播磨国風土記の旅−姫路市下太田−
姫路市下太田 瓢塚古墳


交通

JR山陽線網干駅→20分→瓢塚古墳

 網干駅から東へ歩く。大津茂川を渡って姫路市勝原区丁に至る。 ここに瓢塚(ひさごづか)古墳と東側の丘や谷奥に横穴石室を主体とする九十基の古墳の群がある。公園になっている。
 瓢塚古墳は揖保川下流域では最大規模のの前方後円墳であり、全長104m。 古式土師器が出土ゆえ、最古式の古墳と考えられている。墳丘には葺き石ろ埴輪が配置、また竪穴式石室が露出。


瓢塚古墳
 

瓢塚古墳→10分→薬司神社

 古墳から北東300mの墓地の間に薬司神社が鎮座。

薬司神社
姫路市勝原区丁字斉茂寺44 丁はヨロ


祭神 少名彦那命 合祀 素盞嗚命
由緒 不明。『峰相記』(1349)に「かって池上寺と言う薬師如来を本尊とする寺があった。」とある。この鎮守であったのかも。
祭日 4月11日 春季例祭


薬司神社
 

薬司神社→10分→下太田廃寺跡

 神社の北500m。但し421号線に出てから北上する。廃寺跡は遠目にも見える。廃寺の北側にはお堂がある。勝部(すぐりべ)の里と呼ばれるのは、その名の鍛冶師が居住していたことによる。『風土記』の呉の勝を村主と同じくスグリと訓でいいんだろうか。マサルとも訓める。
 

 この辺りは下太田字薬師田と言う。先の薬司神社が鎮守社の地域だろう。『播磨国風土記』では、呉(くれ)の勝(まさる)らが紀の国名草の太田から摂津の太田経由で移住してきたと記されている。太田の里である。渡来人であり、仏教の受容も早かったのだろう。彼らの創建になる寺院跡がこの廃寺跡。白鳳時代(7世紀末)の創立のようである。
 字名や多数の礎石、土壇についての伝承などから、一町(109m)四方の境内に大門、五重塔、金堂、講堂などの伽藍を配置した大寺院だったと推定されている。(以上、現地の説明板から)

 『播磨鑑』によれば、本尊は薬師如来。

 廃寺跡の南側は『播磨国風土記』揖保郡の大家(おおやけ)の里域。太田と大家、紀の国の名草の太田に鎮座していた大屋毘古を呉の勝が持ってきたような気がするが、地名以外の痕跡はなさそうだ。


下太田廃寺跡

下太田廃寺跡→15分→吉備神社

 廃寺跡から西の壇特山方面へ歩く。大津茂川の東岸近くに吉備神社が鎮座。壇特山は『風土記』で言う枚方の里の大見山とされる。応神天皇が国見をしたと言う。

 

吉備神社
姫路市勝原区下太田字川田521


祭神 吉備武彦命(日本武尊の従者となって活躍)
由緒 下太田の鎮守。伝承では伊邪那岐神社創建に用いた錐を納めて祀ったので錐神社と称されていた。
 神功皇后の時代、吉備氏が播磨を支配することがあって、氏神に祀られたとも云われる。
 かって、神社南の用水路に家型石棺の蓋石を転用した石棺橋があったが、境内に移設。
 天保三年(1832)の狛犬や伊勢参宮記念の絵馬も多く、旅姿を写した明治四十二年(1909)の珍しい写真がある。
 
祭日 10月15日 例祭 リンク 
下太田の屋台の運行


再建されている吉備神社

 

吉備神社を出て、大津茂川の堤防沿いに北上、新幹線をくぐって太子町太田に入る。

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