂がいる。

『播磨国風土記』播磨国讃容郡 鹿を放ちし山を鹿庭山と号く。山の四面に十二の谷あり。皆、鉄を活す。難波の豊崎の朝廷に始めて進りき。見顕しし人は別部の犬、其の孫等が奉発り初めき。

鹿庭山は大撫山(兵庫県佐用町)である。民話がある。
 尾撫山は西播磨の大山なり。上古は松杉生い茂りて、頂に大なる池あり。千尋の水底青みわたり、その中に毒蛇住みけり。その形あらわるる時は幾丈成ることを知らず。頭は峰に亘り尾は麓にひける也。鳥獣はもとより人をもとりて喰いければ、あたりには家居もなく、人の往来も絶えはてたり。かくまて人に暴悪なることを天公にくみたまいける。あるときしきりに雷電鳴りわたり、大蛇の住める池に落ちけり。大蛇はみじんに砕けさけて死にうせけり。是より毒蛇の害もなかりければ、人も住み土地も開け村里はいで来にける。その大蛇、尾を以て撫でる時は草木も折れ伏しけるなり。それよりこの山を尾撫山といいならわしけり。今の長尾村、蛇の尾によれるなり。頂の池も今僅かに残れり。この山の土中より蛇骨の石と化したる、今もまま掘り出すなり。又、この山に夕立の雲かかる時は里人ことによろこび勇むも、大蛇の亡びしゆえなるべし。(『佐用町史』から)

古代の説話で大蛇が出てくるのはそれほど多くはない。やはり出雲の八岐大蛇が有名である。
その姿その目は赤かがちの如くして、身一つに八頭八尾あり。またその身に蘿(ヒカゲ)と檜(ヒ)・椙(スギ)と生ひ、その長は谿八谷(タニヤタニ)・峡八尾(ヲヤヲ)に度(ワタ)りて、その腹を見れば、悉に常に血に爛(タダ)れたり」とまをしき。ここに赤かがちと謂へるは、今の酸醤(ホホヅキ)なり。

速須佐之男命、その佩かせる十拳剣(蛇の麁正)を抜きて、その蛇を切りはふりたまひし。

  3.鐸石別命ー磐梨別。

磐梨公和気清麻呂の本拠は備前国石生郷である。ここからは銅鐸が出土している。大和国にも山辺郡石成郷があり、山辺村布留と其の山中の古名である。ここには石上神宮とその元社とされる石成神社(現在は石上神社)が鎮座している。桃尾の滝の下方に鎮座している。
備前国磐梨県に鎮座している石上布都之魂神社(現在は赤坂郡)から、「蛇の麁正」を石上神宮に遷したとされている。布都斯魂神として祀られている。

大和国山辺郡に出雲建雄神社があり、石上神宮に摂社として鎮座している。ほかに都祁村の葛神社も論社である。出雲建雄神社にまつわる伝承が天理市の東の長滝町にある。

民話の「八っ岩」
 むかし出雲の国のひの川に住んでいた八岐の大蛇は、一っの身に八っの頭と尾をもっていた。 素盞嗚尊がこれを八段に切断して、八っ身に八っ頭が取りつき、八っの小蛇となって天に昇り、水雷神と化した。
 そして天のむら雲の神剣に従って、ヤマトの国の布留川の川上にある日の谷に臨幸し、八大竜王となった。今そこを八っ岩という。

 天武天皇の時、布留に物部邑智という神主があった。ある夜夢をみた。八っの竜が八っの頭を出して一つの神剣を守って出雲の国から八重雲にのって光を放ちつつ布留川の奥へ飛んで来て山の中にに落ちた。邑智は夢に教えられた場所に来ると、一っの岩を中心にして神剣がさしてあり、八っの岩ははじけていた。
 そして一人の神女が現れて「神剣を布留社の高庭にお祭りください」という。そこで布留社の南に神殿を建て祀ったのが出雲建雄神社という。

 八っ岩に一っだけ平たいものがある。これをばくち場という。貞観年中(859〜877)に吉田連の一族、、都祁の村公康敬が神殿を造って神格となし、八剣神となし、田井庄町の八剣社として祀られた。
 八っ岩の隣に ほおづき谷というところがある。八っ岩に蛇がいた。その目の玉がほおづきの如く赤く見えたので ほおづき谷という。

  4.八ツ岩探索 神奈備掲示板からスタート
平成13年2月中旬 香具さん 神奈備掲示板に八ツ岩について投稿。
出雲建雄神社(出雲建雄神=草薙剣の荒魂)の由緒には「神主が布留川の上流の日の谷に八重雲が立ち湧き、その雲の中で神剣が光り輝いている夢を見て、明朝その地に行ってみると八つの霊石があって、神が託宣された。

和田萃先生が著書『大神と石上』で、物部氏による祭祀の以前に布留川の水神を祀る祭祀があったことを推測されていて、その中で、さらに松前健氏の推測として、「かつて石上神宮近くの布留川の川床に、七つの神石があった。神霊は布留川上流の『日の谷』に天降るが、神剣をささげ持つ斎女がそれを七つの神石の上に置き、改めて神霊を依りつける神事がが存在したらしい。」ということを紹介されています。

平成13年2月中旬 心さん 天理市田井庄町八剣神社について投稿。
『八剣神を祀る旧村社。『石上振神宮略抄』に「夜都伎ノ神八伎大神ノ変神ニテ、神体ハ八ノ比礼、小刀小ナリ、仍チ八剣ノ神ト申ス」と『記』『紀』神話の素戔嗚命に伐られた八伎の大蛇が、天に昇って水雷神となり、聚雲の神剣となって、布留川上の日の谷に降臨して鎮
まったのが当社の八剣神だと伝える。

平成13年10月中旬 神奈備 長滝町の民話の「八っ岩」を紹介。
平成13年10月中旬 香具さん 土地の人の証言
『日の谷』という処があり、大きさはともかく『八つ岩』と伝えられる岩が存在を確認。
平成13年10月下旬 みんな 龍王神社(りょうさん)長滝町 登拝
『石上振神宮略抄』に「夜都留伎は水雷神で日ノ谷に鎮座する」とある「夜都留伎」神に比定される長滝町長滝町日ノ谷(火の谷)の龍王社があり、最近まで乙木の人々は、旱魃のとき雨乞のために竹之内峠を越え、そこに詣でていたという。。この龍王社を現夜都伎神社の上社的存在と考えるなら、「夜都伎」は本来「夜都留伎」であった可能性もある。
平成14年11月初旬 神奈備 『鳥見山傳称地私考』乾健治氏 昭和14年の資料を民家で借りる。
平成14年11月23日 八ツ岩登拝達成 神奈備でさえ数回チャレンジ おれはここの上だと啓示を受けた気がしたので駆け上がったが見いだせなかった。次回は同じ所を登って発見した。

5.鐸石別の末裔の活躍。

大蛇と八ツ岩の伝承に見るように、出雲から備前、播磨、大和へと、鉄や銅の精錬に従事した人々が移動の足跡とみることができる。大和の石上から銅鐸が二個出土している。
末裔は本国の備前の磐梨で、また大和の石上に移動して銅鐸の製造にかかわった」と思われる。
その名の通りであろう。

八つ岩

出雲建雄神社(石上神宮)

八剱神社 天理市田井庄町

龍王神社 長滝町

  6.垂仁天皇と橘。

 橘は、ヤマトタチバナとも呼ばれ、日本に古くから自生してきた唯一の柑橘類です。

垂仁の時代、皇后の一族がクーデターを計画、鎮圧した事件があった。
 河内で潅漑用水の池を造り、太刀千振を石上神宮に納め、伊勢に天照大神を、また出雲で大神をまつる。丹後から嫁を娶り、白鳥を各地に自由に追いかけて、おり、全国支配近しを思わせる。田島守が忠誠を尽くしたように渡来人を支配下に置き、国の形と基盤が定まってきたように見える。

戦前の小学唱歌
1. 香りも高い橘を 積んだお船が今帰る
   君の仰せをかしこみて 万里の海をまっしぐら
   今帰る 田道間守 田道間守
2. おはさぬ君のみささぎに 泣いて帰らぬ真心よ
   遠い国から積んで来た 花橘の香と共に
   名は香る 田道間守 田道間守

難波の神社の橘
旭神社 大阪市平野区加美正覚寺
 『大阪府全志』から
 この若宮八幡宮の縁起によれば、天平勝宝六年(754)八月、風雨月を越えて止まず、八幡宮の神託に、櫛司と橘を水上より流し、其の止まりたる所に神を祀りなば、水難を止め農民を安穏ならしめんとありしかば、大和・河内の国境より其の二品を流させ給ひしに、智識寺の山上より西北に分れて流れ、櫛司の止まりし所に神社を祭りて玉櫛明神(津原神社)と称し、川名を玉櫛川と呼べり。又、橘は渋川郡に流れて此の賀美郷の川中なる小島に止まりければ、其の地を橘の小島と呼び、東大寺の八幡宮を勧請して若宮と仰ぎしもの即ち当社にして、橘を神木と定められ、当時太上天皇も御幸ありしとの伝説あり。爾来雨を祈りて霊験ありければ、雨乞の宮と唱へて崇敬せられ、神前の橘も常磐の色を変えず子葉孫枝繁茂して芳香を放ちしとならん。

露天神社 大阪市北区曽根崎  左近の桜 右近の橘
喜多埜綱敷天神 大阪市北区神山町 左近の桜 右近の橘
桑津天神社 大阪市東住吉区桑津 左近の桜・右近の橘と彫った石がある。

 橘は、記紀では不老不死の妙薬として出てくるのですが、最近、柑橘類に含まれるノビレチンという物質の薬効についての研究が進んでいます。東北大などの薬学部が手がけているのですが、脳細胞を活性化させて認知症の予防や治療に効能があるということです、近いうちに認知症に効く漢方薬として世に出るのではと期待しています。
 その、ノビレチンが橘とシークヮーサーには特に多く含まれていますので、橘に不老不死の薬効があるという言い伝えは、まんざら嘘ではないように思っています。

 「大和橘」は、日本列島における柑橘類の唯一の固有種である。太平洋岸の暖地に今でもごくわずか自生しており絶滅危惧種に指定されている。古代では食用よりも漢方として珍重され、特に芳香を放つ花や葉が親しまれ万葉集などに数多く詠われている。文様や家紋のデザインにも多く用いられ、近代では文化勲章のデザインに採用されています。樹高は2メートルから4メートル、枝は緑色で密に生え、若い幹には棘がある。葉は固く、楕円形で長さ3センチメートルから6センチメートルほどに成長し、濃い緑色で光沢があります。
 山辺の道周辺は、逆転層という気象現象によって冬でも温暖なので、崇神・景行陵付近で橘の栽培を開始。

   参考

『青銅の神の足跡』谷川健一 講談社
なら橘プロジェクトHP


神奈備